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アンテナ

私はこういったよそ様の企画に参加することは今までほとんどなかったのだけれども、なんだか参加してみたいと思ったのでした。というのもこの4ヶ月の間、考えて考えて考えて書くというしんどい作業を続けていて、それが先週末にやっと終わって開放されたというのがありまして。何も考えずにただひたすらキーを打って文章を書いていくというこの企画は私にとってとてもタイムリーなものに思えたからなのですが、ああなんだかもう日本語として破綻しているような気がする。でも校正しなくていいのは楽だ。校正しなくていいんだったらいくらでも書けるもの。何書いてもいいんだし。さてでは何を書こうかとかやっぱり考えてしまう自分はロゴスの奴隷なのでしょうか。ロゴスって何だっけ。今、実は仕事場なので本当は1時間もこんなことできるとは思えないんだけど、今日の仕事は暇でね。仕事といえるのは電話番ぐらいで。だから30分以上、電話がかからなかったら成立したことにしようと思って書いています。もし30分以内に電話がかかってきたらこれ丸々没なんだと思うと、余計に気の利いたこと書こうなんて気になれないのでこの企画にもフィットするのかな。どうなのかな。句読点の打ち方とか大丈夫なんだろうか。ああ、なんか打ちにくいと思ったらこれウィンドウズだった。横のマックでやればよかった。この会社というか事務所というか教育産業の端っこに属しているここは9階建てのマンションの5階にあって、ベランダの向こう側には5階建てのマンションが見えていて。座っていると他にはとくに見えるものもはく、アイボリーとグレーの建物と、それに負けないぐらい灰色の空が広がっているだけなんだけど、5階建てのマンションの上に無様に突っ立っているアンテナが妙に自己主張しているように見える。あのテレビのアンテナというのは美的によろしくなくて、少し高いところから見下ろすと屋根という屋根にニョキニョキとアンテナが立ち並んでいる風景は、いつもの地上からの目線で見えるものとはたいそう異質で気持ち悪い。VHS用のアンテナにUHFだっけ?あれ?VHSはちゃんと変換されるのにUHFは変換されないから間違ってるかも知れないけど、あれだ。テレビ神奈川とか。テレビ大阪とか。そういうやつのアンテナが申し訳なさそうにくくり付けられているあいつをもうちょっとスマートに作れないものだろうか。アンテナというのは感性というかなんというか、感性って言葉は少し恥ずかしいので避けたいのだけれど他の言葉を考えている余裕もないので感性だ。感性を向ける方向だとか、自分にひっかかってくるものを受け止めるための志向性だとかの比喩として用いることがよくあって、私の日記なんかにもよくアンテナ云々ってことを書いたりするんだけど、実物のアンテナの醜悪さと、それがありとあらゆる建物のてっぺんにのっかっている世界の住人であるという事実との折り合いをつけることを今までさぼっていたなあと思いましたとさ。でもそんなことさぼってもいいじゃんね。さぼるって表現自体間違っているな。ああ、あれだな。この作業って、普段は頭の中だけで処理して文章化しない思考過程のようなものも全部書かないと成立しないのな。2秒以上あけちゃいけないとなると、途中で脱線したり考え直したり気づいたり諦めたりするあれやこれやを全部書いていくことになる。つまり読む人から見ると、ぶさいくな思考過程も全部書かれているわけで、ある種精神的なレイプをされているようなものではないか。いや、そんなことないか。勝手にやってるんだし。むしろ露出狂か。わ。どこまで書いてたっけ。アンテナについて書いてたはずなんだけど、どういう流れで書いてたっけ。もういいや。アンテナといえばはてなアンテナ。わ。最悪。だめだ。はてなアンテナについてこんなところで今さら書き連ねることは避けたい。是が非でも避けたい。そのはてなアンテナなんだけど、多忙を極めたこの2ヶ月は自分のアンテナの詳細モードでいくつかの日記をまとめ読みするのが息抜きだったのでした。文体もめちゃくちゃだなあ。統一しようか。どうしようか。「ですます」で書いた方が無駄にタイプ数が多くなるから楽だな。また話がそれた。で、なんだっけ、はてなアンテナ。詳細モードで読めないようにタグを仕込んでいるサイトがあって。私はその心情は理解できるし、まったくもってそれで構わないと思ってるんだけど、詳細モードで表示されないようにしている人ってのは、はてなの詳細表示で読まれるぐらいなら読まれない方がいいと思ってらっしゃるんだろうから、やっぱり私とはだいぶ感覚が違うのかなとも思う。詳細表示ってのは、そのサイトの文章を読む気がない人にまで読まれてしまうってのが問題だろうし、はっきりいって無断転載だからいやな気分になるのもわかる。でもどうして私は平気なのだろう。あめぞうでもはてなでも最新の日記が無断転載されて広く公開されていて、しかも認知度も高いから私のサイトに来ずに日記だけ読んでる人ってのは結構な数になるのだろう。でも、それでいいというかむしろそれでお願いしたい。でもあれだ、写真サイトに乗っけてる写真がそんなふうにされたらたまらない。新しくアップした写真が、画像アンテナみたいなのにひっかかって、それだけずらずらと転載されたらいやだなあ。たぶん、そうされないようなタグを仕込んだりするのだろうな。はてなアンテナにせよグーグルにせよ、ロボット除けのタグを仕込むことで回避できる。インターネット上のリソースはどこからどんな風にリンクされようと基本的に文句は言えない、ある意味オープンソースなんだけれど、それでも著作権つうのは大事だってことで無断転載への対処法が用意されている。まだまだインターネット上の著作物とそれにまつわる諸権利うんぬんのあり方ってのは変化していくと思うのだけれど、個人の日記系サイトについてははてなアンテナの隆盛によっていろいろ議論が起こったのではないかと想像するのでありますよ。ほら、こうやって語尾を変えることで時間稼ぎしちゃったり。姑息だ。でも違う、そうじゃない、はてなアンテナなんかどうでもいい。今気になるのは日本中の屋根の上に乗っかっている線形だったり円形だったりするアンテナたちと、感性の感度と向きの比喩としてのアンテナだ。私はアンテナどころか電気のない村で生活することが長く、これからもその村には頻繁に行くだろうから、今こうして5階の窓から見えるアンテナたちを見ていると不思議な感覚に襲われるのであり、その感覚の正体をつきとめ、そしてその感覚の抽象度を高めて相対化することによって現代文明論だとかマスメディア論なんかの末席に加わり損う文章をひねり出そうとしているのであった。思い出した。加わり損っちゃだめか。加わるのだ。力強く加わるのだ。えーっと、えーっと、なんだろう、あのアンテナ群が織り成す風景が私の感覚に呼び起こすこの奇妙な渦は。ぐるぐる巻いてるこの渦は。ずっとこの風景の中で生まれ育ってきたから当たり前のものでしかなかったのだけれど、決してそれらは当たり前じゃない。わざわざ置かれたものなのだ。何のために。キャッチするために。電波を。電波の形で世界に満ちている情報とやらをキャッチするために。テレビ受像機で見るために。屋根の上に立ってるアンテナたちのおかげでっていうと語弊があるのか。いまやケーブルなんかもあるもんな。どうしよう。まあいい。地上波にせよ衛星にせよ、肉眼では見えないさまざまな周波数の無数のそいつらをキャッチして映像にして、ニュースを見たり楽しんだり時間をつぶしたりするのだ、我々は。そして私が世話になっている村の、アンテナのない世界では、人々の娯楽や時間つぶしや情報源はすべて生身のコミュニケーションによって行われている。身体を伴ったやりとりだけがそこにあり、電波はもちろんそこにもあふれているのだけれど、彼らは認識しない、つまり彼らの世界には存在しないのである。今、ふと時計を見たら40分。やった。もう成立したじゃないか。ああよかった。で、なんだっけ。自分の身体器官と周囲の人々や環境との間身体的なやりとりがすべてである世界と、屋根の上に建てたアンテナやケーブル(インターネットとか)なんかでマスな世界と直結した気分になって世界のすべてを知りうると無意識的にせよ信じている世界とでは、世界の見え方は違うのだろうか。我々は処理しきれないほどの情報を取捨選択するとどうじに自分たちの世界を外部と比較して、自らを相対化することができる。アンテナのない世界に住む彼らは、我々とは違うやりかたで、もっと直接に他者と向き合い、よその世界を肌で知ることによってしか自らを相対化できない。いや、そういうやり方で彼らは自らを相対化している。身体器官がキャッチできる情報の範囲は狭く、彼らが認識できる世界の広がりは視力や聴力に依存している電話。


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