混沌の廃墟にて -142-

GUI の光と影

1991-01-26 (最終更新: 1996-02-18)

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東京の駅には、なぜか大手新聞社が提供している写真ニュースが掲示されてい る。最近面白いものが多いような気がする。例えば、湾岸危機関連報道なのだが、 中東の軍事バランスについて図示したものがあった。どう見ても、イラストであ り、写真であるとは思えないのだが、写真ニュースというのだから、多分写真で あると解釈し、まあそれはいいことにする。

で、「就職戦線異常あり」という見出しが気になった。

良いプログラマーとは何か。という難問はともあれ、良いプログラマーを確保 するのは非常に難しい。単なる人材不足というよりは、教育的な問題と経営サイ ドの不理解だと思う。職人芸的な技能は、均一な人材を一律に教育しようとする 学校では伸ばすことが難しい。偶然プログラミングのセンスに優れた人材が育っ たところで、瞬間的精神想像力とひらめきを基礎に必要とするプログラミングと いう作業を、サラリーマンとして時間労働の中に当てはめてしまえば、伸びる芽 を刈っているようなものだと思う。

優秀なプログラマーはスピンアウトし、フリーランス化、または中小企業に走 る。ところが、ソフトウェアの世界は優れた製品・品質よりも知名度オンリーの 市場なので、この人生コースは破綻が待っている。世の中の市販ソフトがなかな か品質向上しないのは、かような背景が完璧に出来上がっているためだ。

さて、気になったというのは、「異常」という表現である。「西部戦線異状な し」という映画があったが…?「異状あり」だったかもしれない、映画はスター ウォーズ位しか知らないので…まあどちらでもいいが(よくない!)、とりあえ ず、戦線と言えば、「異状」という言葉が連想記憶からは出てくる。

異状というのは、普段と異なった状態を指している。対して、異常というのは、 正常ではないことを強調しているのだから、両者は意味が異なる。

「処理時間がやけに長いデータベースをずっと使っていたが、ここ二・三日、 いきなり反応がよくなった」という場合を考えてみる。動作は仕様通りで、デー タの壊れた形跡もない、正常に動いている、というのは、異常ではないが異状が あったことになる。逆に、私の使っているモデムは、買った時からずっと ROM に バグがあったらしい。これは異常ではあるが、現状としては異状はないのである。

小学館の新選国語辞典には「戦線に異状はない」「精神に異常がある」という 例が載っている。昭和50年、新版七刷と書いてある。同じ辞典で、最近の版で は例が変更されているが、理由は? :-)

私はこの種の使い分けは一応厳密に考える性格だが、実際に使う時には故意に 誤ることも多い。これはある意味ではジョークである。例えば、「このプログラ ムの出来栄えは中途半可です」のような、生半端な表現に用いるのは、れっきと したレトリックである。

「氏の発言は実に的を得ていて、反論の余地がないねぇ」というのは、 その人が“的を得てしまった”ために他の人が的を射られないことを 暗示しているので、これで いいのだ。つまり皮肉である。ところが、「的を得る」が誤語でないと思ってい る人が多い昨今、全然容量を得ない (^_^) 人がいる。あえて蛇足させていただく と、要領ではなく容量が足りないと言っているのだ(何の?)。さて、少し理解 できたつもりの人は、「的を得る、というのは俗な誤りだ、的を射る、と書きな さい」と忠告してくれるが、こういうのを「的外れな指摘」という。「的を射る」 は単に正しい表現であって、全然皮肉になっていないからだ。

「就職戦線異常あり」という表現は、このように考えれば、結構意味深長だ。 確かに異常なのかもしれない。「例年と違った動きがある」というのではなく、 正常ではないことが行われている、というニュアンスである。これが何を意味す るかは、想像するには及ばない。

    *
注意をひくためには、意表を突く、というのが常套手段。そこで、最近気にな っているのは、OpenLook や Motif などの GUI のデザインの、特にボタン・スイ ッチの立体的な表示である。単に立体的に表示させるのが流行だとか、何となく 格好いいからだろうと考えるのは間違いで、立体的に見えるということが UI の 見地からは非常に重要な意味を持っているのである。

グラフィックデザインとして、平面である CRT の上にボタンがあることを示す ことを目標とする。まず、それがボタンであることを明確に示す必要がある。例 えば、枠で囲んだり、色を変えてみたりして、目立たせることになる。ただ、枠 で囲んだだけでは、あらかじめ知らない限りそれがボタンであることは理解でき ない。Mac に慣れた人なら、何でもクリックしてみたがるかもしれないが、後か ら習熟したことであって、メタファがある訳ではないのだ。

面白いことに、大抵の人は、出っ張っているものは押したくなるものである。 星新一氏のショートショートに、これを利用して人類滅亡の判断をするという作 品があった。あらかじめ知識を与えなくても、出ているものは押したくなるのが 心理学的行動といえる。従って、ボタンを立体的に見えるようにデザインするの は、極めて合理的な方法であり、これ以外にはないのだ。

OpenLook を実現したものとして、OpenWindows があるが、この場合、ボタンは 平面上に突出したようなデザインである。これを押すと、逆に平面下に押し込ん だような状態になるのだが、私に言わせると、これはよくない。もし、トグルの ように再度押せる種類のボタンなら、出っ張りの度合が変化して、僅かに出た状 態になるのが自然だ。あるいは、複数のスイッチがあり、一度押したボタンは続 けて押せない仕様の場合、もはや押せなくなったボタンは、押し込んだ状態でな く、平らになるべきである。なぜなら、平らという状態が、押せないという状態 を示すからだ。押された、という状態を示すなら、輝度を変化させて他より目立 たせたり、点滅させるといった工夫がよい。

押したのだから、押し込んだ表示になった、というのは一見合理的である。た だし、へこんだ状態というのも、周囲とは異なった状態である点は変わらず、そ の意味では異状である。そのような状態は、どうも落ち着かない。

さて、もっと気に入らないことがある。殆どの GUI で表示されるボタンは、左 上から光が当たり、右下に影ができるデザインになっている。(OpenLook の仕様 では、もっと厳密に、光が左上45度の方向から照らしていると明確にされている。)

だが、これらのボタンを見て左上から光が当たっていると解釈するのは、単に そう思い込んでいるにすぎない。この先入観は誰でも持っている。実はデザイン の対称性を考えてみれば、右下から光が当たっていると解釈しても、全く不都合 はない。だが、殆どの人が、毎日、上から光が当たる環境で生活しているので、 心理的にそういう解釈をしてしまうのである。これは暗黙の大前提である。

もし、下から光が照る環境下でずっと生活している人がいたら、光は下から照 るという思い込みが生じるだろう。この人が OpenWindows を見たら、どのように 見えるだろうか? ボタンが、引っ込んでいるように見えるのである。

これを簡単に実験することができる。例えば CRT を上下逆にして OpenWindows を使ってみればよい。しかし、実際に CRT を逆にするのは CRT の構造上危険か もしれないから、本当に実験したいなら、CRT の前で逆立ちするとか、安定した 椅子に座って、おもいっきりふんぞり返るのがよい。椅子が不安定だと大変危険 だが、そこまで筆者は関知しないので、慎重にやること。ボタンのへこんだ OpenWindows は結構異様で面白い。蛇足だが、本当に実験するなら、経験上、上 司が近くにいないことを確認してから行動することをおすすめする。

残念ながら OpenWindows を使える環境のない方は、最近は GUI の本が各種出 版されているので、書店で適当な本を上下さかさまに手にとって見ればすぐわか る。(*1)

この現象に関する解説が知りたいなら、適当な認知心理学の本を読めばいい。 何か書いてあると思う。本気で画像認識するプログラムを作るには、この手の経 験則に基づいた処理が必要になるだろう。

逸れた話を元に戻そう。左上から光が当たるのがなぜ気に入らないかと言うと、 もしかすると、日本の文化背景から考えると、右上から光が当たるのが自然であ るような気がするからである。(*2)

つまり、左上から光が当たるというのは異状であり、精神的な不安を与えるの ではないか。ただし、これはあくまで推定で、実証したわけではない。ただ、西 洋絵画では、視線が左から右へ移動することを前提となっているが、日本画では、 視線は右から左に流れる前提となっていることが多いそうだ。これは日本画だけ の特性ではなく、古典芸能においてもそうだし、もっと俗な話だが、一般的に日 本人がモノを見る時に視線が右から左に流れるというのである。

昔、NHK の番組では、司会とアシスタントが並ぶ時には、司会が向かって右、 アシスタントが左だったらしい。これが、今は逆になっているそうだ。私はテレ ビをあまり見ないので、確認したわけではないが、要するに西洋風の並び方に合 わせたのではないか、とのことである。かりにこれが文化背景を考慮せずにこう なったとすれば、UI を混乱させるという意味で問題があるような気がする。

もっとも、西洋風の影響で、もはや視線の移動などという深層的な文化は絶滅 の危機に瀕しているのかもしれない。横書き文化の浸透は、左から右への視線の 移動が自然であるという経験を積むことになる。ワープロ・パソコンに縦書き機 能があまり見られないことが、このような現象を助長しているとすれば、あまり 面白いものではない。

ソフトウェアの画面デザインとしては、ほぼ全てが左上から光の当たることを 前提にしている。特に、ゲームソフトを観察してみると、よく分かる。最もメジ ャーなものとしては、ゼビウスやテトリスがそうである。逆の例は、ちょっと思 い付かない。

    *
光ある所影あり、というのは自然な表現だ。しかし、写実的な表現は、あくま で西洋風な影響からのがれられない。別に西洋風がいけないのではないが、日本 には日本の文化があるのに、GUI に応用しないというのは、もったいないと思う。 私自身、「日本人が書いたプログラムなら、もっと、わび、さび、があってもい いのではないか」と主張するのだが、プログラム全般に限らず、例えば GUI とい う見地からだけ考えてみても、日本的な要素を取り入れる可能性が多数見過ごさ れているような気がしてならない。

例えば、遠近法に関して、遠方のもの程うすく描くという手法は、水墨画では 常套手段だが、これをマルチウィンドウに応用したら、アクティブウィンドウは 明確なトーンで表示し、インアクティブのウィンドウは、色調を薄くする、背景 はさらに薄くする、といったインプリメントが考えられる。これは日本的な目で 考えれば一種のメタファとなるから、自然に見えるのではないだろうか。

また、ウィンドウそのものの配色にしても、日本古来の配色が生かせるはずだ。 季節感を表したウインドウ、というのは実現できないだろうか。「卯の花合わせ」 の色調のウィンドウデザインを試みた人はいないだろうか。4096 色から選択でき る程度の能力を持ったハードウェアがあれば、結構和風の色調は実現できそうな ものだが、デモンストレーションなどで見るのは、けばけばしい原色のウィンド ウだったりして、がっかりする。


補足

(*1) 最近ならWindowsがそこら中にあるだろうから、逆立ちして見てみればよい。

(*2) これに対して、机で作業する時には、左奥に光源を置くのが一般的ではないか、という指摘があった。確かにそうである。右手で書く時に、影で紙が隠れないためには、その方向が必要だからだ。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -142-
    1991-01-26, NIFTY-Serve FPROG mes(12)-002
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1991, 1996