混沌の廃墟にて -233-

究極の選択 (1)

1995-07-07 (最終更新: 1996-02-06)

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 先日、どうやって調べたのか会社へ電話がかかってきて、商品取引をやらない かという話を持ち掛けられたのである。元々、株とか先物には興味があるのだが、 先立つものがないため全く手も足も出ないわけだ。話を聞くだけでも、というの で、実際に話を聞いてみることにした。ちなみに、この春は大豆が狙い目だった そうな。

 話は割と大雑把で、基本的な価格変動の説明とかより、何故か世間話の方が中 心になったわけだが、この急激な為替レートの変動の影響がどうなのか、あまり 詳しく話してくれないのは多少納得できない。

 何日かして、また電話がかかってきた。今がまさに買うタイミングだから、注 文を入れてくれ、という。しかし、こちらはプログラムを作って飯を食う生活を しているわけで、アルゴリズムが論理的に納得できない場合は基本的に信用しな い。従って、何がどういう理由でタイミングなのか理論的に説明してくれないと 駄目だと主張するのだが、情報は出せないというのである。これでは信用しろと いう方が無茶だ。

 この担当者だが、直接会った時には入社一年とちょっとだと言っていたのであ るが、電話では、今まで何人ものお客に喜んでもらっていますから、という。一 年でそんなにガバガバと儲かるものなら世の中の人間がほとんど商品取引で金持 ちになりそうなものだが、残念ながら私の知人という範囲に限れば、先物や株に 手を出して悲惨な結果になった例しか知らないのである。入社ちょっとで実績が あるという所から既に怪しくて、データが出せないというのが、さらに怪しい。

 問答しているうちに、人間として信用してくださいとかいう。これはセールス の常套手段らしく、複数の相手から同じようなことを言われた。皆さんも、今度 「こんなの出来るわけがない」という納期の条件なのに、状況が拒否を許してく れないような事があったら、「本当に出来るんですか」と聞かれた時「人間とし て信用してくれ」と言ってみる手があると覚えていれば役に立つかもしれない。 もっとも、私のように、こう言われたらかえって信用しないケースもあるのだが。

 絶対大丈夫なのか、結果は保証できるか、というと、もちろん、法律上それは 禁止されていると言うわけだ。ま、これは理屈にあっている。法律ならしょうが ない。fjのあるNGで「急ぐのだったら今持ち合わせがないからあなたが個人的に 立て替えてくれ」と突っ込む技があるそうであるが、さらなる裏技があると恐い かもしれない。

 ということで、数値攻撃である。間違いなく儲かるというのなら、どれだけの 危険率で儲けの選られる確率が推定できるのか、計算式と過去のデータに当ては めた場合の例も含めて教えてくれないと納得できんと言ってみたら、かなり困惑 しているようで、段々イライラしてきたのが声で分かる。そんなに言うならデー タを送ってもいいが、会社にそんなものを送ったら迷惑でしょうという。もちろ んそうだ。会社に送って迷惑だと分かっているなら自宅に送ればいい。もちろん、 このあたりは声色が微妙に変化していることから、ブラフである可能性もあった。

 だいたい、迷惑だと自覚しているのなら会社に電話するな。というわけで、こ のあたりでこちらも切れるタイミングだと判断し、いきなり罵倒モードで応対す る。この種の電話は、物別れになる時に、相手から捨てぜりふを言われてやたら 腹が立つことが多いものだ。だから、私は先手必勝というモットーでやっている。 何もデータを出さずに信用しろだと、ふざけているのか、と誠意をもって罵倒し たら相手も分かってくれたらしく、じゃあいいですと言って電話を切った。それ から全然掛かってこない。あ、担当者のあなた、もしこれを読んでいたら、電話 は迷惑だから、いい話があったら私用IDのプライベートな方に電子メールでも送 ってください。私用ID? 電話番号が勝手に分かるんだから、そんなの自分で調べ られるだろう。その程度の調査もできないような商社は信用できないので私は取 引する気は全然ないのだ。

    *
 死刑に他の刑罰とは異なる特別な犯罪抑止力があるか、という話題で議論して いるのを方々で見掛けるのであるが、実は、最初にこれを見た時には、私は寝ぼ けているのかな、と思った。その場ですぐにそう書けば大規模な戦争になるので、 「とりあえず、逃げる」がポリシーの私としては、あえて書かずに、論者達が水 掛け論でぐしょぐしょになった頃にこそこそ書いた方があまり燃え広がらなくて いいんじゃないか、と思ったのである。秘伝だが、この手の議論は相手が疲れる のを待つというのが常套手段である。もっとも、タイミングを誤ると、休憩して パワーを貯めている所に出ていって逆効果になることもあるので要注意だ。しか し、この種の話題の場合は、議論疲れの気配が全然見えず、延々と続く傾向が強 い。

 死刑に他の刑罰と異なる特殊な抑止力があるのは当然のごとく自明である。こ んな明白なことをなぜ今更議論する必要があるのか分からない。

 後述するように、死刑廃止になったために、凶悪犯罪が増加した、という例は 実際にあるそうだ。この中でちょっと気になるのは、イギリスで死刑廃止後テロ リストによる警察官殺害事件が増えたというケースである。はて、死刑廃止と警 官殺害とに、どのような関係があるのだろうか?

 探偵になったつもりで、犯罪者の心理を想像してみよう。

 「とにかく現場から逃げなければならない」状況で、かつ、警官がそれを阻止 しようとしている状況を仮定しよう。自首したり、無抵抗で逮捕されるつもりな ら、警官を殺害する必要がないし、警官がいなければ警官を殺害することは不可 能だからである。また、警官が凶悪犯をあえて見逃すということは希と思われる。

 この状況下で、犯罪者は、どうすればよいか。警官は犯罪者の逃亡を防ぐため に発砲してくるかもしれない。犯罪者にとって、非常に安全になる一つの方法が、 警官を殺すことである。これに成功すれば、逃亡できる確率が高くなり、また、 目撃者も減ることになるからである。しかし、失敗すると、新たな重い罪が加わ るというリスクがある。

 仮に死刑が廃止されていたとして、犯罪者が「捕まれば懲役十五年だ。ここで 警官を殺したら無期になるが、どうせ十五年も入るのなら大した違いはないさ」 と思って警官を殺す決心をするかもしれない。逃げられたらラッキーなのである。 ところが、さらに警官を殺すことによって死刑になる可能性が高まるなら、話が 違って来るはずだ。もっとも、最初から死刑確定の凶悪犯罪が完了している状態 なら「あと一人殺しても同じだ」と開き直るだろう。

 ただ、私見としては、このような極限状況下では、仮に警官殺しによって死刑 が確定する場合であっても、犯人がそれを冷静に判断できるかどうか、疑問を感 じる。また、紹介されているケースは、テロリストによる警官殺害なのである。 テロを行っても死刑にならないので安心して実行する。逮捕されたらさらにテロ を起こすなりハイジャックするなりして釈放を要求すればよいのだ。という訳で、 テロが増えてそけ結果警官が殺される状況も増えた、という解釈の方が当たって いそうな気がする。

 死刑廃止を主張する人達は「死刑廃止後に凶悪犯罪が増えた」というデータを 提示したがらない傾向があるようである。提示する場合も、この程度では死刑廃 止後に凶悪犯罪が有為に増えたとはいえない、という結論と同時に提示するので ある。もちろん、凶悪犯罪は増えているのである。死刑廃止後に減ったという事 例は聞いたことがない。ただ、例外的なデータがある。典型的なのが、おそらく アメリカだ。死刑を廃止してもあまり変わらなかったというのである。ただし、 これにはトリックがある。それについては後で述べる。

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 刑罰に犯罪抑止効果があるいう事実を理解するには、深く考える必要はない。 人間の持っている実に単純な損得感情の原理で簡単に説明できるからだ。人間の 行動は意外と単純なルール、すなわちつまり、「自分が得だと思うことをやり、 損だと思うことは、やらない」に従っている。この原理は、何も人間に限る必然 性もない。殆ど全ての生物は、さまざまな状況下で、このルールに基づいて行動 しているのだ。もちろん、損得の計算と現実の損得とには差があるのが常だし、 後の利益を狙ってあえて損するということもあるが、総合すれば何等かの意味で 得をするための行動というのが基本なのである。

 犯罪にこれを当てはめてみれば、実行した場合に逮捕される確率や、その時の 不利益、例えば罰金のような金銭的な不利益だけでなく、社会的な名誉、周囲と の関係が悪化する可能性、さらに、精神的な罪悪感などと、逆に、成功した場合 の得を秤にかけることになる。その結果、リスクの方が大きいと結論付ければ、 その犯罪は行わないだろう。これは、死刑に限らず、一般的な刑罰が犯罪への抑 止力を持っているという主張の根拠である。

 社会における抑止力、強制力は、刑罰だけではない。精神的な罪悪感、という のも一つの大きな抑止力である。また、流行や、宗教や、モラルも規範になるこ とがある。これらの強制力が形成される過程としては社会の影響が大きいので、 環境によっては、この種の強制力を持たずに育つ人がいる可能性も十分ある。ま た、規範は時代によって変化する。例えば、「牛を食べてはいけない」というルー ルに、論理的な説得力を感じる人は、今の日本人にはほとんどいないし、また、 実際食べている。しかし、明治になるまでは、日本は四つ足の獣を食べることを 基本的に不浄であるとした社会だったのだ。

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 今でも多くの国に共通するタブーの一つに、人肉を食べない、というものがあ る。興味深いことに、このタブーは極めて深刻な極限状態においても効力を持つ。 ヨットが遭難し、救命ボートで長期間にわたり漂流した人の手記がある。日が過 ぎるにつれ、体力のない者から脱落していく過酷な状況下で、船長は、自分が死 んだら生きている者で俺を食え、と言い、やがて死んだ。しかし、残ったクルー は、船長を水葬にし、やがてまた一人、一人、脱落していったのである。

 遭難事故で、死者の肉を食って生き延びた、という前例は実際にあるそうだ。 米不足とか何とかマスコミに躍らされて大騒ぎをしたのは記憶に新しいが、日本 では、さらに昔の話になると、不作になると本物の飢饉がやってきて、大勢が餓 死しているのである。その時には死者の肉を食うということもあったらしい。ま た、戦記によれば、兵糧攻めにされた場合は、最後は死者を食ってでも生き延び る、という記述が、これは日本にも中国にもあるようである。

 ただし、餓死するという危機的状況下でさえ、人肉食いは、やはり一応タブー だったのである。特に日本においては、死者に対してどのように供養するという 風習は、極めて複雑である。また、それを怠ると、祟りがあるとか、災いが来る、 と信じられていたし、今でも信じている人がいるのだ。人間は死体という状態と なっても、それはなお「一個の人間」という存在であり、霊的に様々な意味付け がされ、「肉」とは異なる神聖なものとして認識されているのである。

 死者ではなく、生きた人間の肉を切って食う逸話がいくつかある。中国には、 介子推が自らの腿の肉を切って煮て、飢えている主君の重耳(晋の文公)に食べ させたという有名な故事がある。日本では、槍で有名な後藤又兵衛が、仕官を断 った時に子供が誘拐されてしまい、おまえの子供は飢えているぞ、と脅迫して仕 官を迫るのだが、それを聞いた又兵衛は平然と自分の腿の肉を小刀で削ぎ落し、 だったらこれを煮て食わせてやってくれと渡した、というエピソードがあった。 もっとも、これはフィクションかもしれないが。また、飢餓のため乳が出なくな った母親が、手だかどこかを切って血をすすらせた、という話を聞いたことがあ る。

 餓死などというと昔話のように思う人が多いかもしれないが、実は今なお毎年 何百万人の子供達が飢餓、あるいは栄養失調のため普通なら何でもない病気で命 を落としている時代なのである。世界というマクロなレンジから見ると、食料の バランスは極めて悪く、予言された食糧難は実際に現実のものとなっているのだ。 しかし、たとえ飢餓の真っ只中の地域であったとしても、死者の肉を食っている という報道は見たことがない。また、仮にそのような光景を見たら、多くの人は 「なんて野蛮なことだ」と感じるのではないかと想像するのである。

 人肉を食べてはいけない理由を科学的に考えるなら、病気や寄生虫の伝染を防 ぐという意味がまず考えられる。特に、現代のように医学が発達していなかった 時代には、死者に近づいた者が死ぬという経験を何度も繰り返して、その結果、 死は伝染するという迷信的結論に至ったはずである。死体を食うどころか、死体 に近づくだけでも大変なことなのだ。これは長い時間をかけて作られたタブーな のである。

(つづく)


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -233-
    1995-07-07, NIFTY-Serve FPROG mes(6)-090
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