混沌の廃墟にて -98-

集まる人の法則

1990-01-05 (最終更新: 1996-03-06)

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大阪と東京の性格の違いを例える話は、多々ある。例えば、電車に乗り込むと きに、大阪では並ばずに待つが、東京では並んで待つという伝説があった。これ だけの情報で判断すると、大阪の人間は行儀が悪いと誤解されてしまう。この後 に、「しかし、大阪では乗り込むときには待っている人の順番に乗り込むが、東 京では並んだ人の順番にかかわらずドッと乗り込む」という文章を続けると、評 価は逆転する。まあ単なる伝説である(と思う)。

電車を待つ人を見ながら、割り込み処理のバッファリングを妄想した。大阪型 の割り込み処理は構成がいい加減だが、割り込みの発生率が低く、さらにバッフ ァが大きいため問題が生じない。東京型の割り込み処理は、一応まともに作られ ているのだが、割り込みが一斉に発生するのでバッファオーバーフローになる。 どちらも好ましいとは言えない。

私は大阪で育った。電車に乗り込む時には、人が降りてから乗るようにとしつ けられた。もっとも、これは常識的なマナーのような気もするから、大阪とは無 関係なのかもしれないが、とにかく大阪では、実際そうだったのである。だから、 上京してきた頃は、東京では降りる人などにはかまわず(もちろん大勢降りる時 にはそれなりに待機するが)、とにかく乗り込む人は我先に乗り込むのを見て、 「おお、これが弱肉強食の世界か」と感心したものである。

そのような光景には慣れているわけだが、久々に大阪で電車に乗ろうとした時 に、降りる人を無視して我先に乗り込む人々を見かけて驚いた。大阪では人が降 りるまで乗り込むのを待つと言うのは、もはや伝説になってしまったのかもしれ ない。大阪の流行は、東京のそれが一年遅れで伝播すると言うから、東京流の手 法が大阪にも伝わったのだろうか。

    *
「電子メールの書き方にマナーはあるのでしょうか」という質問をたまに見か ける。マナーというのは、社会の暗黙の掟であり、それに逆らうと自然に社会か ら阻害されるような仕組みである。最近の風潮は、「自分のやりたいように」が 優先され、マナーはその次という雰囲気がある。阻害覚悟でこのような行動をと るのは構わないと思うが、もし自分に得になるように社会生活するつもりなら、 マナーを守らないのは大損だ。なぜなら、マナーが悪いと周囲の人の反応がよく ないのである。結局自分が最も損をすることになる。だから、自分本意になりた ければ、マナーを気にするのがよろしい。マナーというのは、戒律のように不自 由なものではなく、例えば手紙の最後に日付を書くような、なれるまでがちょっ と手間程度のものである。

しかし、電子メールの書き方のルールは聞いた事がない。CompuServe で英文の メールを送る時に実に困った。その時は、Byte 誌の CHAOS MANOR MAIL の書式な どを見ながら、適当に書いた。本当にあれでよかったのか自信はないが、英文の 手紙は初めてと書いておいたので、失礼を大目に見てもらえたかもしれない。

日本語で電子メールを書くときには、相当くだけた場合をのぞいて、まず「* *様」で始める。最後に、電子会議と同様の署名をいれる。他は特に形式は気に しないで、それより内容に注意する。手紙の場合は日付を入れるのが正式だそう だが、多くの電子メールの場合、自動的に日付がヘッダーに付加される。省ける ものは省略して、冗長なデータを読ませないようにと思っている。

数回メールをやりとりする場合は、相手の形式を参考にしてしまう手もある。

    *
人が多いと言えば、いつも面白いと思うのが、渋谷のハチ公前交差点。ここに 集まる人の数は、尋常ではない。特に土日はすごい。東京にあまりなじみのない 人は、東京に来る機会があったら、井の頭線を出て少し歩いたあたりからハチ公 前交差点が見下ろせる場所があるから、観察してみるといい。(*1)

この交差点はスクランブル交差点になっている。今時、スクランブル交差点な ど、何も珍しくないのだが、とにかく渋谷の場合は人の数が違う。信号が青にな ると、一斉に渡り始めるが、当然中央に向かってどっと繰り寄せるのだから、中 央付近で大衝突しそうなものだ。しかし、見ていると意外にすいすいすり抜けて、 何事もなく皆が目的地に向かって歩いているものである。非常に混雑していると 言っても、ある程度間隔があるのがミソらしい。

    *
元日には八坂神社に初詣に行った。八坂の風物詩としてはおけらまいりが有名 である。火縄に火をもらって、消えないようにくるくる回しながら家まで持って 帰り、その火でお雑煮を食べる(のだったと思う)。残念ながら今回はおけらま いりに行けなかったので、いつもながらの初詣だったが。

いつから八坂に行くようになったか覚えていないが、昔から八坂あたりは好き で、阪急河原町から八坂に行き人を眺め、哲学の道の方をずっと廻って後は適当 に帰ってくるというのが正月の贅沢だった(今年は清水寺の方に行ったのだが)。 八坂へはお参りするためではなく、人を眺めるために行くのである。

どこの神社にしても、必ず社に至るまでの参道のどこかにボトルネックがあっ て、人が境内に殺到しないようにできている。それでも、今年の八坂は例年通り 異様な混雑ぶりだった。

初詣によって、いろいろな日本風の考え方を考えることができる。日本の宗教 感については、初詣が宗教的行為か、という国会で議論されそうな問題はさてお き、これが一種の儀式である事は間違いない。初詣は、その一年を無事に暮らせ るようにというものである。諸外国の多くの宗教では、毎日祈ったり、毎週集会 に出かけることが義務的行為として日常生活に盛り込まれている。 これは、日本風の、一年に一度初詣しておけば その年は安泰、という考え方と比べると、常に祈るという意味で連続的だ。毎日 なんて面倒な、と思ったら、それは日本的である。毎日祈るというのは、毎日祝 福を受けるという実感である。初詣にでかけても、それがために毎日平安を感じ るという事があるだろうか。

このような、フラッシュモーション的行動が、日本文化の特徴だと思う。 例えば、プログラムを作る時に、完成したプログラムを目標として、延々と頑張 るというのがそうだ。つまり、目標は「完成した対象」に向かっていて、それが できるまでの苦心も苦としないのが「根性」である。これに比べて、プログラム を作ることそのものを目標とする考え方もある。この場合、生きがいは連続的で ある。日々のプログラミングに満足しているから、プロジェクトが破綻しても人 格は破綻しない。完成だけを目標にしていると、「今までの苦労は私の人生にお いてどのような意味を持つのだろう」と真剣に悩まざるを得ない。

もし火力で動くパソコンがあったら、おけらまいりで貰ってきた火で起動して、 今年一年、意表をつくバグがありませんように、と祈りたいものだ。ところで、 福フロッピーを配る神社は、まだないのだろうか。(*2)


補足

(*1) 井の頭線は現在改装工事中で、かなり状況が変わっている。

(*2) 今年は、みくじ機能を用意したWWWサーバーがあった。実はまだあったりする。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -98-
    1990-01-05, NIFTY-Serve FPROG mes(5)-040
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1990, 1996