[Menu]


インプロビゼーションとライブ性に関する一考察

とりあえず、多分今後反故になるであろう表題をつけてみた。しかしこの、エディタがEmacsだと、マウス使わなくてもその、カーソルが移動させられるんだよね。まあ、あまり移動させないというか、過去の文章を編集しないということでいいのだろう。とにかく書くと。うわ、いますごいことに気がついた。というか、マズいですよこれは。刻々とマズいことが。あー、そっちが気になって、しかしこれ、実況ですな。ライブ性。えーっとその、つまりですね、タバコが。灰が。1秒以内にこれをどうにか。あ、灰皿に置けばいいのね。すぐに。じゃあいくか。置いた。はっはっは。大丈夫だ。もうこれで問題はない。あとはその、えーっと、いつになったら終わるのか。30分って言ってたな。でもなんとかそれはなりそうだ。まだ3分しか経ってねえけどな。しかしこれ、後から読むのって自分だけ、あ、そうか、あまり考えちゃいけなかったんだっけ。そういうことは。じゃあとにかく書けばいいのね。なんかこの、普段キーボードでなにかしかの記号をコンピュータに入力する仕事をしてるわけで、なんつうんですか、あの、野麦峠というか、どうもこの、蟹工船というか、プロレタリアというか、つまり作業的な。機械的にとにかく手を動かす。あー、でも、プログラミングの場合、機械的に手を動かしたりはしないよね。結構考える時間が。そう。タバコ吸ったりね。そういう意味では、ただ書いてりゃいいってのはけっこう楽ではある。構成か。全体の構成を考えつつなんかやるってのも、そういえばよくやってるなあ。大体長い文章書くときって、まあ、なにも考えずにいきなり書き出してみて結果的に長くなっちゃうことも多いんだけど、電車の行きかえりとかでね、電車の行き帰りって変か。出勤途中で考えていることが多い。ふむ、私の文体って、文章の間違いに強いなコレは。フォローしやすい。いやまあ、そのために編み出されたようなぶっちゃけた文体なんだろうけど。そうですな、そういえば、句読点のないゲームの文章がカトゆーさんところで話題になってたけど、あれってモダンとも言えるよね。筒井康隆でもそういうのがあったと思う。やってみようかつまりこのように句読点がない文章なわけでさらにいえばある特定の文字を記述しないというさらなる制限を課せるとまた違った面白さが現れるんじゃないかなんて思ったりもするわけだがしかしこの句読点がないということもそれなりの意味がないとしょうがないかとも思ったりする多分筒井康隆らの思惑としてはきっと切れない思考の流れというものを表してるとか単純な異化効果も表してたりまあそういったところだと思うのだがこのテキストプレイの場合制約があるというのが面白いところなのだからさらにこのような制約を課すと相乗効果があるのかあるいは打ち消し合ってよくない結果になるのか少なくとも読みにくくなったことに相違あるまいさらにここでかんじをつかわないというさくせんもまずかんがえつくけどおもしろくはないかなあへんかんしなくてもすむというりてんはとうじょうするのだけどおやおやなぜかひらがなばかりにするとなんだかこどもっぽいぶんしょうになりますよやっぱりぶんたいとかきてにはみっせつなかんれんがしかしかくほうもりずむがとりにくいので漢字くらいはもとにもどすかいっそカタカナデカイテミルトイウノハドウカミナサンコニチアワタシハヘッドデスなんだかろぼっとみたいになってしまったあるいは奇妙な外人かおやもう15分ですか楽だなあこれただ実況してればいいんだから。つまりこれじゃなんか面白くないんだな。苦しまなきゃ。うーん、楽じゃなあ。単なる肉体的な持久走のようなあー、漢字変換ができなくてけっこういらいらしたぞ。精神の安定もやっぱり必要だろう。そうか、競争という要素があるといいね。さて、インプロビゼーション。即興と訳されるわけですが、これはコルトレーンのシーツオブサウンドというのがジャズでは有名デスね。つまり途切れなくだらだらと音数多く吹きまくる手法。これね、むしろ楽器に馴れはじめた若者はそうなっちゃうの。そしてそれはセンスがないとされる。もっと短く細かいフレーズで、いいたいことだけをしっかり言いきることが大切と。マイルスなんかはそうですね。だからこの二人は対照的。おれも若いときそうだった。もっと音数をしぼってやれ、とよく言われたものです。だからね、ああ、一度アルコールを飲んだ状態で演奏したことがあって、普段は音が続かないからやらないんだけど、つまり息があがっちゃうので避けてたんだけど、あるときその状態で吹いたら「音数が少なくて、今回いいソロだった」なんて褒められたことが。本人は不本意だったわけですが。まあ、得てしてそういうもので、だからこの長文などは、まあこういう文章を一気に公開しつつ書いたという、その一点については評かされるかもしれないが、基本的にはリアクションないだろうなあ。やっぱりね、結構書いたものがなんらかの反応を引き起こしたら、そりゃうれしいものですよ。大半は無視されるものですけどね。そういえばちょっと前に、ニュースサイトでリンクされたテキスト、ただみんなどーっと見に来て、そのまま去っていく、寂しいことだ、みたいな感想を述べていた方がいらっしゃいましたが、それはある程度仕方がないことだと思う。やっぱりさ、そのニュースサイトのひとがね、「こっちにおもしれえやつがいるぞ」って紹介してくれたんだったらともかく、大抵はそのネタについて紹介してるんでしょ。そうするとやっぱり作者についてはまずは考えないのじゃないだろうか訪問者は。やっぱり2度三度そういうことがあって、「またここか、このひと、面白いのかもな」と思って、ブックマークなりなんなりに入る。いや、2,3回じゃアマいかな.うわ、へんな点で確定してしまった。まあいいか。そういうわけで、ひとになにか覚えてもらうというのはですね、これはとても大変なことですよ。所詮私なんぞは個性があると思ってるのはきっと私だけでしょうしね。あれれー、もう25分?けっこう書けるなあ。これどんどん行ける。えー、せっかくだからなんか実験したいね。どうすればいい?なにかネタはないか?あ、こういうこと考えちゃだめなのかな?でも手を動かしているあいだ、頭はヒマなんだよね。うーん、なにか、この、誰だっけ、レーモンクノーの「文体練習」か、あれみたいなネタをやるのも面白いよな。つまり、ある出来事ひとつをいろんな文体で書いてみる奴。でももう遅いか。しまった、最初からそういうネタで考えておけばよかった。まあ、アドリブなんてそんなもので。そうか、最初からエッセイというか雑文を書くつもりであったが、この勢いで創作というのもアリだったのではないか。うーん、じゃあ、どうしよう。「お姉さま、ごきげんよう」うわ、創作って難しいわ。作業しながらだと。創作つーよりそれは二次創作という突っ込みもありましょうが。なんかスジというものがさすがに考えられない。オチもないのだろうな。前衛的な話になるか。祐巳は夕焼けのテレビにハードディスクだった。「さてこそ、白牛乳」「ややっ」「ではこれはどうかな」「△◎×■○〜!」最初のころこうやって叫んでたよね祐巳たんは。ああ、なんか前衛詩みたいなことに。マルボロじゃなくて、それじゃポキータだよな。マルドロールの歌か、あれみたいなことに。祐巳と祥子の手術台での偶然の出会いのように美しい、とかなんとか。「お待ちなさい」「なんすか」「エリが曲がっていてよ」「曲がっているのは金のエリですか銀のエリですか」オチが思いつかないよね、やっぱり。だとするとこうして放り投げエンドな。そういえばギャラクシーエンジェル最近見てないなあ。あれですよ、HDDの整理がつかないわけで。やっぱりアニメ感想日記ならすぐにやらないとダメだよね。タイミングがずれまくってると、そのアニメを見ていたひとも忘れちゃったりしてそうだし。ゲームもなあ、すぐやってすぐ感想を書けばそれなりに参考になるのだろうけど。まあ、有名なやつならね、例えば君望なんかをいまやって感想書けば、ひょっとしたら面白がって読んでくれるひとがいるかもしれないけどさ。つまりライブ感覚。おお、本題に戻ってきた感じ。ライブじゃないとだめってか。しかし、CDというものは、特にライブを録音したものは、あれはどういう存在意義があるのか。やっぱ、ライブの擬似体験でしょうか。でも擬似は擬似だ、とおっしゃるひともいるでしょう。すべてのノンフィクション報道は、あれは擬似だよね。でも、実際に現場を見るより、それがテレビに放映されたときのほうがよりリアリティを感じるというひともいる。超ライブってことだね。ライブを超えるライブ性。うっかり○○性なんて書いちゃったけど、ちょっとこの手の言葉つかうのはうまくないかな。曖昧なことが多い。逆に言うと誤魔化しが効く、ということでもあるけど。ライブねえ。しかもジャズのライブをCDで何度も繰り返し聞くこと。これはいったいなにが起きているのだろうか。計算されてないハプニングが、繰り返し聞くことで現れてきてしまうのだからなあ。やっぱりライブっぽくはないのか。どうなのだろうか。ジャズというものがインプロビゼーションの、あの虹色ラーメンによるとデタラメだそうだが、まあある意味でデタラメなんだけど、逆に言うとそれを音楽として聴かせるためにすごくたくさんのシキタリというかルールがあるわけで。がんじがらめと言ってもいい。だからこそ「ジャズではない」とかそういう議論が成り立つわけで。つまりひとによって定義があるわけだよね。そうか、ライブ性の定義が違うわけだ。ひとによってとにかく現場で聴く、ナマで聴く、握手できる、おれしかみていない映像がここに、そんなんで興奮するひともいるわけだな、きっと。さて、文章においてはどうなのか。ライブ性。なんか作家のひとは、部屋にこもって作品を書くわけで、そうか、俳句や短歌のひとか、人前で創作を行って発表しちゃったりするのは。ライブで、あなただけの文章が、ということはあまりないなあ。だからこそこのようなテキストプレイというのがもの珍しい企画として考え出される。きっと作家も作品を人前でいきなり記述しだす様式のジャンルがあれば、それなりのテクニックというものも編み出され、わりと訓練して簡単にこのような筆記ができるようになるのだろう。流しの小説家。あ、そうだね、吟遊詩人はこれっぽいね。時事ネタや相手に合わせて即興の唄を作詞して、歌う。やっぱり音楽の話に関連してしまうのか。演劇は詳しくないからわからないけど、そっちもそのようなネタがあるのだろうか。ひとまえで、あなただけにライブの演劇。それって、自分に酔ってる、自分が役者かなにかと勘違いして妙に演技ぶった態度を取るのにすごく近いか。あれ、なんか漢字変換が遅くなってきた。バッファが長くなってるから?関係ないよね。ふむ、これで私の文体解析というか、そういったものができそうだ。つまり私が今後どこかに脅迫状などを書いたとき、この文書がコーパスとなって、「やはりこの脅迫状とこの文章の一致度が90%を超えました」なんつって。そうおもって振りかえると、とはいえ、ほんの数行しか振り返れないわけですが、いつも自分の文章に「多いなあ」と思っていた「まあ」とか「アレ」とか「というか」とか「とか」とか、そういう言葉はあまり出てないぞ。結構意識しているのだろうか。ああ、あの「まあ」ってのは、「反対意見もここでありそうだから、ちょっと言い訳として書いておこう」という、若干逃げ腰な態度なんだろうな。断言してしまうとそれはそれで堅くなりすぎて、雰囲気に合わないから、という。だからこの文書では少ないのか。…とか言って、振り返ってみたらたくさんあったりしてな。もう前の方に書いた文書がどんなのか、わからないよ。えーっとテーマはなんだっけ?まあ、別にあれをテーマに、おお!「まあ」が出た。やっぱり書いてるんだな、きっと。しかし、ジャズのアドリブって、定番フレーズとかがあってね、つまり何分か前に書きましたが「シキタリ」ってやつよ、そういうシキタリに従ってないとジャズっぽいと思って貰えない、ということがある。だからこそ、ツーファイブフレーズとか仕込んでね、つまりネタストックですな、そういうのを溜めて出すようなところがある。要するにほんとにその場の思いつきの瞬間と、ネタで続けられる瞬間と、なーんにもわかんない瞬間と、そういうのが入り乱れるの。だからそういう意味ではこの文章もまったく同じ。先が見える瞬間とかがあるよね。あのネタにたどりついたからここは流れで…という。数行先まで読み通すほどネタを使ってないけど、でも大まかにはやっぱり思いついちゃうわけだ。ほんとに早さだけを重視するなら、真のデタラメな、これはこの本日秋葉原でビデオがToonが文章にてわかる魚の骨がいまインドでは大変な勇気のいることで新橋、あ、新橋は面白かったな。あれ、なにかの御笑いのひとのネタなのかな。ああいうナンセンスな、言葉のリズムだけの、そういえばこの文章言葉のリズムというものは考えてなかったなあ。うーん、あとから思いつくことばっかりだ。もっと練ってからはじめたほうが良かったか。いや、きっとそれでは主旨が違ってきちゃうだろう。これでいいんだな。書くことの喜び。喜びって感じじゃないですが。ロウライフさんが「校正なく文書をうpできるwebってかっちょいいよな」(意訳)のようなことを言ってましたが、やっぱりね、校正なく書けばだらだらとこんな風にいくらでも書けちゃうわけで、やっぱりそこに常識的な制限というものがあったほうが面白いかも。まあ、さっきから壊そう壊そうとしつつ、文章が壊れない、つまりああえあfzz・cxvzxど;いあうぇr;zscvzxcv。zxcmhふぁうぇr;ういおあsdfみたいなことにはならないのは、ある意味で理性が働いていると言えなくもないのですが。うーん、思いついたものをほんとにそのまま書くというのも、難しいことかもしれないなあ。2秒の間を空けることなくなにか書く、といってもその0.ナン秒かの間に構成を、ほんのちょっとの先なら考えちゃうもんね。あ、もう1時間経った?そういえばルールでこれ以上やっちゃだめ、とかあったようだな。じゃあ、これくらいにして、あと普通に巡回はじめたいと思います。長いこと無駄なことにご苦労さまでした、おれ。それでは。


[Menu]