混沌の廃墟にて -104-

ものを思ふ頃

1990-02-06 (最終更新: 1996-03-15)

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PDS という言葉は随分使われているが、よく「広義の PDS」とか、「厳密な意 味での PDS」という表現をみかける。(*1) 文中では、「PDS とは元来 public domain、 すなわち著作権の期限が切れて誰でも自由に使える状態になったソフトウェアの ことで…」などと書いておきながら、著作権を留保している freeware を平気で PDS 紹介のコーナーで出してくるので落ちつかない。

「この PDS は転載禁止です…」という文章をパッと見たとき、「この public domain software は転載禁止です…」->「この(著作権のない)誰でも自由な用 途に使ってよいソフトは転載禁止です…」というように連想してしまうので、PDS を転載禁止にする権限がいったい誰にあるんだ、と言いたくなる。

(余談だが、FPRG に登録されている freeware は、偶然にも「転載禁止」のも のと「転載禁止の禁止」のものがあって、ややこしい。)

もちろん、これは PDS という言葉の使い方がおかしいのであって、 転載を禁止するのがけ しからんと言うのではない。現実に著作権が主張されている以上、転載禁止は筋 が通っている。著作権の留保されているソフトを「著作権のないソフト」と呼ぶ 神経の方がどうも変だと思う。シュガーレスと書いてある食べ物に砂糖が入って いたり、無添加という漬物に合成着色料が使われていたら、普通怒るだろうに。 それとも、「この漬物は広い意味での無添加でして…」という説明で納得するの だろうか。

FPRG には、いくつか freeware が登録されているが、まだ PDS はない。だか ら、もしここから「PDS のライブラリに転載したいのだが」という相談を受けた ら、お断りしようと思っている。世間は freeware のことを PDS と言うのかもし れないが、少なくとも私の感覚では、(C) 誰々 と書いてあるものは PDS ではな い。それがどこかの PDS コーナーに転載され、「あ、これは(本来の意味での) PDS だな」と思って自由勝手に使われた時、それが「PDS のコーナー」だったら 文句が言えないではないか。:-)

と、思っているだけであって、現実は厳しい。転載依頼があったら、にこにこ しながら OK を出してしまう昨今である。実際に依頼を断るというのは、パワー が必要であり、私にはそれがない。

    *
仮にAIにより創作活動を実現することを考えてみる。機械が創作した結果を 表現することができないと、人間にとって無意味になりかねないから、表現力は 重要だ。結論を急ぐと、やはり機械に表現力を身につけてもらうには、既存の文 章を参考にさせるしかないだろう。

では、仮にシェークスピアの作品を全部読ませて表現力を身につけた機械があ るとしよう。この機械はシェークスピアの表現を模倣するのである。もしシェー クスピアが生きていたら、これは著作権の侵害だと訴えるだろうか。もしビート ルズの曲を全部インプットし、分析の結果オリジナル曲が作れたとしたら、それ はビートルズの著作権を侵害しないだろうか。

特定のサンプルに片寄ることが問題かもしれないが、考えてみれば、自己流の 表現の根本は、他者の表現の物真似のはずだ。もし「誰の文章も見たことがない、 せいぜい国語辞典だけしか読んだことがないが、ちゃんと文章が書ける」という 人がいるなら、お目にかかりたいものだ。文章というものが、基本的にコミュニ ケーションの手段である限り、「相手がどのように解釈したのか」という結果の フィードバックなしには、伝達手段としての文章を完成させることは難しいので はないか。

さて、かなり卑屈な解釈だが、世の中のほとんどの文芸作品が、他の文芸作品 を参考にした結果の成果だとしたら、それは既存作品の二次著作物だと極論でき る。しかし、常識的に考えて、この論理は却下されるだろう。ならば、機械に現 存する全ての文芸作品なりを読ませて、その結果に創作することのできた作品は、 二次著作物ではなく、機械が独自に創作したと解釈すべきだろう。

ただし、他者の表現をもろにそのまま使っては自分の表現とならない。それど ころか、今度こそ著作権の侵害にされてしまう。では、どの程度まで模倣するこ とが真似ごとにならない線か。これは感性とも関係ある問題だと思う。「感性」 が問題になってくると、いきなり機械化が困難になる。

本家取りという技法がある。元来、日本の文化は他者の表現を借りて自分の表 現とすることが得意だった。有名な歌の中には、漢詩に由来するものがある。例 えば、百人一首に、

        月みれば千々にものこそ悲しけれ
        我身ひとつの秋にはあらねど
これは、白氏文集の次の表現を手本にしたという。
        燕子楼中霜月夜
        秋来只一人為長
ところで、「月みれば」の歌に対して、さらに百人一首の選者である藤原定家 が本家取りしていて、次のようになる(話がそれるが、漢詩にせよ和歌にせよ、 横書きすると妙な感じがするのは何故か?)。
        いく秋を千々にくだけて過ぎぬらむ
        我身ひとつを月に憂へて
現在このような事をすると、同一性保持権とか改変権を盾に、「著作権侵害」 で訴えられるのだろうか(だとすると、なかなかせちがらいものだ)。:-) とも あれ、本家がわからない程度に(本当にわからないと本家取りにならないのだが) 変形できてしまえば、権利侵害にはならないだろう。

このように、せっかく日本には「本家取り」というめでたい手法があるのだか ら、これを徹底研究してAIに応用すれば、かなりの表現力を身につけたコンピ ュータが完成しそうなものだが、どうだろうか。

よく、欧米のポップスやロックのパクリが日本の歌謡曲に使われていると嘆く 人がいるが(私もそうだが)、善意に解釈すればこれは本家取りである(偶然の 一致だとすれば、 欧米の曲の方が先に発表され、それに異様に似たフレーズ がその若干後に日本の曲に出てくるケースが圧倒的に多いことが説明できない。 偶然なら逆も同程度にあるはずである。 この偏りは、日本の曲が海外に出ていくケースが逆に比べて圧倒的に少ないことに起因するのであろう)。では 嘆く必要がないかと言うと、本家取りの極意は原作の模倣ではなく、原作を越え た作品に昇華させる所にある。流行歌の場合には、昇華ではなく退行してしまう ので、嘆きたくなる。

もっと小さい単位で曲を分析してみれば、例えばリズムパターンというのは典 型的な例だが、誰もが他の人の真似から始めるのである。そこに自分の解釈や表 現が入って、はじめてオリジナルになるのだが、これだって他者の力の関与が非 常に大きいオリジナルではないか。それが悪いと言うのではない、いや、これで よいのである。なぜなら、リズムだって、コミュニケーションの手段なのだから。 共通の媒体なしに、意志の疎通はできないのだ。

「個人主義」というのは、まず個人の権利を主張する。本家取りという発想は、 表現を共有の教養とする所から始まる。古来、万人に知られた作品は、個人の作 品を越えて社会の共有財産となったのだろう。そのためには、多くの知識が共有 されていなければならない。誰もがオリジナルの作者を知っていれば、それは誰 の作品だと解説する必要がないのだ。

知識の共有化が、今や無理である。現在は情報過多を通り越して、人手によっ て情報を選択することも困難になりつつあるから。情報の怒濤の中から大衆的な 表現力を完成させることができるのは、機械以外にありえない時代が、そのうち 来るかもしれない。

        AIみての後の機械にくらぶれば
        昔はものを思はざりけり

補足

(*1) 最近は著作権が留保されたソフトウェアをPDSと称する記事をあまりみかけなくなった。しかし、なくなったわけではないようだ。
    COMPUTING AT CHAOS RUINS -104-
    1990-02-06, NIFTY-Serve FPROG mes(5)-109
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1990, 1996