2006年6月24日、衣川荘で衣川シンポジウムというものがあり、是非とも最新の研
究を拝聴しようと早朝に東京を発ったのであった。
午後4時前にシンポジウム会場を後にして、夜の8時近くまで、衣川と平泉の周辺を廻った。この日は松尾芭蕉が平泉にやってきた6月27日と近く、芭蕉が見
た風
景の痕跡のようなものがあるのではないかと期待しての散策である。丁度梅雨の中休みという天候にも恵まれ、夕暮れから夜にかけて、およそ4時間ばかりをか
けて歩 いたのであった。
まず思ったのは、平泉は柳の御所跡が発掘現場となり、太田川堤防工事や平泉バイパス工事などの大型公共事業によって、芭蕉が見た夏草の跡の景観は、ほとん
ど失われていると感じた。
あの無量光院周辺ですら、人工的な整備があからさまになってしまって、そこに生きる人々の生活の中にとけ込むようにして守られてきたかつての聖なる空間
が、損なわれていることを思った。少し前までは、無量光院の田んぼの形状が美しいと実感した。無量光院を復元する財力は庶民には到底ない。しかし人々は、
かつてそこに宇治の平等院鳳凰堂を模した御堂が西の関山中尊寺の丘陵を拝する形であることを誇りとして、池のかたちをそのままにそこに稲を植え、大切に守
り抜いてきたのである。きっと芭蕉も平泉のその心根に触れ、あの夏草の名句を生むことになったのであろう。
私は改めて、公共工事もさることながら、発掘の方法論や復元作業に伴う、遺跡の国や県による囲い込みのあり方に疑問を持たざるを得なかった。そこに代々住
む人々と共生するような遺跡保存のあり方というものを考えるべきではないかと思うのである。
室
の樹跡
6月24日 佐藤撮影
さてそのようなことを考えながら、衣川を廻ると、だいぶ衣川も平泉化の流れが浸透して
はいるものの、まだ芭蕉が触れた兵どもの夢の跡と実感できるような場
所が、存在することを思った。例えば、室の樹跡という場所が、金売吉次の館跡と言われてきた通称長者原廃寺跡の東に存在する。かつてここには、接待館と同
様に、秀衡の母堂が、植物園のような場所を造っていたという話や義経夫婦が住んで、近くにある雲散寺を再興したというような伝承も伝わっているところであ
るが、大きな木に囲まれ、またかつての庭園の跡を偲ばせるような石が点在し、風情のある場所である。現在はやはり民家になっているが、手つかずのままで大
切に旧蹟が守られている姿を見る思いがした。
曲がりくねった衣川の道もまた良い。往時の衣川は平泉に先行する形で栄えた都市で、初代清衡は、安倍一族が開いた衣川を引き継ぐ形でその川向こうに平泉を
開創したという説がある。私はこの考え方に同意するものである。衣川周辺は、南に中尊寺のある関山を見る広大な平地が拡がっている。しかも衣川が西から東
に流れ、東には大河北上川を擁し、遠くを見れば、西には夏でも白い雪を残す霊峰栗駒山が、東には束稲山連山が青々と連なっている。実に風光明媚な場所であ
る。ある都市計画の専門家と衣川を廻ったことがある。その人物は、「発掘調査の最中であり、軽々には言えないが、平泉より最初に衣川が開かれたのは当然。
立地の条件がまるで違う。防衛的にも、衣川があり万全だし、何よりも広大な平地が拡がっている。そう考えると都市機能はむしろ衣川に造りやすい。それに対
し平泉は宗教的な儀礼を行う聖地のような場所としてあったのでは?」と言われた。なるほど私も思った。
かつて、都市平泉の10万を越える市民が、まだどこに住んでいたかということが実はよく分かっていない。その意味で考えると都市平泉研究は、まだ始まった
ばかりである。この衣川の調査が進むことで、都市平泉の拡がりが分かるかもしれない。但し平泉に隣接する下衣川は、やはり安倍氏の政庁や邸宅のあった言わ
ば奥州という国家の中心地に該当するような場所であり、都市平泉の市民たちは、この中心地を遠巻きにするような形で、周辺に拡がっていたと考えられる。そ
の意味でかつてあった古道の研究は、都市平泉の周辺への拡がりを解く鍵になるかもしれないと思うのである。
先ほど、衣川もだいぶ平泉化していると言った。このことの大きな原因は、衣川の堤防工事が大規模に進められていることが第一の原因だ。とにかくスケールの
でかい工事
である。このモデルは、間違いなく平泉の南にある太田川の堤防工事にある。平成2年の6月の台風で、4号線に水が溢れて、衣川橋の周辺が水害に遭ったとい
うの
が直接の原因だが、ここまで大規模な堤防が必要とも思えず、しかも世界遺産に登録される寸前であるにも関わらず景観というものをまったく想定に入れていな
いかなのような巨大過ぎる造作は衣川には不釣り合いであると思うのだ。
衣
川接待館跡
遠くに束稲山 右手の丘陵は関山中尊寺
6月24日 佐藤撮影
そこから第二の平泉化の原因が派生している。それは工事の前に、堤防工事予定地の大規
模な遺跡調査が行われていることによる著しい景観の悪化である。現在
は国道四号線に架かる衣川橋から300mばかり西に歩いた辺りに位置する接待館遺跡が掘られ、青いビニールシートが掛けられている。規模は南北に100m
ほど東西に200m以上はあるであろう。広大な範囲である。ここから一昨年来、柳の御所で見つかったと同様の土器(かわらけ)など、同時代のものと推定さ
れる遺物が大量に発見されて、これが義経が殺害された衣川館ではないかと、考古学者や歴史家のみならず日本中の注目を集めているのである。事実上これに
よって工事はこの周辺ではストップしたままになっている。言ってみれば、現場では堤防工事と遺跡発掘調査のせめぎ合いの戦場のような有様である。少し前ま
でここは畑だった場所で、畑の中に、衣川村の教育委員会が作った説明板が楚々として立っていたのだが、今は平泉バイパス工事に先行して発掘された高館直下
の柳の御所跡同様、無惨にも皮を剥がれた獣のような惨めな姿を晒して、風景としては見るに耐えない状況である。
衣
川橋付近から衣川河口方面を見る 向こうは束稲山
6月24日 佐藤撮影
私は柳の御所跡の発掘の流れを長年見続けてきた経験から、現在の発掘の方法論には、大
いに疑問を持つものである。本日のシンポジウムの冒頭奥州市市長が、
「堤防工事と発掘調査を両立させるようなやり方」という話をしたようであるが、簡単にそのようなことが言えるものだろうか。まず住民がそこに住んでいるこ
とこそが大切ではないだろうか。何故ならば、これまで住民たちは、曲がりなりにも、平泉や衣川のような歴史的な地域に住んでいるという誇りをもって、石ひ
とつ動かす、池ひとつ作るにも、細心の注意をして、この地域の風土を維持してきたのである。それが芭蕉が詠嘆するような美しい景観を醸成してきたのであ
り、国や藩が保護したから、存在しているわけではない。平泉では、公共工事で家屋を移動させられ、さらに遺跡調査で移動させられるというような例もあり、
数年ごとに生活を激変させられるようなことでは、文化国家とはお世辞にも言えないのであるまいか。
平
泉柳の御所跡発掘現場の景観
遠くに芭蕉が「夏草や」と詠った高館山が見える
(2006.4.22 佐藤撮影)
ここはやはり、文化財の発掘にも景観を保つための一定のルール(文化財発掘現場景観保
全基準?)が必要ではないだろうか。現在の柳の御所跡は惨状と言って
もけっして過言ではない光景が現実に10年以上も続いているのである。かつてこの辺りは、田園が拡がり、東北独特のイグネ(雑木林)が見え、大河北上川が
轟々と流れる美しい風景があった。
上記の写真に写っている只一本残った桜は、ある旧家の軒先の古木であったが、今は見るも無惨に枯死寸前の有様になっている。これがユネスコ世界遺産になろ
うとする平泉の現実の姿なのである。
これでは芭蕉ゆかりの「夏草」の文化的・歴史的景観は完全に失われてしまっているとしか言えない。よく見ればそこは、発掘現場そのままに、ほっくり返した
土塊があちこちに積まれ、見るも無惨なほどである。残念だが、ユネスコ世界遺産条約に盛られた「開発による破壊を防ぐ」という景観保全の発想とは相容れな
い状況と断ぜざるをえないのである。したがって、日本においても、発掘後の現地にも「見せ方」というべきか、あるいは美しい景観を保全するための何らかの
美の基準が必要だと思うのだが、どうであろう。
衣川の美しい風景を三つほど上げてみたい。1から3に移るごとに、河口に近づいてい
く。
月山橋からの衣川
6月24日 佐藤撮影
1 月山橋から
芭蕉の奥の細道に、「衣川は泉が城を廻りて、高館の下にて大河に落ちいる。」との記述がある。月山橋は、安倍氏の政庁の跡と言われる「並木館」を西に
300mばかり行ったところにある。この辺りを少し遡ると、発掘調査によって船着き場の跡と言われる場所にたどり着く。またその近くには、金売吉次の屋敷
跡と言われてきた長者原廃寺跡がある。往時は、衣川も水量が豊富で、様々な地域から豊富な物産を積んだ商船が往来していたのかもしれない。
今は夏草の生い茂る田舎のありふれた川のようでもあるが、その風景には、遠い昔の栄華の面影がどこかに漂っているのである。月山橋を越えて、聖なる山三峯
山の麓には、衣の関の跡と言われる旧蹟がある。今後平泉がユネスコ世界遺産になることで、この付近の芭蕉が「夏草や」と詠嘆した文化的景観が、大切に守ら
れることを期待したい。
泉
が城橋付近からの衣川
6月24日 佐藤撮影
実は左に衣川堤防工事ののり面が微かにみえることに注目して欲しい
2 泉が城橋か
ら
泉が城橋という橋がある。その橋は、白いガードレール製の欄干で風情に欠けるものである。しかしそこを渡ると、写真のような素晴らしい景色が現れる。この
場所は、いつ来ても実に美しい場所である。私は密かにこの辺りが、白州正子女史が、西行の歌の中でも「五指に入る絶唱」と言う、「とりわけて心も凍みて冴
えぞ渡る衣川見に来たる今日しも」の名歌が詠まれた場所ではないかと思うのである。
西行は、この歌の前に次のような詞書を添えている。
十月十二日平泉
にまかりつきたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことのほかに荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまは
したる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りてとりわけてさびしければ、
(解釈:十月十二日、平泉にやっとの思いで辿り着いたのだが、その日は雪が降り、風が
激しく、ことのほかに荒れた日であった。それでもひと息ついていると何となく衣川を見たくなって、訪れて見たのであるが、河岸に着けば、衣川の城は・・・
すっかり変わり果てて、時の流れをみる心地がした。水際なども氷りて、寒々としていた。)
とりわきて心も
しみてさえぞわたる衣河みにきたるけふしも
(歌意:言うべき言葉も見あたらない。衣川にきた。とりわけて心に沁みてくる。この寒
さは。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。まさに今日私は、衣川にまたきてしまった。この老いらくの身で。)
私はこの「衣川の城」というものについて、「泉が城」ではないかと解釈する。しかもこれを、西行が若い頃平泉に来て詠んだ歌との解釈がなされていたが、こ
れは晩年の西行が、命の危険もlかえりみずに訪れた時の絶唱でなければ全体の意味が通らない。その証拠に、「ことがらやうかわりて」という下りから、平泉
周辺の様子が変わったことを指摘するなど、丁度、義経を匿っていたために、戦争の危険のあったこともあり、泉が城が戦に備えて、土塁なども高く盛られ、戦
争準備が進んでいたことなどの状況も感じられるのである。
それにしても泉が城の手前で、衣川はふたつに分かれ、丁度泉が城を浮島のようにして守っているかのように見える。もしかすると、義経に共感していたとされ
る泉三郎忠衡は、この浮島に立てこもって義経と供に奥州平泉の平穏を守ろうとしていたのだろうか。西行は、また先の衣川の歌に平泉の滅び行く予感のような
ものを感じ取っての詠唱だったのだろうか。
衣
川橋からの衣川
6月24日 佐藤撮影
(写真の説明:左の関山中尊寺の前に角張った堤防ののり面が見える既
に堤防工事はここまで及ぶ衣川の囲い込みが進んでいる)
3 衣川橋から
衣川橋は、国道4号線に掛かる橋である。この付近はすでに衣川の堤防工事によって、工事現場の様相がある。あえて私は、その工事による景色の封殺を画面に
いれないようにして、衣川の夕暮れを撮影したつもりであった。しかしよく見れば、写真の左上に人工的な堤防ののり面が顔を出している。夏草の生い茂る上の
付近に緑のカステラを置いたような表情をみせているのがそれである。左右両側にこの高さで、衣川の堤防が奥に伸びて行くことになる。
それにしても衣川の豊かな景観が損なわれないようなやり方を考えなければ、衣川は平泉同様、公共工事と発掘調査によって、その美しい風景はズタズタに引き
裂かれ兼ねないことを指摘しないわけにはいかない。(佐藤弘弥記)