外国人ドナルド・キーン氏が見た平泉

平泉にある祈りの秘密


 
1 平泉は一度も死ななかった?! 

著名な外国人日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、最初に平泉を訪れたのは、昭和30年ことだった。「奥のほそ道」を何度も読み、氏は矢も立てもたまらずに平泉にやってきた。そして平泉を訪れた時の印象をこのように記している。

「私は日本にきてからすばらしい仏像に夢中になって、これこそ絶対的な美だと時々感じたことがある。広隆寺の薬師如来などがそうであった、だが、震えるほど美に打たれ、自我を忘れて、この世でない世界に入ったと感じたのは、中尊寺の内陣を見た時だけである。」と。

後に、昭和59年9月に「東北文化シンポジウム 平泉」(主催岩手日報社)というシンポジウムで、盛岡にきた時、そのことを振り返って、次のように述べている。
「芭蕉の俳句の中で、いちばん感激するのはどれかと言われたら、高館にのぼれば・・・として詠んだ、”夏草や兵どもが夢の跡””です」

そして、芭蕉がたどった跡をたどってみて、一番強い印象を持ったのは、やはり平泉だったと語っている。

もちろん芭蕉の「おくのほそ道」というものには、芭蕉が多くの虚構を含ませていることを氏は十分に知っている上で、氏はこのように芭蕉の芸術的感性と古都平泉についての熱き共感を語った。

「しかし結局のところ、芭蕉は平泉のいちばんたいせつな真実をいつかんでいます。旅行会社の案内パンフレットにあるような事実をのべたものはたくさんありますが、平泉の特別類まれな美しさや偉大さについて、芭蕉以前にも、芭蕉以降にも書いた人はひとりもおりません。・・・(中略)文化の中心地から遠く隔たった土地の文化、それが平泉文化の特徴です。」

優れた芸術文化というものは、何も文化の中心地にばかり創られるとは限らない。中国の敦厚遺跡だって、カンボジアのアンコールワット、ビルマのバガン、ジャワのボルブドゥールなど、極めて辺境なところに育った文化だ。しかもそれらの遺跡は、長い年月を過ぎて、風雨に晒され、忘れられてしまっている。そしてその忘れられた文明の優れた芸術性を発見したのは、外国人から来た旅人であった。中国の敦厚は、イギリス人、アンコールワットは、フランス人、ボルブドゥールは、オランダ人が発見したものだ。
多くの滅び去って忘れられた文明と比べて、平泉の違うところがある。それは平泉が一度も日本人から忘れられなかったという一点である。これはドナルド・キーン氏が、「平泉は一度も死ななかった」という表現で強く主張されていることだ。ではなぜ、氏が言うように平泉という都市は、「死ななかった」のだろう。
 

2 金色堂にみなぎる生気?!

東北に生を受けた者としては、どうしても、文治五年(1189)の9月の奥州合戦の敗北によって、奥州は滅びてしまった、と考えがちだ。しかしキーン氏は、それでも平泉は生きていたと考えている。その第一の理由は、氏が昭和30年に、金色堂に入った時の直感よるものだ。その時の感動を、氏はこのように語っている。

「それ以前から私は写真などで平泉の仏像を知っていましたけれども、実物を見ると、そのすべてが一体の仏像でなく、全体が私の目に入った。そうすると私はまったくその中に溺れるような気持ちで、出られないような気持ちになりました。そうすると私はその世界に入った時、震えたのです。それは極めて直感的な話になりますが、私の場合、いつも直感を大事にしています。つまり美術に限らず、音楽でも、なにか私の背骨に冷たいものを感じたときに、本物にぶつかったのだと直感するのです。この直感は極めて非科学的ですが、金色堂の内陣を見た時に、私はきっとその全体的な美しさに驚いたのだと思います。中宮寺の弥勒菩薩はすばらしい飛鳥彫刻の代表作品ですし、広隆寺の国宝、弥勒半跏思(かし)像もすばらしい作品です。しかし金色堂の場合は、一つの世界が私の目の前に広がっているというような感じで、ものが言えなかったのです。」

西洋人は概して、日本人に比べて論理的思考の傾向が強いと言われる。その西洋の知識人が、直感で、金色堂のすごさを感じ取ったというのは面白い。思うのだが、芸術の本質は、論理性にあるのではなく、直感性にこそある。キーン氏が感じ取った金色堂の感動は、何か得たいの知れない生きているものがそこにあるという直感だった。考えてみれば、仏像にしても、清衡公・基衡公・秀衡公の御遺骸にしても、死した骸(むくろ)に過ぎない。しかしそんな命なきものが納められてお堂で、氏は生を感じたのである。
 

3 平泉に永遠に生き続けるもの

そのように考えてゆくと、平泉の金色堂そのものが、生あるひとつの生き物のようにして存在しているのかもしれない。古来より、日本の考えでは、死は肉体の消滅であって、魂の消滅ではなかった。古事記や日本書紀の中でも、イザナミの尊が、カグツチという火の神を生んで亡くなり、「黄泉(よみ)の国」という冥界へと旅立つ。黄泉の国は、根の国とも言われ、罪や穢れの集まる所と考えられていた。また古代には、黄泉の国とは、別に「常世(とこよ)の国」という考え方もあった。ここは、日本列島に住んでいた古代人たちが、信じていた海の彼方にある楽園のことである。おそらく日本列島に住み着いた縄文の民にしても弥生の民にしても、自分の体内に遠い祖先たちが、命の危険を冒しながら大海を渡って来た記憶があったはずだ。と同時に、海の向こうには、必ず常世があると思っていたに違いない。仏教の言葉で言えば、黄泉の国は、「地獄」あるいは「奈落」となり、常世は「極楽浄土」となる。

キーン氏は、直感をもって、平泉こそ常世だと感じた。氏はこんな風に平泉の印象を語っている。
「京都の東寺には、金色堂と同じような仏像がたくさん並んでいます。しかし金色堂の仏像と比較すると、感じが全然違うのです。東寺の場合は大きさ、すごさを感じますが、金色堂の仏像にはまったくすごさは感じません。むしろ金色堂に立つと自分が巨人になったというような錯覚を起こします。仏像はみんな小さく見えて、自分だけが大きい感じです。…(中略)もし清衡がはじめから金色堂を自分の墓として建てたとすれば、自分が仏像よりも大きいということになります。別の言い方をしますと、金色堂にあった三大の藤原将軍たちは、みんな浄土へいかなくても、けっこう浄土に入ったのです。このこの土地が浄土であるという印象が非常に強いのです。極めて現世的なのです。これほど現世的なところを私は知りません。あの世がいらないのです。この場所より美しいところは他にはあり得ないと考えられます。あるいは初めから永久に生きることを望んでいたのではないかと思われます。」

平泉という都市を建都した初代清衡の心には、初めからこの場所に極楽浄土を造る。そこで永遠にここに留まって永遠にこの地を見守り生きる。そんな思いがあったのかもしれない。確かにキーン氏が言うように清衡公が、そのような発想をもって、平泉を都と定めたことは、十分に考えられることだ。金色堂がある中尊寺を、平泉の住民たちは「山」という言い方をする。「山」とは、古来、神が鎮座する神道の思想に叶う場所である。神道の考えによれば、人は死後、山には行って神となる、そう思われていた。清衡公以下藤原三代の将軍たちは、山に鎮座して、平泉という都市を万民安寧の都として、祈りつつ神や仏となる己自身を強く意識していたのであろう。清衡公が、強い思いをもって起草させた中尊寺供養願文の行間を読めばそのことは一目瞭然に実感できる。

「…蓬莱山にある御殿に、太陽と月の光が、音もなく静に伸びて、善行という林の中で (私は)煩悩から目覚め、すっかり心が晴れ渡りました。まるで金輪王(転輪王のうち最後に出現し、金の輪法を感得して四州全体を治めるとされる聖王)のように、心は不動となり その衣すら動くことは無くなりました。」(中尊寺供養願文抜粋現代語訳佐藤) 

これは私の推測であるが、ここにある「蓬莱山」とは、中尊寺のある「関山」を指し、御殿を「金色堂」と考えたらどうであろう。まさにこれこそが、キーン氏が直感した「現世的」ということではないだろうか。もっと分かり易く言えば極楽浄土なのである。できてからしばらく、金色堂は、皆金色の眩しき姿を、見せて四季を通じて朝な夕なに眩しく輝いていた。おそらくその姿を見た者は、ただ手をあわせ祈りを捧げずにはいられなかったに違いない。金色堂は、この平泉の中心にあって永遠に輝くという意味で皆金色の祈りを込めた生気溢れる御堂であったのだ。

ただ中尊寺供養願文には金色堂の記述がない。それは歴史のなぞとされている。おそらくその意味は、金色堂が、私的な自らの御霊屋(みたまや=墓)として建てた為であろう。そこには中央に対する遠慮がある。遠慮は抑制と言い換えられる。だからこそ金色堂は、あのように小さい御堂でありながらもあのように限りなく美しいのではないだろうか。しかもそこに凝縮されている思想というものは、実に壮大で、世界精神に連なる発想が見える。悲惨な戦争を経験した清衡公だけあって、その平和への祈りは、人類がこの世に存在する限り、永遠に生き続ける思想だ。
 

4 清衡公の思想

「吾妻鏡」の文治5年(1189)9月11日の条に、中尊寺の心蓮という高僧が、祈り都市である平泉という都市を征服者の手から守るべく、清衡公の祈りの思想をもって、平泉の歴史を平泉に駐屯中の頼朝に語った。内容は、どのようにして平泉という都市は造られたか、そして又、清衡公という人間はどのように信心深い人物だったのかということに尽きる。所謂「寺塔巳下の注文」(じとういかちゅうもん)と云うものである。

「…(前略)金色堂ですが、上下の四つの壁から内殿で至るまで皆金色でできています。堂内は、三檀を設えてありますが、ことごとく螺鈿でできています。阿弥陀三尊、二天、六地蔵があり、これは定朝が造ったものです。鎮守として、南方には日吉社を祀り、北方には白山ノ宮を勤請してあります。この外に宋本の一切経蔵、内陣から外陣に至る荘厳、数棟の楼閣なども、その報告についても怠りなく、およそ清衡公の在世期間三十三年の間に、わが国の延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などから、中国の震旦(しんたん)天台山の根本道場に至るまで、寺ごとに「千僧供養」(せんそうくよう:千人の僧侶を集めて行う大法会のこと)をしてきました。(その信心のお陰か清衡公は)入滅の年に臨んで、にわかに逆善を始めてこれを修め、それから百ヶ日間の結願の時に当って、ひとつの病もなくして、ただ合掌し、仏の名を唱えながら、眠るようにお亡くなりになったのでした。(後略)」(現代語訳佐藤)

この文章を現代語に訳しながら、不思議な気分になった。清衡公は、その在位にあった33年間の間に、千人の僧侶を集めて、盛大に執り行われる千僧供養の大法会を、次々と日本の名だたる大寺院で開催した。まず延暦寺(京都)、次に園城寺(おんじょうじ:滋賀県にある三井寺の別称あり)、東大寺(奈良)、興福寺(奈良)…。ここまでは何となく理解できる。しかし中国の天台山の根本道場にまで、人をやって、千僧供養を行ったというのである。とうてい初めは信じられなかった。もちろん財力があったからできた訳だが、お金があるからできるという類のものではない。清衡公の信心の深さというものがあって、初めて叶うものだ。願文の行間というものを、何度も繰り返し読むうちに「なるほど、清衡公ほどのひとならば、その位の事は成し遂げてしまうかもしれない」と考えるようになった。こうして初代清衡公は、大治3年(1128)、おそらく阿弥陀仏の来迎を観想しつつ、仏の名を呼びながら、見事な大往生を遂げた。享年は73歳であった。

もしかすると、金色堂の中で、ドナルド・キーン氏が感じた「平泉は一度も死ななかった」との直感は、清衡公の魂が、金色堂の内陣にあって、永遠の命を得て生き続けているためかもしれないとさえ思えてくる。
 

5 金色堂は、極楽浄土をイメージする装置か?!

浄土のイメージを観想することを説いた観無量寿経(浄土三部経ひとつ)という大乗仏教の教典がある。このお経は、イダイケというインドのマガダ国の后にブッダが、浄土に往生するための方法を懇切丁寧に説くという形式で書かれているものだ。実に浄土の具体的イメージが伝わってくる教典だ。

ブッダは幽閉されているイダイケに、「浄土を観想する方法」をこんな感じで説く。
「『・・・生ける者よ、心を一つにし、思いを集中して西方を観想せよ。目のあるものは、皆沈む太陽を見ることができるはず。西に正座して、沈む太陽を見よ。・・・見終わったならば、その像が目を閉じても、明確にその像が観想できるようにせよ。これが日想である。・・・次は水の観想をせよ。水の流れの微細な様を見て、それを明瞭に心に納めよ。次に氷を想え。次に青き瑠璃(るり)の宝石を想え。・・・これ水想である。・・・次大地、宝樹、宝池を観想せよ。極楽浄土には、八つの池水がある。七宝よりなり、それは柔らかな宝石で、あらゆる願いを叶えてくれる源から溢れて、十四の支流へと分かつ。次に楼閣を想え。この中には、無数の天人がいて、無上の音楽を奏でる。・・・ここまできたならば、極楽浄土を観想したと言えるだろう。』・・・さてこの時に、イダイケの前で、阿弥陀如来は虚空に現れ、観音菩薩と勢至(せいし)菩薩がその両脇に立ったのでした。そして、イダイケは、ブッダに言いました。『尊き人(ブッダ)よ。私は、阿弥陀様とふたりの菩薩を見ることが叶いました。しかしこれから生まれて来る者たちが、どのようにしたら、この三人の菩薩を見ることができるでしょうか。』ブッダは答える。『仏を見たければ、七宝の大地の上に蓮の華を想え。蓮の華が美しく微細に咲き誇るのを想え。その花びらには、八万四千の筋があり、そこから八万四千の光が射し、金色の光をなす。鏡に己の顔は映るようにその華を想え。そうしたならば次には、心を一所に集めたならば、心の眼が開いて、華の台座の上に座す金色の仏を観ることが叶うであろう・・・』」(意訳して簡略化=佐藤)

金色堂の内陣の中央には、まさに阿弥陀様が中央に鎮座し、その両脇には観音様と勢至様が控えているが、この姿は、この観無量寿経の教えからきていることは確かだ。つまりこの金色堂は、ここを訪れる者に、より具体的な形で、極楽浄土を観想させ、往生するための方法を教え諭すために建てられたとも言える。いやもっと分かり易く表現すれば、金色堂は、極楽浄土を観想するための装置だった可能性がある。

考えて見れば、金色堂は、関山の高台にあって、蓮の華の如き形状をしている。金色堂は、黄金の蓮としてイメージされたものかもしれない。そして平泉のどこからでも、日の光にあるいは月の光に照らされて極楽浄土の池に咲く蓮華のように輝いて見えたことだろう。キーン氏は、「現実的」(リアリティ)という言葉を使ったが、それは金色堂というものが、初めから訪れる者を浄土のイメージを観想させるために造られたためなのかもしれない。あのように多くの園池を各所に配置した理由も、観無量寿経を読めば、よく分かる。やはり金色堂は、観無量寿経の説く極楽浄土をイメージして造られた可能性が高い性が高い。同時に平泉という都市も、極楽浄土をこの地に実現しようということを基本コンセプトとして設計された中世都市であったのである。つづく

佐藤
 

 


2003.4.4
 

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