混沌の廃墟にて -69-

手紙

1989-07-29 (最終更新: 1996-05-17)

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***様

前回のコメントでは、かなり意図的に差し引いた所もあったので、補足させて いただきます。

前回、オンライン・コミュニケーションが現在の段階では社会的に認知されて いないこと、将来的に認知させる必要があること、ハンドル・匿名による発言が 無責任な集団という印象を与えていること、以上について同意が認められたと思 うのですが、これらに的を絞って現実的な考察を試みたいと思います。(*1)

よく欧米との事例比較を例にして、例えば「CompuServe はこうだから、日本で もこのようにするとよいのではないか」という安易なアナロジーを持ち出すこと があります。大筋において、コミュニケーションのためのメディアであるという 共通部分が大きいことから、そう的外れな比較でもないのですが、忘れてはなら ないことが一つあります。社会的構造の差異です。これを忘れると、結局社会的 に認知させようという大目標に到達できない恐れもあるでしょう。

そこで、まず諸外国と日本との比較検討を始めてみると、特に日本社会の特徴 として、非常に強い縦方向への組織化、そして横方向への皆無と言ってよい程の コネクションの欠落に目が付くと思います。

アメリカは個人主義の国だと言われますが、例えば個人の発言は個人の意見と して他者から解釈されることを期待できるという意味で、言論の自由が徹底して いると思います。しかし、私に言わせれば日本においては言論の自由は全くあり ません(ここで言う“言論”とは、不特定多数をターゲットとするものを考えて います)。

何故そうなのか、を考える経過を省略して結論を急ぎますと、日本の縦方向の 社会構造の持っている特長が非常によくわかると思います。日本の社会の基本構 造は、縦に序列を持った組織の集合体です。それだけなら特に珍しいこともあり ませんが、注意して欲しいのは、日本では殆どの場合、その組織の中の一員とし て個人が存在しているという点です。

これは社会的な構造から派生した現象ですから、逆に「組織の中の一員ではな く、単なる一人の人間」として社会から認知されることが非常に難しいと言って もトートロジーであると思います。これは、匿名参加のオンライン・コミュニケー ションが社会から認知されない大きな要因となっているはずです。つまり、個人 的な意見よりも個人が所属する組織によって信頼度を判断するというのが、日本 の社会の大きな特徴なので、それを逸脱した方向のメディアが認知されるのはも ともと困難なのです。もちろん諸外国でも当然個人的意見より組織の一員として の発言が重視される傾向がありますが、比較すると日本の場合の極端性が群を抜 いているような気がします。

前回、具体的な例として、A社の社員がB社の開発したキーボードを高く評価 したとしても、それを個人的な意見として発表することができないだろう、とい うケースを出しました。これを分析すると、自分が所属する組織にデメリットに なるような発言は、たとえ個人的な意見としてでも、日本の社会の場合には行な えないという見方があると思います。

と書いたら、「それは組織の構成員である以上当然だ」という反論を持つ人が いると思います。いえ、そのような人が圧倒的多数のはずです。日本の社会はそ のような前提で成り立っているのだ、と書いた通りなら、少なくともそのはずで す。しかし、組織というのは別の解釈もできるのです。例えば、種々雑多な意見 を持っている人々が、最大限譲歩し共有できる主旨に基づいて構成する組織とい う姿は、個人毎の考え方が完全に一致することはありえないだろうと考えると、 非常に普通の姿だと言えるのではないでしょうか。もちろん、組織としての態度 を決定する場合には、大多数の意見が代表されるかもしれませんが、構成員が必 ず同意するかどうかは重要ではないと思います。

しかし、これも私の個人的な感想にすぎません。最近、自民党の中で消費税に ついて見直すべきであるという意見が出ていると報道されていますが、これを 「党内がうまくいってない」と解釈する人は多いかもしれない。党員全てが同じ 意見というのは私に言わせれば気持ち悪いのです。いろいろな意見があって、た とえ反対意見があっても、多数派に従うという意味で消費税という案が出てきた、 これならわかります。

また、政党の話に限らず、組織の構成員の発言が妙に一致している場合は多い のです。これは、実は同じ意見を持っているのではなく、「反対意見の者が言論 することを許されていない」からだと思います。繰り返しますが、日本の場合、 社会的には組織の構成員としてでないと個人の存在が認知されないとすれば、こ れは重要です。

つまり、「実名・所属組織名」を公開しているから、無責任な発言はしないだ ろう、という命題の裏を返せば、その人が組織に許された以外の言論を行なうこ とが暗黙的に禁じられているから、何か発言した場合には信頼できるだろう、と いう意味があるのではないか。これは、責任を持った発言をするという方向では なく、危ないことを発言しそうな人は黙らせてしまおうという方向です。言論の 自由がないと言ったのは、こういう意味です。

そして、日本的なケースでは、特に自分の組織に僅かでも関係しそうなものが あれば、上司の判断を仰ぐことが多く、また上司は安全策として、部下にあまり 喋らせないようにするのが通常ではありませんか。例えば、私はよく FPRG で 「会社では sun を使っているが…」という発言をすることがあります。Sun workstation を使っている会社など、日本だけでもごろごろありますから、sun を使っていることが会社にとって重要な事項であるとは到底思えないのですが、 それでも私はこのような発言をしてよいか、ちゃんと上司に打診して OK をもら った上で発言している訳です。

これには少し特殊な状況もあります。ソフトウェア開発の会社となると、開発 マシンの種類はかなり守秘の必要がある場合もあるからです。しかし、逆に、何 かトラブルがあった場合に広域ネットワークを通じて助けを期待したい場合に、 マシンは秘密です、と言われると答えようがない。私が発言許可をもらえた裏に は、このような打算もあったと想像しています。

まとめると、日本の現在の社会構造に従うかぎり、およそ実名・組織名のない コミュニケーションが社会的に認知されることは困難であり、逆に実名・組織名 がある場合に個人の発言は行なうことは難しい、ということになります。

    *
ところが、オンライン・コミュニケーションというのは、従来とは全く異質な メディアです。不特定多数の相手と交流できる可能性を秘めているという点は実 に画期的です。「タテ社会の人間関係」という本には、日本では社交性を育てる 場がないことを指摘した後、次のように書かれています。(p.52)
>     同様に「他流試合」の楽しさとか、きびしさもなく一生を終わってしまう
>   というおおぜいの人間が生産される。個性とか個人とかいうものは埋没され
>   ないまでも、少なくとも、発展する可能性はきわめて低くなっている。
これを覆す可能性を秘めたメディアが現われたわけです。そこで、現状の社会 構造から発展させるという前提で、我々が選択できるアプローチが2つあると思 います。(*2)

R)1つは、実名・組織名を公開して、メディアとして社会的に認知されるこ とを優先させるアプローチです。この場合、とりあえず現在の社会構造に横方向 の繋がりを持たせるような結果にはなると思います。

V)もう一つは、実名・組織名は伏せてしまい、現在の社会構造には決裂する ような影響を与えない状態のままで、社会的に認知させてしまおう、というアプ ローチです。

いずれも、実名・組織名を公開して、なおかつ自由な意見を発表でき、社会的 にも認知されれば理想的だと思いますが、そのためには現在の日本の社会構造を 変える必要があるかもしれません。今ある社会構造が千年というオーダーで続い てきたことを考えると、少なくとも50年とか100年という期間がそのために 必要ではないかと思います。

さて、現実に NIFTY-Serve 上での事例に限って考えてみても、両者のアプロー チがすぐに見つかります。特に、R)のアプローチを取っているフォーラムはい くつかあります。どちらのアプローチも考えていない、つまり社会的な認知とい うことを特に表面に出さないで活動するフォーラムも非常に多いようです。FPRG は、少なくとも SYSOP の方針としてはV)のアプローチを目指しています。ただ、 FPRG はサロンという建前上、SYSOP より参加者の方針決定の方が重視される傾向 があるため、強い方針に従って運営されているわけではありません。

例があるのですから、検証することもある程度は可能だと思います。私が問題 になると思っていることは、次のようなことです。

R)のアプローチについては、例え社会的に認知されたとしても、結果として 「個人の発言」はやはり抑圧されてしまうという、ミニ現在社会構造をネットワー ク上に構築されることが最も危険であると指摘します。それでよいと考える人も いると思いますが、私個人としては、ネットワークは自分の思ったことの発表で きる場であって欲しいからです。

V)のアプローチの場合には、社会的に認知されないという致命的な危険があ ります。この可能性はかなり高いと思います。また、匿名の状態については社会 心理学の研究によると、攻撃的・感情的になりやすいとされています(注)。理 性的な議論の妨げになる可能性もあると指摘しておきましょう。(*3)

    *
今、オンライン・コミュニケーションの世界では、大勢がR)のアプローチに 片寄りつつあると私は評価しています。このために、社会構造の制約を反映して、 個人的な感想はたとえ正しいと思っていても発言できないという弊害が実際にあ るでしょう(実名参加だから発言できないという声を聞いたことがありませんか?) 。

しかし、V)のアプローチは、本当の意見が聞けるという非常に重大な意味を 持っています。特に、ソフトウェア技術者に関しては、先端技術のノウハウが絡 んでいるので、迂闊な事が言えない、しかし問題も山ほどあるので互いの情報を 交換したいというジレンマを持っています。秘密性が高い分野になるほど、R) のアプローチでは何も言えない結果に片寄ってしまうでしょう。

日経コンピュータの '89 7/17 号のアンケート調査報告にある匿名の発言など は、非常に重要なレポートです。これと同じことを行なうだけでも、FPRG の存在 意義が十分あります。たとえ社会的に認知されなくとも、本当の意見が優先させ るような現場だと言ってよいでしょう。FPRG では、8月を強化月間とし、肝だめ し大会を計画しています。テーマは、「上司にばれるとクビになるような怖いお 話を…」となっていますが、実際に重要なのは、現在のソフトウェア技術者の世 界で問題になっている事を報告し合おうという点にあります。

先の話ですが、その結果に注目して欲しいと思います。いままで、「実名参加 でないと無責任な発言が増えるだろう」という意見はよく聞きましたが、実際 BBS などを見ていても実名でない人が(プロフィールを見ると実名が書いてあること も多いのですが)中傷に近い発言をしているケースをよく見かけますが、それ以 上に実名でありながら他者を傷つけるような発言を平気で行なう人が多いような 気がしませんか? FPRG は参加する時に実名であろうとなかろうと完全に自由で すが、それにもかかわらず議論は(冗談も)真剣です。これを見ていると、無責 任な発言の原因は、実名である/ないという点とは別に、例えば社交的な意見の 書き方がわからない、というような、根本的な所にあるような気がしてならない のです。

(注)反撃を受けることがない場合には過剰な攻撃をすることがあるとされ ている。逆に、反撃の可能性がある場合には(必要がある場合におい ても)攻撃を控える傾向がある。
    (参考文献)
    タテ社会の人間関係、中根千枝著、講談社現代新書 105
        ISBN4-06-115505-9
    社会心理学を学ぶ(新版)、大橋正夫・佐々木薫編、有斐閣選書
        ISBN4-641-18119-5

補足

(*1) 当時、ネットは一部のマニアだけが趣味に使うという世界だった。え、今も そうなの?

(*2) R/VというのはReal/Virtualのつもりらしい。

(*3) 実名だと攻撃する人が皆無になるわけではない。少なくなるわけでもなさそうだ。既にサービス終了した銀河通信、また、fj下の多くのニュースグループの過激な論争をご覧あれ。匿名でもあれを超えるのは難しいだろう。

(*) この文章はある人に送った電子メールの内容である。誰に送ったかは論旨に全く関係ないので伏せてある。要するに、ネットの発言は実名でやるべきだ、という主張の人に対する意見だ。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -69-
    1989-07-29, NIFTY-Serve FPROG mes(?)-383
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1989, 1996