混沌の廃墟にて -145-

GUI (Game-User Interface)のすすめ

1991-03-28 (最終更新: 1996-08-13)

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久々にテレビを見たら、高校で九九を教えるべきかどうか、という議論をして いた。この議論は、九九ができない高校生がいる、という前提を知らなければ何 を言っているのか分からないかもしれない。九九は小学校で習う知識であるにも 関わらず、高校生が九九をできない、というアンバランスな状況が現実にあるら しい。

このテレビでの議論は極めて不毛だった。責任のなすりつけあいのように見え た。文部省が悪いとか、高校に入れるのがおかしいという意見もあり、それはそ れで納得できる所もある。また、個人差を考えると、日本の全ての子供が小学校 の2年で九九をマスターしなければならない、という決め付けに無理があるかもし れない。個人差に従って、ある程度はフレキシブルであってもいいと思う。例え ば±2年程度の学習期間の幅を持たせるとか。

しかし、一つ、根本的に議論で欠落していることがあった。どうして高校生に もなって、九九を他人から「習わない」とマスターできないのか、ということだ。 私はかなり小さい時にそろばんを勉強した。熟に行ったのではない。テレビのそ ろばん教室で勉強したのである。誰に言われたから、というのでもない。なんと なく、面白そうな形をしているから、程度のきっかけだったのだろう。とにかく、 掛け算、割り算はほとんどの同級生よりも前から知っていた。小学生の低学年の 子供であっても、その気になれば自力でそろばんで掛け算、割り算ができる程度 にはなれるのだ。

高校生なら、9×9の表を自分で作って、強引に覚えるという発想程度はあって もよさそうなものだ。九九が記憶できるかどうか、という問題と発想の可否は別 能力である。百歩譲ってその力がないとしても、小学生の参考書を買ってくると いう発想もないのだろうか。万一それもないとしても、誰かが一言そうアドバイ スすればすみそうなことである。わざわざ高校の教室で教わらないと、自力だけ では理解できないのだろうか。高校生が小学2年程度を対象に書かれた参考書を読 んで理解できない、という状況は、想像を絶する。よほど算数と相性が悪いとい う場合はあるかもしれないが。

ただ、本当に高校という場所でそれを教えてもらわないと九九が理解できない、 という人がいることについては、文部省の指導が云々と言う前に、議論しておく べきことがあると思う。

つまり、九九を教える、教えないという以前に、なぜ「小学生の参考書を買っ てきて自力で勉強する」という発想を持たせるような、自分からやる気を出させ るような方向の教育をしないのか、これが重要なのだ。また、義務教育が修了し た段階で、自力で九九を勉強するにはどうすればよいかわかないような人間を許 してしまうことも問題なのである。WXPは義務教育を「擬無教育」と変換した。こ れは言い得て妙である。

教師側がこの話題に深入りしない明らかな理由は、「九九を教える」よりも、 「九九を学ぶにはどうすればよいか、自発的に処理する能力を身に付けさせる」 方がはるかに困難だと思っているからだと思う。実際は小学生が勝手に思い付く ようなレベルの話で、どうってことないような気がするが、もし本人にやる気が ないなら、どうやってやる気にさせるかは難問ではある。

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GUIを使えば誰でも簡単にコンピュータを使えるようになる、という意見もあり がちだが、どうもこれは疑問である。確かにGUIはコンピュータを使い始める時に 導入の役割を果たす要素として効果的だが、GUIに向いていない処理も多くないだ ろうか。なぜそう思うかというと、現在あるようなGUIは何となくユーザーに「や る気」を出させないような感じがするのだ。

だから、アップルジャパンの広告だったと思うが、「小学生になろう」という キャッチフレーズを見て、私はあまり良い気分はしなかった。Macは非常によいシ ステムだと思う。この素晴らしい道具を使って、大人に小学生並のオペレーショ ンをしなさい、と言いたいのだとしたら、いったい何を考えているのか理解に苦 しむ。

そこで、暴論だが、一つ新しい主張をしたい。GUIが簡単なのはよくない。少な くとも、とっかかりの段階では、少し難しくしておくべきだ。

しかし、単に難しくするだけでは無意味である。もう一つ絶対に必要な条件を 付けよう。それは、UIを学習していく過程において、何か激的な能率向上や、性 能の変化が見られるように設計する、という条件である。つまり、最初は使いに くいような雰囲気があるが、慣れていくうちに、急激に能率的なことが出来るよ うになり、最終結果としては使い易いインターフェースになるということである。

これは、ロールプレイングゲームに魂を奪われてしまう状況に似ている。知的 好奇心は、誰しも少なからず持っているということを応用するのだ。一言で述べ るなら、「簡単に操作できるインターフェース」ではなく、「使って熟練してい く過程が面白いインターフェース」を設計しよう、ということになる。

興味というのがどの程度重要か、という例として「裏技」というものがある。 AとBのキーを押しながら電源を入れる、だとか、壁に向かって16回ミサイルを発 射してから飛び上がってさらに自爆するとか…(本当にそんなゲームがあるかどう かは知らないが)。これらはUIの見地から考えると実に非常識である。普通なら誰 も使いそうにない類のインターフェースであると言えよう。にもかかわらず、実 際はわざわざ攻略本を自腹を切って購入するだけでなく、面倒な手順をあえて熟 練しようとする人がいるのである。

市販のワープロソフト等の場合と比較してみるべきだ。この場合は、最初から 付属しているマニュアルに書かれている簡単な操作さえ読み飛ばされてしまうこ とが多いのはなぜか? 利用者の興味を引いていないというのがひとつ。もう一 つは、ワープロソフトを使うという行為そのものに、面白みが欠けているからで はないか。すなわち、これはマニュアルだけではなく、ソフトウェア側のUIの問 題でもあるのだ。

これからのUIは、単にメタファや視覚的効果を応用して簡単にするだけではな く、ユーザーの興味を引き、自発的に面白く学習させるような特性を持っていな ければ駄目だ。また、このような工夫をすることによって、ある程度複雑なプロ セスであっても、ユーザーは文句を言わなくなると思う。

ワープロソフトを面白くできるのかどうか私は知らないが、例えば難しい機能 ごとに得点を割り当てておき、文字の入力速度、間違いの割合など、各種の要素 を集計してスコアを毎回終了時に表示したり、ネットワーク対応なら本日の上位 10名のハイスコアを表示したりするだけで、「今日は新しい機能を発掘して使っ てみようか」という気分になる確率は高くなると思うのだ。

テレビゲーム世代の人間が、これからどんどん社会に進出してくる。タイミン グを誤ってはいけない。手書き入力を研究する費用の一部をさいて、A/Bボタンと 十字カーソルでシステムを管理するインターフェース手法も研究しておいた方が よい。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -145-
    1991-03-28, NIFTY-Serve FPROG mes(12)-042
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1991, 1996