義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ

歴史としての広島

−歴史と神話化−


 
 また8月7日が来た。そこで今日は、広島の歴史について書こう。

歴史とは、記憶である。魂の奥に刻まれる歴史である。今や聖書にある大洪水の記憶が、全人類の歴史として神話化されてあるように。またソドムとゴモラの破壊が、堕落の戒めとして、誰しもの心にあるように・・・。

広島長崎に落とされた一個の原爆の記憶は、人類史の中で、魂の奥底まで、刻みつけられていくに違いない。我々日本人は、営々としてこの不幸な歴史の原因とその顛末と被害の甚大さを問い続けて行かねばならない。

もしかしたら、この魂の記憶がある限り、日本という国家は、人類史の中で、永遠に忘れられない民となるかもしれない。そこで、そこに落とした側の論理だが、聖書のソドムとゴモラよろしく、「神」の御技(みわざ)としてはならない。

旧約聖書のソドムとゴモラの悲劇は、実際にあった歴史の神話化されたものとして私は考えているが、その立場で考えれば、戦勝国アメリカの歴史という記憶からすれば、このようになるであろうか。

「あれは悪しき日本という国家が、暴走して、アジア諸国を軍事力を持って席巻し、あまつさえ我がアメリカのパールハーバーを奇襲し甚大な被害を被ったことによって、遂に我がアメリカは、この天皇をいただく軍事国家日本帝国と交戦するに及んだ。我が方は、次第にこの帝国の野望をうち砕き、本土に次第に近づいて行った。しかし日本本土決戦となった場合の、双方のとてつもない被害の大きさを考え合わせる時、丁度新兵器として完成した原子爆弾を行使することによって、この己を「神国」といきり立つ民族の、正気を取り戻すためにも、やむなくこれを広島長崎の二都に使用したのであった。」

それが神話化される過程では、このようになるであろうか。
「我が神「アメリカ」は、悪しき神「ニホン」の野望の凄まじき勢いに、ついに怒りを持って立ち上がった。そこで業火を持って、この神の手に当たる都市を焼くことを思い立った。この神は、非常に手先が器用だったので、ありとあらゆる武器を見ただけで作ることが出来たからだ。そこで我が神は、まずこの手となっていた都市広島を焼くことを思いたった。その日は、遠い昔、夏晴れた日だった。神は巨大な空翔ける舟を造り、銀色に輝くイルカに似たものを落とし、この都市を焼いた。
続いて神は、長崎に向かい、これを落とした。二つの都市は、一瞬にして業火に包まれ、この悪しき神は、我が神「アメリカ」に敵わぬと見て、降参したのだった・・・。」

さて、歴史とは、記憶であるとするならば、日本人の記憶にある広島長崎の悲劇の記憶が風化しないように、既に一部神話化の過程に入っていかねないアメリカの記憶に対して、鮮明な戦争の記憶としての原爆の驚異を正確に伝えて行かなければならないのだ。何故ならば、それは原爆を落としたアメリカを断罪するための行為ではなく、人類が二度と蒙ってはならない悲劇であるからだ。だからこそ決して神話化などさせない気骨をもってこの悲劇を「純粋な記憶」として人類史並びに魂の中に固着(記憶)させなければならないのである。佐藤
 

 


2001.8.7

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ