ジャンボ鶴田逝く

あるレスラーの孤独な死に寄せて


あのジャンボ鶴田が死んだ。正直余りかっこのいいレスラーとは言えなかった。体は、198cm、125sと大きかったが、猪木のような勝負感がなかった。同じ技を何度も喰って、アワを吹いて倒れては頭を掻きむしって「オー」とやった。でも何故か、憎めずに、テレビに向かって、テレビに向かって、こう叫んだものだ。

ツルタ・バカ・ナンデ・オナジワザ・クウンダヨ・コノサイノウナシ・バカ・マヌケ」と。

ハイスクールまではバスケットボールの選手だっただけに、たいそうバネがあり、相手をロープに飛ばして、繰り出すジャンピング・ニーパットは威力があった。それを喰らった相手は、スタン・ハンセンだろうがドリーファンクJRだろうが、天竜だろうが、もんどり打って倒れたものだ。

数年前(92年)にB型肝炎を患い、長期入院から、人生を見直す決意をした。一念発起して、筑波大大学院に進みコーチ学を一から学んだ。その後は母校の中大や慶大で講師を経験し、昨年三月にはプロレス界からの引退を表明。一転アメリカに渡り、オレゴン州のポートランド大で客員教授として教鞭をとることもした。

しかしその頃、鶴田の肝臓には癌の病魔が取り付いていた。体調を心配する近親者の反対を余所に、鶴田は自らの人生の可能性に挑戦し続けた。肝臓移植を決意し、世界中の肝臓医師を巡り、自分の生命を余さず燃やし尽くそうとした。望みをかけ、フィリピンに渡り、一か八かの手術に、勝負師鶴田は、最後の闘いを挑み、遂に帰らぬ人となった。

まさに鶴田は忠実なジャイアント馬場の弟子だった。人の良さは、天下一品。師匠のジャイアント馬場譲りだった。鶴田は、昨年(99年)のジャイアント馬場の急逝に殉ずるように、四九歳の若さで、師匠の許(もと)に馳せ参じた格好だ。今、天国の彼の許には、師匠の馬場だけではなくライバルだった故ブルーザ・ブロディーや鉄の爪フリッツ・フォン・エリックが、生前の労をねぎらいに来て、談笑していることだろう。でも俺は、人気のないリングに向かって、こう叫びたい気分だ。

「人が良すぎるぞ・鶴田」「若すぎるぞ・鶴田」「猪木の人の悪さを見習え」…。

ジャンボ鶴田(こと本名:鶴田友美)。享年四九歳。レスラーにして、大学教授。不世出のインテリレスラージャンボ鶴田は、レスラーらしく最後の闘いに破れて逝った。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2000.5.17