混沌の廃墟にて -20-

余裕たっぷりの毎日

1988-11-03 (最終更新: 1996-03-20)

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会社で作業中にCDを聴いている。これを時々家に持って帰って聴くことがある。 普通に持って帰ればよいのだが、何を間違ったのかCDの中にディスクを入れたま ま持って帰ってしまった。説明のため、このディスクをAと呼ぶことにする。

Aを聴いているうちは平和なのだが、突然他のCDも聴いてみたくなる。CDプレ ーヤーのフタを開けた時点で、「はっ」となる。なんとケースをはるか彼方に置 いてきてしまった。(彼方といっても会社なのだが)

神経質なのかもしれないが、CDを裸で外に出しておくのは非常に嫌である。CD が発売され始めたころは、今よりもかなり値段が高かった。次第にLPでリリース されるアルバムの種類が減少し、CDの方が種類をそろえやすくなった頃、「LPよ り高いCDを買わなければならないような状況を作り出そうとしているレコード会 社は横暴ではないか」といった内容の投書が目についた。しかし、この理論には 私は納得しかねる。

LPの寿命は非常に短い。あるオーディオマニアの先輩に聞いた話だが、カート リッジで数回、少なくとも十数回聴いただけで高音の音質は聴いてわかるほど変 化するそうだ。レコードをよく見ていればわかるが、樹脂の上をダイヤの針でひ っかくのだから、劣化するのは当然である。よく見れば、演奏中に旋盤を使った 時のような削りかすが出ているのが確認できると思う。

だから、マニアはレコードが減るのを避けるために、買ったらすぐさま2トラッ クのオープンリールという前世紀の遺物にダビングしてからテープに録音した音 を聴いたものである。今だとDATかもしれない。(*1) そこまで極めなくても、カ セットに録音してから繰り返し聴く人は結構いたのではないか。別にレコードが 減るからではない。LPはちょっとした操作ミスで針を滑らせると終わりである。 簡単に傷を付けてしまう。カセットは普通に使っていれば致命的なことにはなら ない。操作性は非常に重要なファクターなのだ。

それに比べて、CDは何回聴いても全く音が「減らない」し、何より操作は簡単 である。これは簡単に値段では比較できない長所ではないか。例え

  LPの値段×(CDで最初の音質で聴ける回数/LPで最初の音質で聴ける回数)
という値段が付いても不思議ではないが、そのような値段が付かないわけは…そ んな高価格になっては誰も買えないからだろう。:-)
    *
CDの最大の特長は高い音質ではなく、上に書いたように何度でも同じ音質で再 生できることだと思っている(もちろんデジタルメディアのもつ高音質に関連した 特徴だが)。しかし、いくらデジタル録音だと言っても、盤面をひっかいてしまっ ては再現できなくなっても不思議ではないので、傷をつけないように極力注意す るべきである。従って、CDをケースに入れておかないと気分が落ち着かないのだ。

ちなみに、フロッピーはエラーが出るものだと思っているから、平気で裸のま ま放置したりする。思想が一貫していないのはわかっているのだが。

さて、ケースがはるか彼方にあると書いたが、それでも別のCDを聴くことは簡 単である。聴こうとするCDはプレイヤーの中にディスクを入れなければならない。 従って、そのディスクのケースは一時的に空になるはずだ。そこに、ケース不在 のCDを入れておけばよいのだ。この程度なら、同じ状況になれば誰でも思い付く 解決策だろう。

具体的に説明すると、Bをケースから取り出して片手で持っている。もう片方の 手でプレーヤーからCDを取り出して、Bのケースに入れて、Bをプレーヤーに乗せ る。

    swap(&a, &b);
である。

このようにして無事Bを聴くことができると、なぜか今度はCを聴きたくなる。 すると同じようにしてCを聴くことは簡単だ。そして、どんどんCDをメドレーで 聴いていくのだが…何か妙なことになっていないか?

もう一度確認しよう。最初、Aのケースがなかったので、Bを聴いている間はB のケースにAを入れておいた。次にCを聴きたくなったのだが、ここでCを取り出 し、CとBを入れ替えたので、CのケースにBが入った。以下繰り返しで、めでたく ありったけのCDを聴くことができるのだが、聴き終わった時点で何とすべてのケ ースに最初とは違うCDが入っていることになる、いや、なった。

便宜上AとかBとか書いたので、BのケースにAが入っていることが自明だが、実 際はAもBも名前を覚えていられないので、どのケースに何が入っているか全くわ からない状態になる訳で…これは大変だ。

予備のケースが一つあれば、このように破綻することはなかったのに。

    *
これと最もよく似た現象が、フロッピーディスクで発生している。私はテキス トの作業用ファイルを work というディスクに入れているが、これがいわゆる 2 HD というディスケットである。ちなみに、今そのディスクで作業をしている。余 りの容量は 40K bytes 程度である。だいたい 40 〜 100K 程度の余り容量の時が 多いようだ。これより容量が不足すると、エディタが起動できなくなる。(*2)

編集できなくなると意味がないから、使いそうもないテキストから他のフロッ ピーディスクに転送するのである。すると使い終わったドキュメントが無秩序に 他のフロッピーに分散されるだけである。今も VONP のドキュメントを整理しよ うと思ったら、該当するフロッピーが見つからない。困ったものだ。

もちろん、こまるのはフロッピーのせいではなく、ちゃんと整理しておかない 自分の責任である。しかし、ファイルをまともに整理するのは、ドキュメントの 数が多いと結構面倒だ。マルチウインドゥの環境でもあれば…と、結局話はそこ へ行き着くのであるが、エディタが一つしか起動できないのではどうにも手間が かかりすぎる。(*3)

    *
この程度なら、自分で迷惑を被っているだけだから別に何ということもないが、 仕事でファイルを共有する環境になるとそうもいかない。目一杯全員がファイル を使うとシステムが動かなくなってしまう。一応の目安がありそうでないような ものだから、とにかくファイルをディスクに持っている。テープに保存して削除 しようという発想は全くない。

私の場合、自分のディレクトリ容量が 20MB を一応目標にしている。(*4)これ は、たまたまテープにバックアップするのに 20M 以下だと簡単だからである。 これを意識していると、結構ぎりぎりの所で…19.5M あたり…何とかこらえるこ とができる。しかし、今使っているワークステーションは油断すると 1M のオー ダーの core (*5)が簡単にできてしまうので、うかうかできない。もっとも core が簡単にできるという事がそもそも変な話なのだが、慣れるとこんなものだと思 って納得してしまうから怖い。

なぜか容量が制限されていると制限ぎりぎりまで使ってしまう。余裕がないた めに不都合が生じることがあっても、やはり使ってしまう。性格を変えた方がよ いといつも思っている。


補足

(*1) 当時はMDという選択肢はなかった。

(*2) 最近はTP230Csを使っている。ハードディスクの残り容量が20MBを切ると要注意という感じで作業をする。

(*3) 結局、今も、マルチウィンドウの環境ではない状況で作業している。というのは、マルチウィンドウが実用的に使える環境がまだないからだ。どの程度の解像度が必要かという点については別の回に書いたので省略する。また、同時に多数のファイルを開ける環境で作業すれば、まだ忍耐できる限度内になるようだ。

(*4) 流石に最近は気にしない。こんなことを考えているよりも、ディスクを増設した方が、トータルコストはずっと節約できる。バックアップも、テープが一本あれば、数GBまでは簡単である。

(*5) SunOSはlsで見た時のサイズが数百MBというcoreを平然と作ってくれることがあるようだ。


    COMPUTING AT CHAOS RUINS -20-
    1988-11-03, NIFTY-Serve FPROG mes(?)-345
    FPROG SYSOP / SDI00344   フィンローダ
    (C) Phinloda 1988, 1996