混沌の廃墟にて -235-

究極の選択 (3)

1995-07-17 (最終更新: 1996-02-06)

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 死刑を論じる場合には、死刑を廃止すると凶悪犯罪が増えるかどうか、という 逆の観点からの議論がさかんに行われる。実際に廃止してみれば分かるのだが、 試しに廃止するという訳にもいかないらしく、難問となっている。

 テレビで何かの少年犯罪者へのインタビューで「今だったら死刑にならない」 と答えているのを見た記憶がある。しかし、裏付けとなる文献を見つけることが できなかった。実際にこのような発想があるとすれば、死刑が廃止された場合に 「死刑にならないなら、やってしまえ」と考える犯罪者が出てくる可能性は高い だろう。

参考:少年法第五一条 罪を犯すとき一八歳に満たない者に対しては、死刑 をもつて処断すべきときは、無期刑を科し…(略)
 このような考え方がある点からも、私の意見としては、日本においては、死刑 を廃止すれば、凶悪犯罪は増えると思う。小田氏によれば、前述の本では、死刑 を廃止した結果、イタリアではマフィアによる裁判官、検察官の殺人が簡単に起 きるようになり、また、イギリスではテロリストによる警官殺しが多くなったと 紹介している。例外として、ドイツでは大きな問題が起きなかった、とも紹介し ている。

 しかし、死刑廃止論者は、死刑を廃止しても犯罪は増えないと主張しがちであ る。確か、死刑を廃止してもあまり状況が変わらなかった、という国がドイツの 他にもある。アメリカである。なお、アメリカは州によって法律が異なるため、 死刑が廃止されているのは一部の州であることを指摘しておく。また、「あまり 状況が変わらない」とはいえ、アメリカの調査でも実際は死刑執行後には重大犯 罪が減るという報告があり、これが有意な値かどうかというのが論点となってい るのだが、死刑の判決例自体が少ないので、なかなか意味のある数字が出せない ようだ。

 さて、アメリカではなぜ死刑に際立った効果がないのか。最初の方にトリック と書いたことを説明したい。一言でいえば、アメリカは他の国とは違って、基本 的に「自分の命は自分で守る」というアメリカンな自主自立精神を根底に持った 社会なのである。もっと簡単に言えば、つまり、銃器の所持が可能な国なのだ。 この事実は、死刑の犯罪抑止力を論じるにあたって、極めて重要な要素である。

 死刑が特別な抑止力を持つ理由が「死」を避ける本能である点に注目していた だきたい。日本の強盗は、銀行に入った途端に射殺されるなどということは、ま さか想定しないだろう。しかし、アメリカは根本的に違う。強盗どころか、何の 悪意がない人でも「freezeと言ったのに止まらなかった」という理由で撃ち殺さ れるかもしれないし、かつその行為は正当化されるかもしれない国なのだ。この ような国では、死刑などという先のことは犯罪者にとってはさしあたって問題外 の話である。それより、犯罪現場で有無を言わさず射殺されるリスクの方が、は るかに現実的かつ深刻なことだ。

 だから、例えば、日本でも、もし死刑廃止以前に、まず一般市民の銃器携帯を 認めることにして、現行犯に対する防衛のためなら、発砲・射殺しても基本的に 罪を問わないことにしたとする。その時点で、凶悪犯罪は増えるかもしれないが、 それは今回の議論とは関係ないから考えないことにする。問題は、さらに、その 後に死刑を廃止した時のことである。その時点で、おそらく凶悪犯は「さらには」 増えないんじゃないかな、と思ったりするのだが。

 もちろん、銃器を合法的に持てるということは、それなりに犯罪が増える結果 を導くはずである。特に、凶悪犯ではない、故意ではない殺人、傷害致死、過失 致死はぐんと増えるだろう。カッとした時に、回りに何もないので手で殴るのと、 ビール瓶が横にあったのでそれを使うのと、運よく銃を持っていたので頭を撃つ のと、結果はかなり違う。ただ、日本でも今から百年ちょっと前には、武士階級 に属する人は刀を合法的に持つことができたのだが。刀が持てなくなったことに より、犯罪がどの程度減ったかという点についても興味がある。

 念のため、アメリカと日本では、凶悪犯罪の発生率が、まさに「桁違い」であ ることを指摘しておく。最近は日本も頑張ってアメリカに追い付こうとしている ようだが。

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 死刑の存続理由として、被害者側の精神的救済が指摘されることもある。凶悪 な犯罪に対して、犯人を殺してやりたい、という被害者の遺族は実際にいる。た だし、本当に殺す所までいった例はあまりない。これもおそらく刑罰の犯罪抑止 効果の現れだろう。

 最近といったのは、日本でも江戸時代までは「仇討ち」という制度があり、時 には礼賛されたこともあったからである。「目には目を」という言葉もあるよう に、相手がやったことはこちらもやる権利がある、という発想は、公平な立場の 実現方法としては極めて単純ながら説得力があるのだ。「相手は私の家族を殺し たが、私は相手の家族を殺すことができない」というのが不公平であることは一 見歴然としている。

 もちろん、実際はさほど不公平ではない。なぜなら、実は、現行の法律におい ては、相手が私の家族を殺したように、私も相手の家族を殺して構わないからで ある。もちろん、相手の家族を殺すことは殺人であり、刑法によって処罰される。 刑法は公平に適用されるはずだ。ただ、映画「リップスティック」のラストシー ンは、確か無罪判決になったという記憶があるのだが、最近テレビで見た時には、 なぜかそこがカットされていたようだ。もしかすると記憶違いかもしれない。

 仇討ちを描いた小説の多くで、本願成就の暁には自ら腹を切って満足して死ぬ、 といったシーンが見られる。これは、自分の生命を守るという極めて高い優先度 のタスクよりも、相手の命を絶つ作業の方が、さらに高いプライオリティを持っ ていることを意味するのだ。それが成立するためには、仇討ちが美徳とされた時 代背景が重要である。現在の日本は、いかなる理由があれども仇討ちは悪とされ る。オウムの村井氏が刺殺された時、犯人を誉めた人はあまりいなかったが、も し今が江戸時代だったら周囲の反応が少し違っていたのではないか。もっとも、 内部の犯行という説もあるようなので、状況が違うかもしれないが。

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 東京、横浜あたりは最近は物騒すぎて、待ち合わせに使うのもちょっと怖い。 オウムの事件は、実行犯が誰であるにしても、犯罪も技術進歩しているというこ とを強烈に示唆しているのである。例えば、重要なデータを光ディスクに入れて 逃亡しようとしたという報道があった。もう少し進んでいれば、海外のファイル サーバーに暗号化したデータをアップロードしたかもしれない。光ディスクのよ うな物理的メディアは押収するのは簡単かもしれないが、例えばNIFTY-Serveのデ ィスク上にあるデータはどうすれば証拠物件(?)として押収できるだろうか。

 死体が完全消滅した場合にも殺人罪は成立するのか、という疑問を前から抱い ていたのだが、今回は判例が出そうな気配である。ディスポーザーで粉砕して湖 に撒けば魚やプランクトンが完全に証拠隠滅してくれるし、高温で焼却して骨が 原形を留めないような灰にしてしまい、「これは飼っていたイヌが死んだので焼 いたのだ」と主張するとか。至近距離で原子爆弾を爆発させて跡形もなく訳のわ からない状態にするとか。問題は、死体がないということは、すなわち行方不明 であるだけで、生きているかもしれない、ということになる。なにしろ死んだ証 拠が全くないのである。

 テクノポリスのテクノ犯罪を防ぐためには、法律による犯罪抑止効果だけでは 駄目である。既に述べたように、死刑の存在を徹底させて周知させた場合ですら、 突発的犯罪や、確信犯には効果がない。そこで、これらを予防するためにも、や はりテクノロジーを駆使した犯罪防止システムの整備が必要だ。今でも簡単に出 来るのにやっていないことがたくさんある。例えば、ビデオカメラによる監視シ ステムである。銀行やコンビニには設置されているが、公道にも設置することに より、公道上の犯罪に対してかなり効果があると思う。例えば今回騒ぎになって いる拉致事件などは、そこら中にカメラがあったらかなりやりにくいだろう。ハ イジャック事件の後、機内にカメラがあったらという意見があったようだ。

 とか言ったら、そんな監視社会は御免だ、とか、人権やプライバシーの侵害だ、 という人が必ず出てくるはずだ。CPUじゃあるまいし、何事も1か0でしか判断でき ない人にはうんざりだが、実際そういう人がいるのだから仕方ない。蛇足してお く。何も全部の道をカメラで見張れと言っているのではない。新宿の地下のよう に極めて大勢が通る場所で青酸ガスが撒かれたら大変なことになる。このような 公共性が高くかつ万一の場合に惨事になり得る場所には監視が必須だ。

 しかし、全部の道にカメラが付いていて、監視される、というのも確かに窮屈 かもしれない。だったら、抜け道を作っておけばいいのである。カメラが嫌な人 は監視されていない道を通ればいいし、安全に移動したければ、監視されている 道を通ればいい。要は、そのような選択が可能な社会にしろということである。 例えば、オウム事件で上九一色村が監視された時のことを思い出してみよう。警 察は大きな道路を検問などでがっちりと固めた。そして、オウムの人達は裏道か ら簡単に出入りしている。ほら、やればちゃんと出来るではないか。:-)

 セキュリティとリスクの選択の場面で、人間はどのような行動をするか。行動 心理学の理論からは、どのような推測が可能か。結構面白いテーマだと思う。今 手元にないので記憶を頼りに書いておくと、ボブ・ショウのSF「過ぎ去りし日々、 いまひとたびの幻」というタイトルだったと思うが、スローガラスが出てくる有 名な作品がある。この世界では、市民は結局プライバシーのない生活にどう適応 したか、というのはこれから読む人もいるかもしれないから、伏せておこう。

 想像してみよう。ある電子掲示板では、売買の時に氏名年齢住所電話番号と連 絡のための勤め先の電話番号まで公開しなければならないとする。同じく、ある 掲示板は何も情報を出さなくてもいいとする。利用者は信頼を期待して前者を選 ぶかもしれない。しかし、リスクを承知で後者を選ぶ場合もあるかもしれない。

 買ったことがあまり公に知られたくないようなものを買いたいことがある。あ る種の商品は、通信販売で購入する時、分からないように包装するということで 気軽に買えるように工夫している。場合によっては、匿名で受け取れる私書箱が あれば便利だ。アダルトビデオを買うのは全く合法だが、それを他人に知られた くない、というのはありふれたシチュエーションである。もちろん、匿名で買い 物をすると、金銭のやりとりでトラブルに巻き込まれるリスクはある。金を払っ たが何も送ってこない場合どうするか。こちらが匿名だと「あんた誰?」なんて 言われた時にちょっと困る。これはリスク承知ということで、仕方ないという考 え方もある。

参考文献

 小田晋 人はなぜ犯罪をおかすのか?
  はまの出版 ISBN4-89361-180-1  定価1500円

 加賀乙彦 死刑囚の記録 中公新書565

    COMPUTING AT CHAOS RUINS -235-
    1995-07-17, NIFTY-Serve FPROG mes(6)-092
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1995, 1996