14才のピカソを観る


1.日本初公開のピカソ「初聖体拝領」を観る 

芸術の秋である。この日曜日10月14日に上野に向かった。「上野の森美術館」で開催されている「ピカソ 天才の誕生 バルセロナ・ピカソ美術館展」を観るためである。

当の美術館の前には、人が溢れ、とてもバブルが弾けて崩壊寸前の日本ではなかった。そこには芸術に餓えている日本の老若男女が列をなし、スズナリとなりながら、狭い入口を数珠繋ぎとなって入って行くのが見えた。通常で在れば、そこで「これはだめ」と諦めて帰るような性格だが、初公開の「初聖体拝領」がどれほどのものか、見ないでは返れないという思いが強く、入場料1300円の高さも深く考えず、中に押し出されるようにして入場を果たした。

既に入口が混んでいる。掲示されている説明の活字を見ている人で溢れているのだ。いつも思うことだが、勉強に来ているのではない。芸術に体験しようとするのであるから、年表とか説明などというものは、先に勉強してくるか、展覧会の画集でも買って後で見れば済むことだ。大体芸術というものは、理性で体験する類のものではない。感性で受け止めるべきものである。だとすれば、心を真っ白にして、その作品の前に立てばいいのだ。耳に解説のイヤホンをさし、眉に皺を寄せて、観ている姿を恥ずかしいと思う感性が必要だ。外国人が歌舞伎を観賞にイヤホンを差している姿だって変である。ましてや日本人が、歌舞伎の解説を聞きながら、歌舞伎を観るなんて、実にはしたない。他人様の感想を聞いているようなもので、そこに生まれるのは、他人様の頼った感受性ではないのか。いつの間にか、自分の感覚と思っているものは、実は人様の感性で、感想で、まったくもって、自分なりの感想などない日本人の無様なこころの有り様なのではないか・・・。

私は一目散に、目的の「初聖体拝領」(1896年、油彩166×118cm)に向かった。会場は、超満員で、理路整然と、私からすれば、どうでもいいデッサンや走り書きのようなピカソの子供時代の作品などをひとつひとつ丁寧に観ている人々で溢れかえっている。正面に立ち、14才のピカソを観る。この展覧会のポスターを駅で見た時に衝撃を受けて以来、是非その前に立って観てみたいと思った作品だ。この作品に天才を見ることは容易である。大体絵画や音楽の天才というものは、早熟である。

現代洋画壇の鬼才村山直儀の口癖にこんな言葉がある。
「15、16でいっぱしの絵が描けなければ、この世界ではどうしようもないよ。俺だって、大人がみんなびっくりするような絵を描いていたよ」そんなものらしい。日本画の故安田ゆき彦画伯の16才の時の、義経と佐藤忠信の吉野別れを描いた作品を見て、その構図の取り方といい、緻密な筆使いといい、まさに天才と思ったものだが、村山の話を聞いてからは、それは当たり前のことと、取り立てて驚かなくなった。

さてこのピカソの作品であるが、一人前のカソリック信者としての祝福を受ける少女が被るベールの質感が実に瑞々しく描かれている作品だ。敢えていえば、この絵の主役は、まるで少女というよりもこの白いベールであるような錯覚さえ受ける。この作品は、14才の少年ピカソが、古典の絵画技法から学んだ写実的な布の描き方をこれでもか、これでもかと見せるような作品で、その意味では、この「初聖体拝領」という作品は、このピカソという自己顕示欲旺盛な若者が、「俺はどんな大人よりもうまい絵が描けるよ」と言いたげな実に挑戦的な作品である。

日本人にとって、「初聖体拝領」とは、耳慣れない言葉であるが、カトリックの国においては、子供がキリスト教の信者として、一人前の認められる一種の通過儀礼である。この中央にいる少女は、ピカソの実の妹のローラということであるが、その表情は穏やかで実に愛らしい。暗い教会の重厚な空間の中で、ここだけに日の光が射していて輝いている。

それにたいしてキャンドルが灯す明かりは、仄暗く心細い限りだ。また代父といわれる神父は厳格な眼差しでこの社会の掟や厳しさを象徴しているかのように立っている。おそらくピカソは、この作品によって、「俺は一人前以上の画家だ。これを見てくれ。俺を評価してくれ」と思って必死で描いたのであろう。しかし、敢えて言えば、ここに天才の資質はあっても天才はない。まだピカソは芸術の神の祝福を受けるに至っていない。よってこの作品は、ピカソの初期の技量のレベルを示す作品とはいえるが、我々の内部にある芸術的感性に響く傑作と言えるような代物ではない。もちろんピカソの伝説が誕生していく可能性があるから、その中で今後伝説的な初期作品との評価を受けて行くことであろう。
 

2.「天才誕生」の瞬間とは?

14才のピカソの描いた「初聖体拝領」を観て、「ピカソがまだ天才ではない」と言うとは、何と奇妙で不遜な言い回しをするのか、と首を傾げる人もいるかもしれない。そもそも現在、評価の定まってしまった「ピカソ=天才=巨匠」という評価だって、後になって誰かがそのように言ってそうなったに過ぎない。私が言いたいのは、天才ピカソが描いた絵画やデッサンが全て天才的な作品かというと必ずしもそうではないということである。

何か、ピカソというと、その辺の紙にメモしたようなものでも、ありがたく思ってしまう所がある。特にピカソ晩年の神話のエッチングのようなものにも途方もない価値と値段が付されているが、実に奇妙なことだ。天才とは、神が寄り憑くようなことだから、誕生したかと思えば、また気まぐれに神も去ったりするものなのだ。天才的資質を持って天才が、天才の誕生から死ぬまで永久的に天才で死ぬ訳ではない。むしろ凡人になって死ぬことだってある。例えピカソだって例外ではない。名前に惑わされてはいけない。芸術の神は気紛れな女神なのだ・・・。

そこでまず天才の定義から考えてみたい。思うに、天才とは、ある特定の時代において芸術とか科学とかいう世界の中で行き詰まった空気あるいはムードを一掃するために天から遣わされた異能な人と定義することができる。

つまり時代というものを川に喩えるならば、澱んだ流れの渦を解消し、以前の清涼な流れを取り戻す役割が天才にはある。その意味で、ピカソが天才として果たすべき役割とは、一連の印象派の絵画が成熟期を迎え、その芸術的な閉塞感を解き放ち、20世紀における芸術という潮流に新たな可能性の息吹を吹き込むことにあったのだ。もちろん若いピカソには、そんな時代の要請があるなんて、当然知らなかったであろう。ただ彼は、早熟で目立ちたがり屋な画家の卵に過ぎなかった。

西洋絵画の古典的な技法によって描かれた「初聖体拝領」の原画の前に立ち、それを間近で観ながら、強い印象というか存在感のようなものを感じることはなかった。それはおそらくパブロ・ピカソ自身が、まだ自分の絵のスタイルを確立出来ていないことに由来しているのではあるまいか。それは同じ年に描かれた彼の自画像を見ればよくわかる。作品62の自画像(油彩/カンバス32.7x23.6cm)がそれだ。そこに描かれている目は、後に挑むように見開かれた三白眼のあの「ピカソの眼」ではない。どことなく虚ろで、はにかみ屋さんの目だ。ピカソは、まだ自分という存在に目覚めてはいないことは明らかだ。

天才的資質をもった人物が、天才になる瞬間というものがある。その瞬間というものは、、神の啓示(あるいは悟り)のように突然に来るもののようだ。天才の誕生には、カントのいう宇宙誕生の瞬間のような「神の拳の一撃」のような「場所」「人物」「事件」などの契機(あるいは触媒)が必要である。

例をとって、天才の誕生という瞬間について少し考えてみよう。ジャズの帝王マイルス・ディヴィスが、あるレコーディングセッション(1970年のアルバム「ライブ・イビル」収録)で、ピアニストのキース・ジャレットの神憑った演奏を聴いて、「どうだいキース天才になった気分は?」とニヤリとしたと言う。天才的資質を持った人間が天才になる瞬間というものは、悟りに近い感覚があるのではないだろうか。要するにこの場合は、音楽の神様が、キースというピアニストの中に降りてきて、モダンジャズの行き詰まった時代の雲を吹き飛ばすような凄い演奏をした。その演奏に帝王マイルスは、天才の誕生を感じたのである。

この時、マイルスは、モダンジャズのアコーステックな演奏手法に芸術的限界を感じ、電気楽器による新しいジャズの方向を模索していた。偶然メンバーの紹介で、マイルスのセッションに参加したキース・ジャレットであるが、彼は電気楽器に否定的な態度を取るピアニストであるが、マイルスのセッションに参加し、自分の志向するものをまったく否定されるようなコンセプトの演奏の中で、キースは自分自身の中に宿っている天才の部分をマイルスという産婆役の人物によって、取り上がられたのである。

それ以降、二度とマイルスと共に演奏はしていないが、キース・ジャレットという天才ピアニストが誕生した裏にはこのようなエピソードがあったと思われる。
 

ではピカソが天才として誕生する瞬間はどの作品あるいはどの年代どんな人物を通じてだったのか、続いて考えてみよう。
 

3.ピカソの天才を目覚めさせた男

人間がある種の変貌を遂げる時、そこには通常では考えられないような思わぬ偶然や事件が介在するものだ。ピカソの自画像を丹念に追って行く時、明らかにその目の表情が変わる瞬間がある。ピカソの「自画像」に1901年、「青の時代」と呼ばれる時代に描かれた絵がある。81cm×60cmの小さな作品だが、明らかにピカソの眼が、あの三白眼の挑むような目に変化しているのがわかる。

1901年と言えば、ピカソの親友で、バルセロナの小さなアトリエで共同生活をしたカルシス・カサヘマスが、失恋の果てに衝撃的なピストル自殺で若い命を落とした年に当たる。同じ年の親友の死がピカソにもたらした衝撃は、想像を越えたものだったに違いない。「何故、どうして?」ピカソは、自問自答したことであろう。その深い悲しみが、表情のそこかしこに癒えないままに表現されている。しかも目は、何ものも逃さずこの世の森羅万象を見尽くしてやるぞ、という気迫が伝わってくるようようだ。とても二十歳そこいらの表情ではない。

友の思いがけない死が、ピカソの作品に深い陰翳を与えたことは確かだ。ピカソは、親友の死と向き合うことで、人間の命というものあるいは人生の無常を知ったことになる。展覧会の作品NO162に「カルシス・カサヘマスの肖像」がある。この作品を貫いているのは、失恋直後の青年カルシスの深い人生への失望である。下から描いている画家ピカソを睨むように見上げる細面の青年の顔には、明らかに死の影が色濃く忍び込んでいる。このままでは、この親友は、自殺しかねない、そのようにピカソは思っていたことであろう。でもまさか、という観念ももちろんある。しかしその友は、本当に銃口を頭に当てて引き金を引いてしまったのだ。

ピカソは、悲しみを乗り越えるためにキャンバスとと向き合った。亡き友の御霊を癒し、また傷ついた自分の魂を癒すためにも、ピカソは作品に没頭することが必要だった。そこで描かれたのが、「カサヘマスへの埋葬(追想)」(1901年150cm×90)と題された大作である。この作品は、貧しかった時代のピカソのパリのアトリエの中心に長いこと据えられていたいたという。

まるでエル・グレコの作品を思わせるタッチで描かれた縦長のこの作品は、下部に描かれた死者の周囲には被葬者たちが喪服で悲しみに耽っている、死者の枕辺には、母と思われる女性が、ハンカチで顔を押さえて泣いている。キリストの傍らでなくマリアのようでもある。中央には天上から下界を見下ろすように聖者らしき人が、じっと下界の様子を覗いている。傍らには二人の子供と白馬に乗った騎手と裸婦たち。長い網タイツをつけた娼婦らしき三人の女。その上には、奇妙な怪物を思わせる形をした雲が流れている。ここにはエル・グレコのようでいてエル・グレコでないまったくピカソとしか考えられない劇的な空間が見事に創造されている。

おそらく1901年の自画像に描かれた目の変貌は、親友の思いがけない悲劇的に死によってもたらされたものに違いない。友の死は、人間ピカソにとっては悲劇的な事件だったが、芸術家ピカソにとってはとっては大いなる霊感であり、それは天才ピカソを誕生させるための神の一撃となった。運命論的に言えば、カルシス・カサヘマスは、ピカソの天才を目覚めさせるために生まれ、そして死んだ男だった…。
 

4.ピカソの表現法について

いったいピカソとは、どんな人物だったのか。
あの変わり者の岡本太郎をして、どんな者をも打ちのめし、ひれ伏させ、納得させてしまう芸術家と言わさせたその才能とは。あらゆる人生の苦悩を内に秘め、親友の死の悲しみを乗り越えて、その先にある人生の核心にある何ものかを見つめ尽くそうとする脅威の執念とは。

結局、「カサヘマスへの埋葬(追想)」は、「青の時代」と言われる一連の作品群の始まりを画す作品となった。ピカソは、人によっては剽窃(ひょうせつ)の画家と言われる。剽窃と表現すれば聞こえは良いが、要は模倣あるいは真似の画家という意味である。

この作品「カサヘマスへの埋葬(追想)」が誕生した直接の原因は、もちろん親友の思いがけない自殺であったが、その絵のインスピレーションは、エル・グレコのある絵画からもたらされたものだ。その時、1901年2月、ピカソはスペインの聖地トレドにいてエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」という作品と対面していた。

http://www.cyberspain.com/ciudades-patrimonio/fotos/tolcondorg.htm

同地のサント・トメ教会には、「オルガス伯の埋葬」(1588年制作:4.8m×3.6m)と題された絵画が教会の壁一杯に描かれている。絵は教会の壁に沿って上部はアーチ型になっており、暗く沈んだ印象のある強烈な作品である。画面構成は、上下に分かれていて、天上と地上を象徴している。地上では、死者のオルガス伯爵が甲冑をつけたまま、青白い顔で眠っている。その遺体を黄金の刺繍の法衣を纏った身分の高い僧侶が抱いて、耳元で何かを囁いている。聖書の言葉であろうか。また足もとの方にも若い僧侶がいてやはり遺体を抱えている。不思議なのは下部中央の死者の遺体を包むようにして丁度二人の僧侶の黄金の法衣が円形をなして死者を包んでいることだ。

その周囲には、死者ゆかりの者たちが横に並んで、様々な方向に視線をやっている。黄金の法衣が死者を見ているものは少ない。左右を見、正面を見、天上を見、各自の視線は一向に定まってはいない。このことは、何か人間の心の真実を象徴しているかのようだ。つまりどんなに親友あるいは大切な人間が亡くなった所で、生者たるもの己も死なない限りは生きる定めを背負わされているのである。はっきり言ってしまえば、いちいち死んだもののことなどに、延々とかかずりあってはいられないのだ。

天上では、最上部にキリストと思われる人物が死後の裁きしていて、その足もとに跪いている者は、オルガス伯爵の魂かどうかはわからないが、審判者キリストにさかんに申し開きをしているように見える。その周囲には、生前の死者の行いであろうか、幻のフィルムのように描かれている。申し開きをする死者の傍らには赤い衣に暗い色のベールをつけたマリアがやさしい眼差しを死者に向けてじっと見ている。もうどんな嘘もたちまちの内に神は冷静に裁いてしまうに違いない。神は地上の身分によって差別をするようなことは決してない。その証拠に死者は下では甲冑を纏っていたのに、フンドシ一丁の姿で、審判者の前にひれ伏している。随分と死者だって生前には、罪を犯してきたに違いない。きっと依頼者のオルガス伯爵家の人々を怒らせない程度に、エル・グレコは芸術家としての誇りをかけて、この作品に人間の人生の真実と神の前における平等を作品の奥に暗喩として残したのであろう。

この絵を見た印象が、ピカソの心に何ものかを考えさせた。このエル・グレコの作品とピカソの「カサヘマスへの埋葬(追想)」を比べてみると、その違いは歴然である。エル・グレコの作品の影響は、単なる画面の印象であり、天上と地上を象徴させて描いている部分と「題」くらいに限られている。グレコの絵は、豊かな貴族であるオルガス伯爵の身内からの依頼によって描かれた祭壇画である。それに対して、ピカソは、貧しく若いたった一人の友を自らで天国へ送るためにだけ描いた作品である。もちろん自分の傷ついた心を癒す為でもあるが、ふたつの絵の間には、計りがたい違いがある。単なる物まねとは違う芸術的創造が、ピカソの作品には溢れており、エル・グレコの祭壇画とはまったく違うピカソ独自の世界がそこにはある。

和歌の世界に「本歌取り」という表現の方法があるが、これは例えば、西行の「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」というのを、「夏来れば蛍群れ飛ぶ奥沢の野辺に君連れ恋ささやかむ」(佐藤弘弥)というように、春の歌を夏の歌に、また人生の歌を恋の歌にかえてしまうような手法であるが、ピカソの手法もこれに近いような考えに基づいてなされたものとも言えるのである。

ピカソの剽窃の方法は、この和歌の本歌取りの方法に似ている。例えば、1907年に発表し、物議を醸した大作に「アビィニョンの娘たち」という作品がある。
 

5.「アビィニョンの娘たち」の評価をめぐって

今でこそ「アビィニョンの娘たち」(1907:油彩 243.9 x 233.7 cm)という作品は、キュビズムを先駆けとなった名画という評価を得ているが、この作品は、後にピカソが語っているように、当初はその余りの斬新さのためか、マチスのような先輩画家からも冷ややかな目で見られた問題作であった。その証拠に、この作品は描かれてしばらくピカソのアトリエの中で、30年間ほど眠り続けている。芸術とはそのようなものかもしれない。

http://www.moma.org/docs/collection/paintsculpt/c40.htm

確かにこの作品は、古典絵画技法の基本中の基本である遠近法をまったく無視した立体感のない絵だ。画面一杯に五人の娘たちが描かれているが、中心の二人は、画面中央にいて、豊満な裸体を見せて徴発するようにこちらを睨んでいる。左端には、横向きでアフリカ系の女が裸で立っている。右には、仮面を付けた女が向こう向きでしゃがんでいる。しかしどうした訳か、仮面はこちら向きにつけられている。また右の奥の方にはカーテンを開けて、もう一人仮面を付けた女が入って来る所だ。元々この絵の最初のコンセプトは、二人の水夫が、娼婦宿を訪れるという設定で発想されたようだ。それが何度もの習作の果てには、男は省かれてしまい、結局、仮面を付けた風の二人の女と3人の娘を画面一杯に際立たせる構図となった。おそらくこの絵に頃において、ピカソの心には劇的な変化が現れ始めたのであろう。心は「青の時代」の陰鬱さから解放され、恋をを謳歌する心境にやっと達したのかもしれない。この絵の中に当初は、女性がドクロを果物と一緒に運んで来るような習作も描かれたようだ。もしもそのまま描かれていれば、この絵には、生と死をという対照が塗り込められることになり、青の時代を反転させるような効果は、期待できなかったであろう。
 

ピカソは、和歌で言う「本歌」というかインスピレーションを、セザンヌの「大水浴」(1899-1906:油彩 208 x 249 cm)から得ていることは明白である。セザンヌは、この絵で、裸の女性たちと風景の調和を目指した。この絵は、森の中の水辺で11人の若い女たちが夏雲が立つ大自然を背景として、生まれたままの姿で伸び伸びと水浴を楽しんでいる。まさに生きる喜びを満喫しているように見える。どう見てもこの絵の主役は、若い女たちにあらず、自然の中に生きる人間の生そのものなのである。

一方ピカソの方はどうか。セザンヌの本歌ならぬ「大水浴」という「原画」に着想を得たピカソは、風景を廃して、女性だけを画面一杯に際立たせて描き切ろうとしているかのようだ。

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/bath/

タイトルの「アビィニョン」とは、バルセロナの街にある通りの名で、売春宿のある場所だ。つまりピカソは、自らの春を売る娘たちを描いている。きっと彼はその女性たちの逞しい生き様を、生気溢れる形で生き生きと描き切ろうとしたのであろう。セザンヌの発想から自然という要素(風景)を廃し、そして籠の鳥のように狭い部屋にいて、自らの若い肉体のみを頼りに生きる彼女たちを、強いピンクの人工的な色彩の中に塗り込めて、しかも明るくおおらかに描き切るとは何という大胆な発想であろう。そしてこの絵には、若さのもつ危うさと生命のエネルギーが充満していて、むせ返るような強烈な印象を観る者に与えてしまうのである。

この時、ピカソはまだ25才の若者である。しかしこの作品「アビィニョンの娘たち」を見る限り、ピカソは、そんちょそこらの25才ではもうない。20才で親友を失い、深い人生の暗部をはいずり回るようにして覗いた若者は、早くも25才で自分が描こうとするものを描き切るだけの技量と、何よりも描く対象物の背後にうごめく何ものかを、しっかりと絵の奥に塗り込めるだけの老成した哲学を持つ芸術家になってしまっていた。

ピカソの自画像(1901)にあるあの挑むような眼は、20才の肉体を持ちながら、老いることなく世の中の秘密を垣間見て変貌した彼の身体と心のアンバランスを象徴するような絵である。まさに天才の孤独がそこには明白に描かれている。何と既に20才の若さで、ピカソは、感受性の怪物となっていたのである。誰にも見えないものが、彼の目には、見えてしまうのだから。

後にピカソは、この絵について、これは「私の最初の悪魔払いの絵画だった」と語った。そのことの意味は、ピカソがアフリカの黒人たちが造った仮面を見た時に感じたインスピレーションから説明しなければならない。ある時、偶然、アフリカの黒人たちが造った仮面に接した時、「この仮面は、すべてのものに逆らって存在している」と感じた。その後、すぐに「自分もまたすべてにまた逆らって存在している」とピカソは感じた。つまり仮面とは、呪術によって、悪い霊から人間を守る為の武器なのである。こうしてピカソは、この絵のコンセプトをはっきりと決めたのである。

一種の呪術が、この絵には施されている。「あらゆるものに逆らい」ながら、自分を守り、人間を悪霊のようなものから守り、解放するための第一歩、それがこの名作「アビィニョンの娘たち」のコンセプトであり、ピカソの歩むべき芸術の方向であった。その方向は、やがては、祖国スペインにファシズムの嵐が吹き荒れ、戦争によって、人々の生命と自由が奪われるスペイン内戦において、怒りを「ゲルニカ」という大作に込めて、戦争という悪あるいはファシズムそのものと戦う芸術家ピカソの姿となって発展を遂げてゆくのであるが・・・。

何か名作「アビィニョンの娘たち」は、自らで言う「最初の悪魔払い」というよりは、後の大芸術家ピカソが、青春のある時期にアビィニョン通りの「娼婦宿」に行って一人前の男になるという一種の「通過儀礼」のようにさえ思えるのである。

おそらくこの時期のピカソは、己の内部から湧き上がる若いエネルギーを持て余していたに違いない。そして己の心の暗い部分と葛藤した「青の時代」に蓄えた創造的なエネルギーを一挙に放出し始めたのである。まさに「青の時代」は創造的退行期であった。その時に地中深く延びた彼の才能はやがて地獄の域まで達し、「ピンクの時代」を経て、大きく20世紀芸術を飛躍させる巨木へと枝葉を天に向かって伸ばし始めたのである。
 

6 ピカソ・創作の心理

こんなピカソ論がある。

「彼の芸術の心理について・・・芸術創作の基盤をなす心理についてのみ述べようと思う。(中略)

ピカソの「青の時代」は、まだ対象性を失わない形象ではじまる。夜の青、月光の青、水の青、エジプトの冥府のトゥアート(サハラ砂漠にあるオアシス群)の青だ。(絵という作品のイメージの中で:佐藤書き込み)彼は死ぬ。そして、彼の魂は馬に乗って彼岸へゆく。日常の生活が彼にまつわりつく。子供を代田妻が、ものいいたげに彼に近づく。彼にとっては画は女であるが、夜は、心理学的に明るい魂と暗い魂(アニマ)と呼ばれるところのものだ。

暗い女が彼を待ってじっと座っている。青いたそがれの中で、彼を待ち受けている。病理的な予感を呼び起こす姿である。色彩の変化とともに、われわれは冥府の中へはいってゆく。対象性は死神に捧げられ、杯と梅毒を病む若い娼婦という、すさまじい傑作の形で表現される。

娼婦のモティーフは彼岸にはいるとともにはじまる。ここで彼は死せる魂となって、大勢の娼婦たちと出会うので。私が「彼」というのは、冥府の運命に耐えるピカソの中の人間を指している。この人間は画の世界の方を向かないで、運命的に闇の方を向く。万人の認める美や善の理想を追わないで醜と悪との悪魔的な魅力にひかれる。この醜と悪は、近代人の心の中で、異教徒的に、悪魔的に、ふくれ上がり、末世的な気分をかもしだす。この明るい画の世界を、地獄の霧でおおい、致命的な崩壊を感染させ、最後にはまるで地獄地帯のように、現世を断片・断層・瓦礫・ぼろきれ・無機物に解体してしまう。ピカソおよびピカソ展は、これらの絵を見に見に出かけた二万八千人の人々とともに、時代の現象なのだ。

(中略)冥府への旅は無目的な、破壊専門の、巨人的な下降ではなくて、意味深い「洞窟への参入」だ。清祓(せいふつ)と秘められた認識との洞窟へ降りてゆくことだ。人間の魂の歴史を遍歴することは、血の記憶を呼び起こすことによって、全体としての人間を回復しようという目的をもっている。

(中略)ピカソの最近作には、対象物を、まともに対峙させたまま統合するというモティーフが、実にはっきりと現れている。ある絵などは、(もちろん多くの断層によって切り刻まれているが)明るいアニマと暗いアニマの並置さえも描いている。最近のピカソがけばけばしい、いとも明瞭な、血なまぐさい色を使うようになったのは、諸感情の葛藤を力ずくで統御しようという、無意識の傾向に対応するものだ。(中略)この状態は、いまや道徳的・獣的・精神的な人間性の全体を包括するところの、視野の拡大を意味するにすぎない。だが、まだこれを生きた統一体に形成するには到らないのである。ピカソの「内面劇」は、運命の転換をはらむこの最後の頂上にまで達している。(中略)彼は冥府の険路を踏破すべき英雄なのだ。(中略)彼は殻を破るところの、より偉大な男だ。そして、この殻はときとしてー脳髄なのだ。(ユング「ピカソ論」ユング著作集3 江野専次郎訳 日本教文社「こころの構造」より)」

誰が書いたものか、途中でわかった人も多いはずだ。これは心理学者ユングが書いたピカソ論である。

ユングが、ピカソの「青の時代」(1901→1905)について、これを「冥府への旅」と規定し、旅の目的を「人間を回復」と分析していることは注目に値する。この冥府への旅は、ピカソの無意識が介在した自己の深層への逃避の旅である。そのことによって、分裂気味な己の精神を立て直すための退行であった。その時に描いた絵は、ある意味において、ピカソという芸術家を通して、人類が見た夢の数々と言っても過言ではない。そもそも誰しも夢というものは、脈絡なく見るものである。特に、集合的無意識(決して個人が触れられぬ心の領域である)から来る夢というものは、象徴性という以外、現実的なリアリティーさに欠けるものである。どうだろう。ピカソの描いた「青の時代」の作品群のイメージの薄暗さを光りにたとえてみるならば、どうも見ても太陽の光というよりは、月の光である。そのことを象徴的に考えるならば、やはり暗い時代に向かって突き進む人類の不安が、絵の中に暗示的に開示されているとみてよさそうだ。

ピカソの膨大な作品群の中で、「青の時代」のピカソが好きという人物は結構多い。その一因は、やはり己の人生に対する不安が、キャンバスの中に様々な最下層の人間たちの生き様として極めて感傷的な形で象徴化されているからではあるまいか。青の時代のあの独特の色使いから来る哀愁は、誰しも簡単に「薄気味悪いから嫌い」とは片づけられないものがある。そこには何か普遍的なものが存在し、それが観る者の心に共感として沸き上がってくるのではあるまいか。優れた芸術というものは、ピカソの絵に限らず、単に綺麗とか美しいとか、そんな浅薄な感覚を遙かに越えて、何か分からないけれども、惹かれてしまうというようなところがあるものだ。

それらは、時代の空気というか、雰囲気を良く伝えているものだ。ポップ音楽の世界で『20世紀後半の雰囲気を知りたければ、「ビートルズ」の「サージャント・ぺパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」(1967年発売・ビートルズの最高傑作?と言われるレコード)を聞け』と言われるが、やはり絵画の世界でも、ピカソという画家の次々と変貌を遂げ、膨大な作品を創造した影には、20世紀という時代精神(その時代の人類が持つ無意識=集合的無意識)が、働いていることは、誰しも否定できないであろう。

やがてピカソの「青の時代」と時を同じくして始まった20世紀は、その後、激動の歴史を迎える。最近、20世紀は、「戦争の世紀」とか「アメリカの世紀(ヨーロッパからアメリカへの主役転換の世紀)」と呼ぶようである。確かに人類は、この20世紀において、文明を極限まで進歩させたが、同時にそれは自らが作った文明の利器によって、人類そのものが滅亡するかもしれない空恐ろしいほどの恐怖を抱える結果となった。もちろんそれは直接的には核兵器の存在を指すわけだが、それに留まってはいない。20世紀、文明の進歩に加速度がついた結果、人口爆発やら森林破壊やら、文明の行き過ぎた進歩の歩みは、人類をあたかも地球という小さな星に巣くったガンウイルスにしてしまった感さえある。又この戦争の20世紀において、人類は、ロシア革命、第一次大戦、第二次大戦を経験し、アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキでという悲劇を経験することとなった。

そのように考えると「青の時代」の作品群にある不安の雰囲気は、人類が、20世紀の初頭にピカソの無意識を介して見た予知夢だったのかもしれない。夢には現実に対する優れた補償作用がある。つまり癒しである。不安や貧しさを描いたこの時代の絵が癒しとは奇妙に聞こえるかもしれないが、それが芸術の癒しの力なのだ。人間は夢を見ることで、精神のバランスを保っている。我々が、展覧会場で、ピカソの絵の前に立つとき、それは自己(人類)の無意識と対峙するようなものだ。たとえ意味不明で、恐怖が湧いたり、寂しさが募ったり、あるいは憐れみが湧くような悲しい絵でも、それはある意味で、我々の心の奥底にも眠っている共通の領域から来るイメージなのだ。ピカソの精神は青の時代を通して、ユングの言うように『運命の転換をはらむこの最後の頂上にまで達している』しまっているのである。つまり我々が、ピカソの「青の時代」の一連の作品を観るとき、表現は適切を欠くかも知れないが、故郷の懐かしい写真(心の原風景)を見せられて、郷愁が募るようなものではあるまいか。それが「何か分からないけれども、青の時代のピカソはいいね」と言ってしまうことの背景にはありそうである。
 
 
 
 

7 青の時代の総決算としての「人生(ラ・ヴィ)」という作品

次に個別作品を例として、ユング心理学で、青の時代の「人生」(1903:油彩197×127.3cm)という作品を考えてみよう。

http://www.abcgallery.com/P/picasso/picasso177.html

「人生(ラ・ヴィ)」(1903油彩、キャンパス)は、深い悲しみを湛えた作品だ。心の闇を象徴するような青のトーンが、画面全体を重苦しく支配している。中央には、描きかけのキャンバスがふたりあり、手前下には、女性と思われる裸の女性が疲れ切った表情で膝を抱えて眠っている。その奥の上には、先の膝を抱えた女性が怯えているのを、しっかりと男性がかき抱き、正面を見据えて、こちらを威嚇するように睨んでいる。男女は裸であるが、明らかにこの女性は、何か思いがけないことに怯えているか、深い悲しみに打ちひしがれている。それを支える男にも、押し寄せる怖ろしきものに打ち克つだけの力はない。弱き者たちが肩を抱きあって、人生のただならぬ大波に呑まれてしまいそうな恐怖が伝わってくる。もしかするとこの二つの絵は、左に裸で立っている男の、心のイメージを象徴しているのかもしれない。

裸で立っているのは、自殺してなくなった親友カサヘマスであろう。また傍らに寄り添っているのは、彼を振ってしまった恋人と思われる。しかし彼女は、心の中で、カサヘマスを本当に受け入れてはいなかったのだ。カサヘマスには、性的不能者だったという噂もあるが、真相は分からない。とにかく、恋人は彼の元を去り、カサヘマスは絶望の果てに、パリのカフェで、こめかみに銃口を当ててピストルの引き金を引いてしまった。

この二人の若い男女をじっと見ていると、不思議にあるルネサンスの先駆と言われたマサッチオの「楽園追放」(1427年頃、フレスコ画、フィレンツェのサンタマリヤ・デル・カルミネ修道院)という名画を思い出してしまった。もちろんこのあまりにも有名な絵は、神の言いつけを破り、「禁断の知恵の実」を食べて、楽園を追われるアダムとイブの哀れな姿を描いたものだ。結局、二人は知恵をつけたことによって、楽園を追放されるのである。何という不条理であろう。腰に身に着けたイチジクの葉は、恥を知ったことを象徴しているのである。しかし神は、そのイチジクの葉によって、禁断の木の実を食したことを知ったのである。何という不条理であろう。進歩が「原罪」と言う罪となって、人は一生それを背負って行かねばならないのだ。

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/31siturakuen.html

アダムとイブの如く描かれたカサヘマスの横には、聖母子を思わせる母子が描かれている。しかもここで重要なのは、裸の二人が、母親に抱かれた子供に視線をやっていることだ。特にアダムならぬカサヘマスと思われる男は、子供を指さすような仕草をしている。ここには神の怒りに触れて追放された者たちの救いを求める姿が象徴されているようにも見える。それに対して、神の子を抱く聖母は、冷たい視線を、この裸の二人に向ける。何だか、あなた方と私たちは人生観が違うとでも言いたげである。その姿もまた裸の二人とは、対照的だ。この母親はくるぶしまで来るような長い衣服に包まれている。

母親に抱かれた幼子の表情に目を向けると、そこには無垢な表情で眠っている後のイエスキリストがいる。この無垢な幼子にも、人生の法則は、容赦なく働いていて、後には、多くの人間の罪という罪を背負って十字架に架けられて、死ななければならぬ運命にある。人生とは実に無常なものだ。無垢な者も、原罪を自らで犯してしまった者も、運命という青の闇の如きなものを背負って、生き、そして死んで行かねばならぬ。絵の中のカサヘマスの顔にある深い翳りは、彼の死を暗示すると共に、人間の持つ先験的な不幸と不条理を象徴しているのであろう。現実的にこの親友の生と死がピカソにもたらしたものは、結局は、誰しも魂の中に持っている影(シャドウ)の存在ではなかったのか。

この絵において、カサヘマスという存在は、ピカソの中で、彼の人生の否定的な部分を象徴する「影」そのものとして描かれたのである。(もちろんそれはピカソの芸術的直感によってそのように加工されたのであるが)つまり、ピカソの魂の中で、カサヘマスという存在が「影」の部分を引き受けることによって、俄然ピカソという人間の陰翳が増したのである。「影」とは、ユングによれば、個々の人間の心の深い領域にあって否定的な一面を指す用語である。そして人間にとっては、「影」は受け入れがたい、しかも触れられたくない部分であると言われる。

「青の時代」のピカソのことを端的に表現すれば、結局ユングの言う「影」との戦いの一時期だったのかもしれない。もちろんそれは「戦い」とは言っても、人間同士の戦争とは訳が違う。心の中で、どうにもなじまないものを、うまく取り入れ、折り合いをつけるような精神的な「闘い」と言えるであろう。

ところで、今回の上野の森の「バルセロナ・ピカソ美術館展」には、この「人生」という作品の習作のスケッチが二点来ていて、興味深く見せてもらった。そこには、実際の作品の母子の位置に老いた画家(おそらくピカソ自身か?)と思われる人間が立って中央に置いたキャンバスの絵に絵筆を入れている。こうしてみると、当初作品のイメージは、カサヘマスとその恋人が抱き合う裸体図をピカソが描いているという構図ではなかったかとも想像される。それが何故、最後には、子を抱いた母子の姿に変化してしまったのだろう。その秘密を私はこのように考えたい。

この作品の時点で、ピカソの精神は、心の深い部分で、カサヘマスという存在を己の影として取り入れて、これと一体化することになった。そこで本来あったピカソ自身の姿は、描く必要がなくなった。己を書き込んでいた位置には、聖母子が配置されたという訳である。

つまりカサヘマスを己の中で、「影」として据えることで、ピカソはこの不幸な事件を魂において解決したのである。そして別の言い方をすれば、この時期においてピカソの自我は確立とも言えるであろう。それはピカソにとって、雷が近くに落ちたような衝撃だったと推測される。禅の言葉で表現すれば、「悟り」もしくは「大悟」と言ってもけっして過言ではない。

。ここで注目すべきは、カサヘマスの手の形である。どこかで見覚えのある形をしている。私が思うに、それはミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井に描いた「アダムの創造」のあのアダムの手である。

http://art.hotspace.jp/BibleOld/AGenesis/01Adam/mich.jpg

創造主に今まさに創造されたばかりの最初の人間としてのアダムは、肉体は青年ではあるものの、まったく無垢で無知で、己が何故ここにいるのかも知らない。神はただ、自分の姿に似せて、アダムを創り、天に去ろうとしている。無垢なアダムは、何も分からず、父である創造主の手に触れていようとするが、それは叶わない。神は遠ざかっていく。

ピカソもまたカサヘマスの姿を借りて、聖母子に触れたいと手を伸ばすが、当の聖母子は、まったくカサヘマスを別次元に存在しているよう者のように無視している。当時のピカソの神に対する不信のようなものか、母への追慕の情のようなものも、現れているのかもしれない。この作品のカサヘマスは、まさにピカソであると同時にアダム(人間)そのものの不安を表現しているのである。そこには自我が確立したばかりで、「影」としてのカサヘマスと、まだしっくりなじんでいないピカソ自身の精神の居心地の悪さも見えてくる。でもともかく、ピカソは、親友カサヘマスを己の「影」とすることで、最初の人間アダムのように誕生したのである。その意味で、この作品は、ピカソにおける「アダムの創造」ということが出来るだろう。

つづく

 


2002.10.17
2002.11.8

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