下北沢風景論-2006

迷宮のような街「下北沢」を散策し景色という宝石を探してみる・・・


佐藤弘弥


下北沢の北口駅前
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


下北沢の駅前再開発問題が、10月2日のアメリカニューヨークタイムズ誌に掲載された。

記 事の内容は、「アメリカの文化人が住むグリニッチ・ビレッジのような雰囲気を持つ街」、「アジアで最も今風の街」、「メガポリス東京の若者文化の震源地」 と下北沢が醸し出すイメージを評価する一方、低層アパートや住宅地が隣接したご近所付き合いが残る庶民的な街として、この街の駅前が、25mの道路によっ て分離される事実を記している。

その上で、若者たちが、10月1日夜、キャンドルを手にかざしながら、再開発反対のデモをしたことを写真付きで紹 介しているのである。

記 事の中では、再開発に対する賛成派と反対派のそれぞれのコメントを掲載している。その記事内容は、概ね賛成派を、古い地主たちに多いとし、新しく下北沢 にやってきた店のオーナーたちは、この街の特徴を生かすような再開発を望んでいて、反対の態度を鮮明にしていると結論付けている。




変わりゆく景観  下北沢の駅前
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)



少し単純な図式化にも思えるが、私はこの記事 で幾度も登場する「ご近所」(ネイバーフッド)という言葉に響くものがあった。確かに下北沢において、駅周辺から住宅街にまで伸びる街の雰囲気は独特のも のがある。特に迷宮に蜘蛛の糸か迷路のように伸びる路地はそれ自体が下北沢の大きな魅力ともなっている。反面、 下北沢では、その入り組んだ土地建物の所有権が手かせ足かせとなり、容易に再開発を許さない事情があった。

下北沢
は不思議な魅力がある街だ。駅に降り立ち、北口でも南口でも足を向けると、小物 や古着、小さなレストランなどが、駅前から住宅街の方にまでパッチワークのように点々と軒を連ねている。歩いている世代層は、若者が多いようにも感じる が、おじさんやおばさんも結構いる。下北沢は、一般に言われる「若者の街」というだけではなく、様々な世代の人々が自分の贔屓のお店探しにやって来れる街 を形成しているようである。つまり下北沢は、ニューヨークタイムズの言うように、かつて日本のどこにでもあったはずの「ご近所付き合い」が出来る街という 表現も当たっていると思う。




賑わう古着店前
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)

もしもこの「ご近所付き合い」が、下北沢に人 が集まる理由であるとすれば、再開発事業が、これを水泡に帰する類の開発であるとしたら、この工事の完成したことによって、下北沢は、他の街と変わらない 人為的に整理されただけの「人工的な街」に成り下がってしまう危険があると言わなければならない。

「再開発」と「ご近所付き合い」を頭に置いて、駅前を歩いてみると、駅前周辺が大きく変わりつつある現実に愕然と する。まず下北沢らしいこじ んまりとした店がだんだんと減って巨大な資本の店が増えていることがある。最近では、第一勧業銀行のあった北側の一角が安売りスーパー「オオゼキ」になっ たこ とだ。その線路を挟んだ東側には、居酒屋チェーン「庄や」が駅の真ん前に大型店を開店させている。彼らは今度の再開発を見越しているが、その景色はこれま での下北沢のそれとはまったく違う風情を醸し出しつつある。

小さな店が林立したラビリンス(迷宮)のような下北沢のイメージが変わろうとしているのだ。土地の評価が上がり、 とても小規模資本の店は、借りる保証金を払えず、スーパーの「オオゼキ」に至っては、第一勧銀の所有していた駅前の一等地を買い上げてしまったという話で ある。下北沢にも資本の論理が、押し寄せて来ているということになる。

このまま再開発が進むことになれば、下北沢の駅周辺の景観はガラリと変わってしまうことは明白である。




スズナリ横町
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


下北沢は、演劇の街である。ざっと思いつくだけでも、「本多劇場」を筆頭として、「駅前劇場」、「ザ・スズナリ」 などがある。この大小の芝居小屋に多くの演劇人が集い日夜熱い活動を展開している。スズナリは、南口より歩いて5分の位置にあり、今や下北沢のランドマー クの感のある北沢タウンホールの斜向かいにある古い芝居小屋だ。この芝居小屋がある雑居ビルには、、「シネマアートン下北沢」という名画座などもある。他 に古本屋、バー、焼き鳥屋などが軒を連ね下北沢らしい独特の雰囲気を醸し出す空間となっている。

かつてこのスズナリ劇場の一角は、小さな民家なども建っていたようだが、段々と人がいなくなって、この雑居ビルだ けが、ポツンと残っている。ビルの背後に回ってみると空き地が拡がっていて、駐車場に利用されたりしているが、どん詰まりの狭い路地もあり、防災上はとて も危険にみえる。駅前再開発とは別に、このスズナリをどのように建て直して、演劇の街下北沢らしい雰囲気の一角にするかというのは、それだけで大変なテー マと成り得るだろう。

実はこのスズナリを運営しているのは、本田劇場を経営する本田一夫氏であり、地元の噂では、この人物は、不動産屋 さ んのような人との認識が拡がっている。さらに本田氏は、駅前劇場や、「劇」小劇場、「OFF・offシアター」のオーナーにもなっているようだ。とすると 演劇の街下北沢の中において、本田劇場グループの意向というものは再開発において、大きな力になってくるはずだ。自己不動産の価値の上昇を計ることと、演 劇の街下北沢の文化的価値を創出することを一致させることは容易ではない。単なる下北沢に観劇のために訪れる人にとって、本当に魅力的な街並みを作るため にも、現在のスズナリにあるような小さな店がそのまま入居し立派に経営が出来るようなものにしてもらいたいものだ。




駅前の落書き現場
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


現在、下北沢の街は、日本中の街と同じく「らくがき」と「放置自転車」に悩まされている。まず落書きだ が、南口商店会では、「落書き消し隊」なる組織を結成し、ボランティアの若者なども加わって不定期に落書き消しの努力を続けている。確かにそんな市民の自 発的な努力もあって、一頃の最悪期は脱した感があるが、それでも落書きをする不心得者が街から居なくなる気配は一向にない。

次には放置自 転車の問題だ。下北沢は、小田急と井の頭線の交差するターミナル駅だけあって、下北沢周辺には、戸建ての住宅に加えてマンションやアパートなども多く、駅 前周辺まで自転車で通勤する人は増えることはあっても減ることはない。その為、駅前周辺の道端という道端には、所狭しと放置自転車が道をふさいでいるのが 現状だ。中には極端に歩道が狭くなり、車が通ると大変危険な状況になる場所もある。ここ数年来、放置自転車を都が一網打尽にし、一時的には無くなるのだ が、翌日から一台また一台と増えて結局元の木阿弥を繰り返している有様だ。さらに靴屋、雑貨屋などの小売店の中には、歩道にまで商品を並べるような店もあ り、交通安全上も美観上からもけっして褒められたものではない。

この問題ふたつを考えるだけで、、迷宮に自分のお目当ての宝物を探すよう な魅力に富んだ街下北沢のイメージがたちまち崩れてしまうのである。この落書きをする気持ちを起こさせない為には、様々な工夫が必要であると思うのだが、 閉店後にシャッターによって遮断する商習慣も含めた下北沢商店街自身の意識改革も必要ではないかと思う。





 北口駅前の放置自転車
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)

ある古着屋などは、閉店後も明か りは付けていないものの、深夜でも中の商品を見れるような取組をしているところもある。そこには落書きなどの不心得者は出没しないようだ。いっそのこと、 欧米のリゾート地のように、深夜でも明かりを付けて「ウィンドウショッピング」できるような工夫も考えてはどうだろう。落書き犯の最良 の防御は、街が落書きを許さない雰囲気が漲っていること。もうひとつは、常に周囲をきれいにしていることである。その意味で薄汚れたシャッターは、落書き 犯からすれば、絶好のキャンバスにしか見えないのであろう。

下北沢の駅周辺から放置自転車をなくす取組は、前から言われていることである が、駐輪場の整備か、あるいは思い切って「自転車放置禁止条例」のようなものを制定して、下北沢駅周辺半径1キロ以内(?)には、自転車を放置できないよ うな体制にすることも必要かもしれない。人混みの中を「チリリーン」と、鳴らしながら、わが物顔で通ることは通行人の視点でみれば実に危険である。




徳川家康の次男秀康の位牌を安置した森厳寺の静謐
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


昔、下北沢周辺は、江戸に野菜などを供給する農村地帯だった。今の反映ばかり見ている私たちには俄に考えられないことだが事実である。

現在下北沢と一般に呼ばれる地域は、代田村と下北沢村と呼ばれていた。かつて下北沢周辺は坂の多いところで田んぼよりも畑が多かった。理由は富士山の噴火 で積もった関東ローム層と呼ばれる赤土のためで、「主な作物は陸稲(オカボ)、麦、イモ類、野菜は大根、ゴボウ、長ネギ、小松菜、夏野菜はキュウリ、ナ ス、トマト、インゲン、スイカ」(「ふるさと世田谷を語る」編集発行 世田谷区生活文化部文化課 平成9年 P86)などだった。また「下北沢のタケノコ は、丈が45センチ以上もある大きさでも、とても柔らかく味の良いのが特色」(同書)で、良い収入源となっていた。また「お茶の栽培は、明治二十年 (1887)以降に始められたとされ」、「代沢茶と名のつくほど」だった。「下北沢から南へ抜ける茶沢通りの名も、三軒茶屋と下北沢から一字ずつ取って付 けられたもの」(同書)だったのである。それでも現在桜並木が東西に続く旧北沢川周辺には田んぼもあったという。この茶沢通りが賑わうようになったのは、 昭和8年(1933)に道が舗装されるようになってからのことである。

堕落論で有名な小説家坂口安吾(1906-1955)は、下北沢の代沢小学校で代用教員をしていたが、当時(1926年=大正15年)の話を「風と光と二 十の私と」という自伝的短編に次のように記している。

「・・・私が代用教員をしたところは、世田ヶ 谷の下北沢というところで、その頃は荏原(えばら)郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪 だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、 学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでるあた りがどうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵 野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここ へよく子供をつれて行って遊ばせた。(後略)」(「坂口安吾全集4」ちくま文庫、1990所収)

安吾の漠然として風景描写の中で、現在とはまったく違う下北沢の姿が彷彿と甦ってくる。安吾が下北沢に住んでいたのは大正14年(1925)から1大正 15年(1926)の僅か一年であるが、この頃はまだ小田急線(昭和2年敷設=1927)も井の頭線(昭和8年=1933)も敷設されていない時期だっ た。間違いなく、現在の下北沢駅周辺は、武蔵野の原野を思わせるような緑豊かな風景が拡がっていたのであろう。



北沢八幡神社の例大祭の賑わい
(2002年9月8日 佐藤弘弥撮影)


現在の茶沢通り沿いの代沢三丁目周辺にある森厳寺(1608年建立)や北沢八幡神社(室町中期吉良家によって勧請)辺りが下北沢の中心地域でそこに代沢小 学校が建てられていたのである。考えてみると、下北沢の街の喧噪を離れ、下北沢住民の精神的ルーツとも言うべきこの辺りに来てみると雑然と拡がる下北沢駅 周辺とはまったく違う静謐(せいひつ)が辺り一帯を支配し、聖なる空気に包まれている。しかし年に一度九月初旬に催される例大祭では、子供神輿をはじめと する二十数基の神輿が北沢八幡神社の境内一杯に所狭しと集まって来て大変な賑わいを見せるのである。

考えてみれば、現在の下北沢の街が、小田急、井の頭両線の下北沢駅敷設に伴い、八十年年間という極めて短い時間軸の中で急激に発展してきたものと考えられ るのであるが、この寺社という神仏に対する祈りというものを抜きに下北沢を論じることはできないと思うのである。




南口商店街を抜けた庚申堂前にある老舗の八百屋「膳場青果店」
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


明治以降の近代日本において、下北沢のような新興都市の発展の流れは鉄道の敷設と密接に結び付いている。下北沢に限らず、旧市街というものは、別のところ にある ケースが多い。理由は極めて簡単ことである。敷設計画時点で、地価が比較的安く、しかも権利関係が複雑でない地域が選ばれることになるからだ。


下北沢の場合も、この流れに沿って発展してきたと思われる。昭和四年(1929)四月小田急電鉄が、新宿と小田原 を結ぶ鉄道を敷くと、それから街の様相は 見る間に変化していった。鉄道の「ヒト・モノ・カネ」の流れを劇的に変えたのである。

以前の街場と言えば、北沢小学校から500mばかり茶沢通りを南に行った地点で交差する淡島通りであった。かつてここは滝坂道と呼ばれ、周辺で唯一舗装さ れていた道であった。軍関係の施設が駒場にあった関係もあり、整備が進められたものと思われ、街場が形成され賑わっていたのである。

現在この淡島通りは、すっかり寂れてしまった。行ってみたいような店もあるのだが、単発的で足の便が悪いこともあり、中々足を運び辛い立地になってしまっ た。

現在でも南口商店街の外れの三叉路には大人の背ほどの庚申堂(こうしんづか)がひっそりと立っている。年の暮れになるとこの前に、正月のしめ縄や 松飾りなどが並ぶのであるが、この塚より先は家はなく原野であったというから、ここから北に250mばかり先の小田急下北沢駅は、丘陵地を避けた平地が幸 いし、駅の敷設場所として選ばれたものと思われる。

日本における明治以降の新興都市の発展は、それまでの街道沿いに形成された宿場型の街から、鉄道の駅周辺に拡がる形で形成されたものである。この変化は劇 的なものだった。

こうして下北沢駅から本村と呼ばれる森厳寺・北沢八幡神社を結ぶ道が新たに形成される。それが南口商店街の通りを抜けて茶沢通りと合流する道である。さら にここから旧街場と言うべき淡島通りと交差し三軒茶屋に向かう茶沢通りが作られたのである。かつて茶沢通り沿いには小川が流れ、大雨が降った時などは、板 を渡して通ったというから、今の風景からは考えられないことである。




最近の下北沢の店で目立つのは、大型のスニーカー屋と小型の携帯販売店の台頭である。スニーカー屋は、南口界隈だけでも5店舗ほどが軒を並べている。それ ぞれ一、二階を使用し、かなりの大きなスペースで、若いスタッフを複数雇ってしのぎを削っている。地元資本の店は、一店舗だけである。他の4店舗はチェー ン店である。

携帯販売店は、省スペースの店を構え、乱立気味である。このところ、下北沢のテナント料は高騰している。大型店舗では、保証金が数千万するということだ。 携帯販売店は、小型店舗だが、駅前周辺は保証料が高く数坪で一千万を越えることも珍しくない。個人で、下北沢の商店街に進出するのは容易ではない。

また下北沢では新しいタイプの賃貸不動産屋が押し寄せているのも注目される。反面、これまでの地元に古くから下北沢に店舗を構えてきた業者の影が薄くなっ てきていることも事実だ。紹介している物件を見ると、7万から10万ほどのワンルームが多く、下北沢に住みたいと一種の憧れを抱く若い層のニーズに応えて いるのである。




茶沢通りが「下北沢の骨董通り」になる?!
(200610月15日 佐藤弘弥撮影)

それから最近特に注目されるのは、昔から下北沢には、骨董品や古道具を並べる店が結構多かったのだが、新たな傾向として、まだ空きがあり、駅前と比較して 保証料賃貸料が安い茶沢通り沿いに古道具や骨董品を並べる店の出店が目立っている。下北沢の場合は、骨董品と言っても、高価なものというよりは、比較的安 価なものが多く、この街に集まる顧客層のニーズとフトコロ具合に合わせたビジネスという感じがする。

こうして下北沢の店舗進出の傾向をみると、ますます下北沢という街が若者に特化した街になりつつあることを物語っていると言っていいだろう。





小田急 線と井の頭線の敷設によって劇的に発展した街下北沢?!
(200610月15日 佐藤弘弥撮影)



街の発展史から言えば、「下北沢」という街は、かつて「本村」と呼ばれた北沢八幡神社と森厳寺周辺から始まったと考えてよいであろう。北沢八幡神社の勧請 は、社史によれば、文明年間(1469〜86)吉良氏によって勧請されたと伝えられている。

かつて街が形成される場合には、方角を読み、「四神」(しじん)の考え方を入れて吉地を占ったはずである。これを風水と呼ぶ。風水は読んで字の如く、風の 流れと水の流れを考えて、都城、住居、墓の位置を決めていく方法(術あるいは学問)であった。

一般に、「四神」の方位とは、東に青龍(せいりゅう=川)、西に白虎(びゃっこ=道)、南に朱雀(すじゃく=湿地)、北に玄武(げんぶ=山)を配置した土 地ということになる。

これを下北沢の旧本村に考え合わせると、青龍は現在の茶沢通り沿いに流れていたはずの小川、白虎は淡島通り(滝沢道)、朱雀は北沢川一帯、玄武は北沢八幡 神社、と想定することが出来る。この地を開拓したとされるのは、吉良氏の重臣であった膳場一族(伊東家)と言われている。先に紹介した坂口安吾が一年間教 鞭を取ったという代沢小学校もかつては、伊東家の私有地に建てられたものである。

四神の方位の考え方で考えるとこの膳場一族は、淡島通りの北辺に一帯に居を構えたと思われる。

そして鉄道が敷設されるという劇的な変化が起きて、下北沢の街は現在の下北沢駅周辺に中心街が移ったのである。そして改めて、下北沢という街が吉地になっ た理由を、風水の考え方で再考してみると、新たな四神がそこに存在するということが分かる。もちろんこれは私自身の仮説であるから、絶対なものではない が、栄える街というものは、やはり風水師が介在しなくても、風水に考えに沿ったところに落ちつくから不思議である。

新たな下北沢の街の四神を考えれば、青龍とは川ではなく、大量の人間を輸送する鉄道という川ではないかと思う。もちろん異論はあるだろうが、しばし黙して 聞いてもらいたい。白虎は井の頭線、玄武は、天狗祭りで知られる真龍寺、そして朱雀は「旧北沢川」(注)の桜並木沿いの通 りである。

*注:この川は 暴れ川で洪水なども引きおこしたが、地下に埋設され下水管と一緒になったが、最近区が人工的ながら小川を復活させ、緑と水の流れを復活させ好評を博してい る。ただ寿命の短いソメイヨシノ(桜)が老化し、手入れも十分ではないのが気がかりである。

鉄の道である小田急線を青龍、井の頭線を白虎としたことは、私の閃きである。この百年間で世界で起こったことの最大のことは、イギリス人ジェーム・ワット (1736-1819)によって発明された蒸気機関であった。これによってイギリスでは産業革命が起き、これが世界に波及し、世界は急激に変化した。蒸気 機関は鉄道車に応用され、人は巨大なパワーを持つ鉄の馬車を手にしたのである。

新興の小さな田舎町に過ぎなかった下北村も、鉄道の敷設によって、ヒト・モノ・カネの流れが劇的に変わった。まさに下北沢は、その流れを上手に掴んで、今 日の目覚ましい発展を成し遂げた街ということが出来るのである。





小田急線は地下埋設するが井の 頭線はそのままに走る
井の頭線小田急駅前

(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)


小田急線に乗り下北沢から世田谷代田に行く途中で線路の前方に日本一の霊峰富士山が真正面に見える。その意味で小田急電車は日本一の山を目指す青龍の如き 存在だ。現在その世田谷代田から下北沢、東北沢間の地下化の工事が進行中である。

これによって、開かずの踏切の異名を取る踏切問題は解消する。かつては子供が電車に轢かれるなど、悲しい事故もあった。その危険が解消されるのもいいこと だ。しかし武蔵野の長閑な田園を走る風景から住宅地をぬうように走る電車は、何とも云えない風情があった。郷愁のような感情だが、小田急電車がこの区間で 見えなくなるのは、実に寂しい限りである。計画では駅にターミナルを作り、緑も配置してバスやタクシーの乗降場も設けるようである。

ここでひとつだけ関係者に要望したいことは、全体として下北沢らしい景観デザインにして欲しいことだ。例えば最近の駅前再開発というと、新興住宅地から急 速に発展した「新百合が丘駅」や「狛江駅」、「成城学園駅」の駅などが思い出される。それぞれ見違えるように立派になった。しかしそれが魅力に繋がってい るかというと、必ずしもそうなっているとは云えない。駅の乗降が複雑化し、駅ビルには大資本の大型店が入ったが、それがどうしたという感じなのだ。言わば 「
○○大学××研究 室」の机上で考えたとしか思えないようなありきたりで殺風景な空間デザインになってしまっている。殺風景を感じさせる最大の理由は、それぞれの街の特徴を 生かした個性が感じられないことが原因だ。近い将来、下北 沢の風景は大きく様変わりすることになるが、下北沢の景観形成には、「下北沢らしさ」というものを失わないものにしてもらいたいと願うばかりである。

さて小田急は地下化するが、渋谷から発して西に走って吉祥寺に向かう井の頭線に地下化の構想はない。これまで通り、下北沢駅を長閑に走り抜けるということ だ。 西へ走る道は四神では白虎(びゃっこ)に当たる。元々井の頭線は、藤沢と鎌倉を結ぶ「江ノ電」、高井戸→三軒茶屋を結ぶ「玉電」(東急世田谷線)、三ノ輪 →早稲田を結ぶ都電「荒川線」のようにのんびりと住宅街をすり抜けながら走るちんちん電車(路面電車)に通じるような風情がある。車窓に見える景色もなか なかだ。街づくりにおいて、しっかりとしたグランドデザインは大前提だが、その発展(どこから手をつけるか)においては、一律・一様・一挙的であるより は、古いものと新しいものが交錯しながら、ゆっくりと時間を掛けて多様な形進行させた方が良い。何故ならそこで新たに見えてくる景色が、自然で馴染みがい いものとなるからである。このことについて地元では、様々な意見があることは承知している。ともかく下北沢駅前を井の頭線が走る風景が今後も残るというこ とは、ひとつの救いのように思われる。

旧本村の北沢八幡神社、森巌寺周辺から中心街を移動させた下北沢は、鉄道の敷設によって誕生した新しい街である。現在の一日の下北沢の乗降客数は十二万人 ということであるが、下北沢の発展は、この十二万人の乗降客をして、降りて下北沢をぶらりとしてみたいと思わせる魅力のある街だったからこその盛況であっ た。もしも仮に、商店街がそれほどの魅力のない街であったならば、1500もの商店が迷宮のように軒を連ねることはけっしてなかったはずである。ターミナ ル駅でありながら、通過するだけの街になっている例は幾らでもある。






駅前に定食屋さんのある風景
(2006年10月9日 佐藤弘弥撮影)



下北沢には、最近定食チェーン店の出店が続いている。古くからある定食屋を、南口商店街で見れば、三井住友銀行(旧平和相互銀行)向かいにある定食屋の 「千草」がよく知られた存在だ。その他に、洋風キッチン「南海」や各種オムレツで知られる「三福林」などがある。

今、ここに新しい潮流として、先の新興定食チェーンが乗り込んで来ていることになる。昼の時間は、これに「マクドナルド・ハンバーガー」や「ケンタッ キー・フ ライドチキン」、「ファースト・キッチン」などのファーストフード店。三つの回転寿司店。さらに牛丼の「松屋」などが、しのぎを削り、定食激 戦区というような様相にある。

この写真の「千草」などは、以前は競合相手も少なく、固定客も多かったので、のんびりとした営業を行っていたものだが、最近では向かい側の通りに「ごはん 処 東京きっちん」というチェーン店がオープンしたためか、定食時には、コーヒーをサービスしたり、味噌汁お変わり自由などを行うようになった。もちろん 競争によるサービスの向上は、利用者にとっては有り難いことだ。また「千草」では、「自然食」ということを強調し、差別化をはかっている点もなるほどとう なずけるのである。

新興定食チェーンの特徴は、比較的値段が安いということに尽きると思われる。またどこか喫茶店の延長のような雰囲気もあって、学生が食事を終えても、コー ヒーのおかわりをしながら、長居をすることもあるようである。

確かに新興定食チェーンは、店員も若く、メニューも豊富で活気が漲っている。それでも、「千草」の煮焼き魚や「南海」のカツカレー、「三福林」の明太オム レツのような定番人気商品と比べると、内容や質的にはかなり劣っていると思う。

但し、下北沢は、やはり若者の街ということもあり、ある種の棲み分けがあるようにも感じる。老舗店の方は、収益を開店でこなすというよりは、客との付き合 いを大切にしたところがあり、一方新興店は、高騰している保証金と高額の家賃を吸収して利益を出す為に、それなりの売上げを出さよう、本部より尻を叩かれ ているのであろう。

老舗定食屋「千草」の店前の黒板は、今やすっかり下北沢の日常の風景にとけ込んでいるが、このような定食屋さんが、駅前にあるというのも見ていてなかなか 良いものだ。今後も、こうした老舗店には、新しい時代の流れに対応しながらも、古き良き下北沢の風景伝えるというある種の使命感を持って商いに精を出して もらいたいものである。


つづく



2006.10.12-10.20  佐藤弘弥

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