混沌の廃墟にて -165-

機械に操られる表現

1992-01-23 (最終更新: 1996-09-02)

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オンライン・コミュニケーションの場では、いろいろな俗語が飛びかっている。 特徴的なものは、文字によるコミュニケーションが主体ならではの独特な表現に 由来した種類のものである。

例えば、タトというものがある。これは「外」という文字を左右に引き伸ばし たものだ。何と読むのかは知らないが、私は素直に「たと」と読んでいる。意味 は、話題の本筋から外れました(外れてすみません)程度のものだろう。電子会 議などでは、通常、主たる話題の流れというものがある。この流れから逸れるこ とは、建て前として、あまり歓迎されないのだが、勢いというものもあるので、 かなりの程度のずれは避けられないのが現実だ。このような場合に、タトと書く のがしきたりとなっているのだ。(*1)

今の例は漢字の外見上の洒落から転じたもので、おもいっきり昔に戻れば「む べ山風を嵐といふらむ」という系譜に属するものであろう。これとは異なったニ ューウエーブの俗語の中に、キーの打ち間違いから転じたものもある。例えば 「みかか」。これは「NTT」をカナロックの状態で入力したらこう表示されること に由来している。こう表示されるのはJISのカナの時であり、OASYS配列や新JISの 配列だと、また違った文字の並びになると思うし、私のごとくDVORAKの配列でタ イプしていると、これまた違った結果になるが、この世界は早いもの勝ちらしく、 「みかか」で通じることになっている。

これらとは別に、一般の流行語と同じような理由で広まった俗語というものも ある。その中には、本来の意味から転用、流用されたもののように、イメージの 共通性をある程度根拠にしているものが多い。言葉というものは、本来流動的な ものである。特に流行語においては、元の意味が全く想像できないものもあるが (例 がちょーん)、元に別の言葉があり、連想的に派生したものも多い(例 アッシー)。

このようにして新語が生成されること自体は、避けられないのである。

以前、「フリーソフトウェアという呼び方を広めよう運動(長いな)」という 運動を提唱した。しかし長いキャッチフレーズだ。その成果あって、現状を振り 返ってみると、既に「フリーソフトウェア」という呼び方は一般に使われるよう になり、当時その意味で使われていたPDSという言葉は、本来のパブリックなもの に制限して使われつつある。(*2)

と書くとえらいカッコいいが、実は運動の成果とは何も関係なくて、単に時期 がうまい具合に一致しただけのようである。つまり、こんな運動があろうがなか ろうが、フリーソフトウェアという呼称は広まりつつある時代の最中だったとい うことだ。ここで重要なことは、PDSという表現が、仮に Public Domain を意味 するのだとしたら、フリーソフトウェアの実状、すなわち多くのソフトウェアの 作者が著作者としての権利を主張していること、にそぐわないという葛藤があっ たという事実である。ここでは、PDS=Public Domain Software の省略として使わ れているという前提があるから、意味の食い違いが発生し、問題になったのであ る。

さて、最近、よく非難の的になる流行語がいくつかある。これらが非難されて いる理由は、それがそう呼ばれることによって、著作権付きのソフトウェアを PDSと呼ぶような、矛盾した混乱が全く発生しないという点で、大きな差異があ る。例をいくつか示してみよう。

まず、「ネット」である。例えば、「NIFTY-Serveは会員が30万人のネットだ」 というように使う。私は特によく使う。ここで、ネットというのは、メディアを 通じて成立している、オンライン・コミュニケーションに参加している人の集合 体を漠然と指す概念である。私が使う時は、おおむねそういった意味である。こ れは net という英語とも洒落になっていて、なかなか語呂もいい。そして、ネッ トという言い方は、本来、network から派生したとも考えられる。しかし、実際 に使われている意味をその場から逆に類推してみると、「ネット」には、もはや 「ネットワーク」の略称という意味ではなく、コミュニケーションサービスその ものを指すという傾向が強烈に感じられる流行語であると言った方が事実を表現 している。

次に、「アップ」である。よくある批判は、upload ならわかるが、「アップ」 とは何かわからん、up って何ですか、という感じのものである。結論、わからな い人は放っておきなさい。通用する世界が限られているとはいえ、これこそ典型 的な流行語であり、新語なのだ。新しい言葉のイメージが、ある人達に伝わらな いのは仕方ないのである。流行語とは、しばしばそういう性質を持つ。アップと はもはやアップロードを意味するのではない。実際に使われている場面をよく見 るといい。「ご意見拝見しました、感想は後日アップします。」というのは、 「後日アップロードします」ではなく、むしろ「後日発言します」と読んだ方が、 ずっと話者の言いたいことを理解しているようである。「バグ修正版をデータラ イブラリにアップしました」なら、まだアップロードという雰囲気が強く残って いるが、それでも「入れておきました」と考えた方が、はるかにしっくりしない か? 要するに、自分の手元にある情報を公開する行為のことを、アップと呼ん でいると解釈すべきである。アップという言葉にはアップロードという限られた 意味より極めて広大なイメージを持っているように思うのだ。

逆の意味では「ダウン」である。「電子会議はダウンしてからゆっくりと読む ことにします」というのは、ダウンロードという意味だけではなく、情報を身近 に手に入れました、という強いイメージを感じさせる。つまり、単にオンライン で読むのと比べて、後で読むために、とりあえず手元にファイルを作成した状態 にしたという点が強調されているのではないか。ただ、アップという言葉に比べ れば、ダウンという言葉はそれほど拡張された雰囲気を感じさせない。これは、 もともとダウンという言葉が超多義語であることに一因があると思う。風邪でダ ウンするというし、センターはダウンするし、ショートアッパーの後の痛烈な右 フックでダウンするのである。これらのイメージに共通しているのは、倒れると いうことだ。いや、センターがダウンというのは、むしろ落ちるというイメージ か。そういえば、データをダウンロードすることを、「落とす」というのは何故 だろう?

これらの言葉に共通しているのは、いまや「ネット」「アップ」「ダウン」と いう言葉を使っている人達が、「ネットワーク」「アップロード」「ダウンロー ド」という意味をあまり理解していないという現象である。従って、厳密に言葉 を解釈し、かつ新語であると認める柔軟さを持っていない人は、「ネットワーク をネットと呼ぶのははしたない」などと訳のわからないことを言うのである。ネ ットワークとネットという概念が、もはやほとんど別のものであることを理解す ることができないのだ。

先程、矛盾した混乱が全く発生しないと書いた。例えばアップロードを連想さ せる表現として「ダウン」という言葉を使うと、これは混乱する。しかし、「ア ップ」というのは、単に省略した形式から派生した別の言葉として捉えれば、混 乱する要素は少しもないのだ。

これは著作権が留保されたソフトウェアをパブリックドメインと呼ぶのとは本 質的に異なっている。だから、「フリーソフトウェアという呼び方を広めよう運 動」のように「ネットという言葉は止めましょう運動」をしても弊害あるのみで あり、しかも全く意味がないのではないかと思う。

    *
早速「ネット」の話題。某ネットでの話である。ある人が「恥しげ」と書いて いるのを見て、何と読むのか分からなかった私は、タトであること承知で、どう いう意味なのか尋ねてみた。ちなみに、NIFTY-Serve に比べると、そこは話題の 逸れに関しては甘い雰囲気があった訳で、FPRG だとちょっと尋ねられないかもし れない。甘い雰囲気というのは妙だが、良く言えば「気軽に発言できる」という ことだが。

変な質問ではあるが、本意としては、これは「はじしげ」と読むのだろうか?、 と勝手に思い込んだのが発端である。最近のヤング(死語?)の使う言葉はわか らないので、俗語か流行語の類かなと思った訳である。

ところが、発言者のコメントによれば、これは「はずかしげ」と書いたつもり だったらしい。「はずかしげ」なら、「恥ずかしげ」であって、「恥しげ」とは 書かない。わが身の恥をさらせば、実は「恥かしげ」と書いてもいいものだと思 っていた。結局、辞書を見ると、「恥ずかしげ」としか載っていなかったのであ る。従って、「恥かしげ」は誤りのようだ。「恥」という字は流石に「はずか」 とは読めないのだろう。

これが単なる書き間違いか勘違いであったとしても、何も責める必然性はない し、別に責める気があった訳でもない。また、校正せずに文章を掲示したことを 責めているのでもない。そんなことは大したことではないのである。ましてや、 ネットでは日常茶飯事なのである。もし間違っているのなら、訂正すればよいだ けだ。否、それどころか、間違いであることが読者にわかれば、そう読み直せば コミュニケーションが成立するのだから、要するに何が言いたいのか伝われば万 事オーケーである。

書き間違いや勘違いは、誰にでもあるのである。ネットで間違ったことを書く と、もしかするとそれが数万人に読まれるかもしれないのだから、全く恥ずかし くないと言えば嘘になるが、しかし、むしろ指摘も訂正もされずにいつまでも残 っている方が恥ずかしいのではないかと思う。(*3)

ただ、今回興味を覚えたのはそういうことではないのである。思いがけず、発 言者自身からコメントをいただくことができたのだ。このコメントが極めて意味 深長だったのだ。「はずかしげ」で変換しませんか?、というのである。

先程「はずかしげ」と書いたつもり「らしい」と言ったのは、このようなコメ ントだったからだ。本人は「はずかしげ」と書いたのだと直接言ってはいない。 間違いを認めた訳でもない。むしろ、「変換しませんか?」という表現には、自 分は間違っていないというニュアンスが感じられる。ともかく、本人がどう書き たかったは一言も書かれていない。しかし、推察すれば、そう書きたかったこと は殆ど明らかだろうと判断し、「つもりらしい」と書いた訳だ。

その続きを書いておく。私は「変換しません」と返答した。その後は続かない のでこのタトの議論はこれで終わりである。ちなみに、私の使っているのはWXP、 WX2+である。WXPでは「はずかしげ」に対しては、「恥ずかしげ」と「辱しげ」 が候補である。

この人の考えていることを想像し、3通りの解釈を考えてみた。

まず、この人が、「はずかしげ」を「恥しげ」と書くのだと思っている場合で ある。思い通りに書いているのだから、この場合は単に言葉の感覚にギャップが あっただけのこと。しかし、この場合は、「はずかしげ」をこう書きませんか、 とコメントすると思う。

次に、「はずかしげ」をどう書くかはあまり気にしていないのだが、仮名漢字 変換の結果「恥しげ」と表示されたので、これが多分正しいと考えた場合。そん なことがあるのか? ものすごくよくある、と思う。コンピュータのすることは 全て正しいと考えるコンピュータ教(狂?)なる宗教は、今も健在なのである。また、 仮名漢字変換という魔法は、書き方を忘れたような漢字でも、すらすらと漢字に 直してくれる。自分よりも日本語に詳しいのではないかという錯覚に陥る。こう なると、多少妙な変換をされても、押し切られてしまうのだ。ちなみに、私はこ れで結構恥をかいてきたし、今もそうなので、身近に国語辞典は欠かせない。

もう一つ考えられるのは、仮名漢字変換の結果表示されたのだから、自分の責 任ではないという解釈である。送り仮名を間違えたのだとしても、それはコンピ ュータが悪いのであるという発想。

実際、誤変換が非常に多いことは、今更言うまでもない。単に読みだけを入力 して、人間でも間違える解釈のものを除けば修正しなくても完璧に変換してくれ る仮名漢字変換は現時点では絶対にないと断言しておく。また、そういうものが 無いという程度の認識は、誰もが共通に持っていると思う。では、誤変換があっ て普通のシステムにおいて、誤変換は誰の責任か。誤りがあることはあらかじめ 知っているのだから、知って使った人の責任ではないのか。それを使う人が、責 任もって正しい文字に直すべきではないのか。違うのである。間違えたのはコン ピュータが悪いのだ。なぜなら、そう考えた方が、楽だから。コンピュータに対 するこのような発想は、極めて多くの人が潜在して持っていると思われる。(*4)

さらに、コンピュータは、頻繁に誤るものであり、結果に対する人間の解釈が 重要かつ必要不可欠であることを認識していない人も多いのかもしれない。

人間が、「コンピュータのしたことだから、仕方がない」というように納得し てしまうのはなぜか。心理を究明してみると面白い。HAL の誕生日について複数 の説があるが、今年の 1/12 という話もある。確かにコンピュータによる人類征 服は既に始まっている。人類がコンピュータの奴隷となる日は近い。


補足

(*1) アスキーネット等で昔よく見かけたが、最近は見なくなった。

(*2) どうもエスカレートしすぎで、逆に「日本にはPDSは存在しない」という人 が増えてしまって困っている。

(*3) 揚げ足など取られたらコミュニケーションできないという人もいる。最近fj でも見かけた。経験的に、こういう人は出てきてもらわない方が助かる。

(*4) もちろん、この段は皮肉である。間違えるのは間違えた人が悪いに決まって いる。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -165-
    1992-01-23, NIFTY-Serve FPROG mes(12)-353
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1992, 1996