同人誌レポート −同人誌編−('95〜'96)

 三崎尚人が現在発行している同人誌「三崎尚人の同人誌レポート」に収めた文章です。

書評「彼女たちの連合赤軍」(大塚英志著・文芸春秋刊) 1996.12.28

 待望久しく刊行された大塚英志の「連合赤軍」についての単行本。得意の消費社会論をベースにしながら、フェミニズムにも踏み込みんで、早すぎた「フェミニスト」永田洋子の悲劇と早すぎた「おたく」森恒夫の悲劇を浮き彫りにする手法は相変わらずさすが。それをふまえた上で、80年代的消費文化の果てにオウム真理教の女性信者たちの信仰を通して自己実現を達成しようとしたことは、フェミニズムの敗北ではないか、という問いかける視線も秀逸。

 だが、押さえておく必要があるのは、大塚自身の迷いであろう。以前はあれほどあざやかに「少女」を語ることができたのに、最近その役目を彼は放棄しつつある。戦後社会が「サブカルチャー」であり、それは「歴史」の名に値しないというそのあり方を批判して、丸谷才一と江藤淳と大江健三郎を絡げてしまうある種の強引さを用いてまで、「サブカルチャー」と歴史に拘ろうというのは、自らの道筋を歴史として再確認しなければ足元が固まらないことの裏返しである。そこには、自信に満ちたかつての断定はない。80年代的消費文化の地平の先に立ちつくしている、という点においては、大塚も他人の事を言えた義理ではないのではないか。宮台真司ほどかっこよくもなければ、おしゃべりでもなく、頭も良くない大塚にとって、コギャルと戯れるのは苦痛でしかないかもしれないけれど、それを止めてしまい語れることだけ語るなら、ただの大人である。もちろんそれを大塚の「成熟」と言い換えることもできるが、「サブカルチャー」に根差す人間のあり方とは決定的に異なるだろうし、彼の望んだ大人像でもないだろう。そして、万が一にもあちら側の人間になってしまったならば、そのこと自体は彼の生き方それでかまわないが、そうなってしまったならば、味方面してこちらには戻ってきてほしくない。そこまで含んだ上での「迷い」であると私は信じたい。

「楽園の崩壊」−−パラダイムシフトは果たして起こるか 1996.08

 かつて6年前、私は、拙作「少女たちは楽園をめざす」(コミケットセレクション6所集)において、女性系アニパロブームの隆盛の分析を行いました。そして、結論として既に沈滞期に入っていた商業少女まんがの活性化の鍵は、女性系アニパロブームこそが握るはずだ、と結論づけたのでした(本文を読んでみたい方はhttp://www.st.rim.or.jp/~nmisakiからたどってください。ホームページ実験公開中です)。

 このとき描いたこのグランドデザインですが、6年経っての現実は厳しいものがあります。確かにまんがファンは拡大しました。しかし、その拡大したまんがファンという限定されたパイを食い合うこと以上の発展は、個別の作家の突然変異(高河ゆんであり、尾崎南であり、CLAMPである)以外はついぞありませんでした。最近のまんがとアニメの世界で私を苛立たせているのは、そこそこ大きくなった市場さえ相手にしていれば、そこそこの商売が出来るとしか思っていないサプライヤー側の志の低さです。同人誌の魅力としての「資本主義ごっこ」が「ごっこ」のままに商業化され、しかもそれで事足れりとなっているようにしか見えないのですが。
 そして、女性系同人誌は、すべてを背負わされ、可能性を吸い取られて立ち枯れてしまっているようかのようになっています。多くの果実をまき散らかすにまき散らかして、ちゃんと手入れをしなかったツケでしょうか。でも、誰が手入れをするべきなのでしょうか。送り手自身でもあり、編集であり、即売会であり、読者なのではありましょう。ところが、今、商業的にも内容的にもそれなりの成果をあげている送り手は、自分ですべて出来る人だけです。自分の面倒を自分で見れない人以外うまく行かない仕組みなら、これは行き詰まってしまします。
 確かに、何もしなければ、つぶれたでしょう。それは、「少女フレンド」の撤退を見ればよく分かります。しかし、だからといってそれが現状の肯定とは何らつながらないでしょう。
 このような状況で何が出来るのか…。何もできません。この流れは止められません。今のシステムからは新しいものは生まれません。男の子達のばか騒ぎが終わる5年くらい先に今のシステムとは違うところからまったく新しい描き手たちが生まれて来なければ、女の子たちの復権はありえないでしょう。パラダイムシフトが必要なのです。パラダイムシフトが起きるのは、この商業誌も含めたミニマムマーケットが崩壊した後でしょう。しかし、なまじマーケットとして大きくなってしまった分、そう簡単には崩壊しないでしょう。同人誌ですら崩壊するすると言われてようやく今年なのですから。特にこの後は、これで飯食ってる人たちの闘いになりますから、必死でしょう。恐らくは、さらにさらに刺激的になって、有害図書指定をも考えなければいけない状況になると思います(特に最近いろいろとうるさいことですし)。しかし、それは、さらなる袋小路への道なのですが…。
 既存の若い作家層を見ても、ガンダムWやゲーム系の状況を見れば、絵は確かにうまいけど、「語るもの」を持たない描き手が大半です。そして、全体的な絵のレベルが高いがゆえに、絵が下手でも語るものを持っている新人を排除していく姿というのは、かつて我々は「LaLa」等で見てきた構図です。今のシステムに依拠している限り、若さには頼ることはできません。
 そして、さらにもう一点気がかりなのは、24年組があのとき感じていた不自由を誰も感じてはいないという点です。少女まんがのこの20年の歴史は、おおざっぱに言って少年愛という切り口を24年組が見つけて育てたのが最初の10年、それを「やおい」というものが大衆化してきたのが、後半の10年という風に考えることが出来ます。制度としての少年愛がすばらしく都合がよかったのは、多くの人間が指摘しているところですし、前掲の「少女たちは楽園をめざす」でも詳細に分析されています。現在の状況は、この制度としての少年愛も疲弊しているからこそある、という点も忘れてはならないでしょう。しかも、現実の読者の少女は少年愛という複雑かつ屈折した方法を使わなくてもよくなっています。少女まんがで少年愛と戯れるよりは、現実の彼氏とデートしてエッチすればいいのですから。
 抑圧装置としての商業誌から、同人誌が少女まんがを開放したと思ったら、その居心地に安住してしまい、10年たったら、現実がその上をいき、少女達を満足させられなくなっていたとは、皮肉なものです。

 この状況の中で、何を武器にすればいいのか、これは非常に重い負担を描き手に強いる事になると思います。でもそこまで変わらないとパラダイムシフトではありません。それが本当に可能なのか、とても現状では可能だと言い切れる自信はありません。
 危険な考えかもしれませんが、やはり誰か「天才」が現れることが必要でしょう。パラダイムが転換する時っていうのは必ず「天才」が出現してきたのですから。
 10年前の女の子アニパロの興隆期、つまりはキャプテン翼パロディの全盛期、あの時、あの場所にいた人間の勢いと熱気と才気はすばらしいものがありました。人により異論はあるかもしれませんが、特に高河ゆんという人間は私は「天才」であったと思います。
 同人誌の世界の流れをこの十年間ずっとウォッチしてきて印象的なことのひとつに、女性系アニパロにはいろんな流れや流行り廃りがあり、いろんな描き手が人気を得てきたが、そうした女性作家の大半は10年前あの場所のどこかにいた、ということが挙げられます。「トキワ荘」や24年組の例をも含めて、作家の同時代性というもののパワーと不可思議さ(なぜ、あるタイミングでそういう人間が大量に現れるのか?)を感じずにはいられません。
 商業誌も、「天才」が現れず、閉塞感を強めているように見えます。ただ、前述のとおり、はじめから他人の手を借りなくてもよい人間はいつでもどこでも何とかなってしまいますが、そうでない人間をフォローして独り立ちさせていくのがシステムだと思います。「天才」待望論というのは、一つ間違えると、そういうフォローは無駄であるという短絡的な結論に近づいてしまうような気はします。特に、JUNE系やおい系、あるいは美少女系のマイナー商業系出版社の編集者の大半が「編集」をしているようには見えない状況(単なる描写の過激さの要求であるとか、ろくにネームチェックすらしないとか)を考えると、「天才」待望論が現実の中で単なる青田買いと作家の食いつぶしに堕してしまいかねない気がするのですが。

 しかし、それでもなお私は「天才」を求めるでしょう。そして、パラダイムシフトを担う描き手というのは、崩壊後に敢えてこの世界に来るさらに若い世代(もしかしたら、まだランドセルしょってる? )だと思っています。過去を知らない新しい書き手が新しい世界を作っていって欲しいと希望してやみません。もしかしたら、希望が夢想なのかもしれませんが…。

この文章は、大手商用BBSであるNiftyserveの岩田次夫氏のPATIOにて発表された記事を再編集したものである。原記事は岩田次夫氏、須賀原洋行氏の記事へのフォローの形を取っているが、本誌に収録するに当たって、単独で読めるように再編集してある。この文章を書くに当たって、インスパイアさせてくださった両氏に深く感謝します。

三崎尚人の大予言(笑) 予言:来年は女性系同人誌作家の結婚が増える 1996.08

根拠1:同人誌活動の行き詰まり

 これは、既に議論済。特に、売り上げの激減により同人誌で生活してる人は厳しい状態に追い込まれる。これまである程度部数を確保してきた書店委託販売も、売り上げの割には手間がかかり割に合わないし、税務上の問題もある(伝票がすべて残るので、言い逃れができない)。しかも、厳しいことに誰もが公平に売り上げが落ちるのではなく、落ち方の差が激しくなり、同性間の人間関係がギスギスしはじめる。

根拠2:商業誌活動の行き詰まり

 その1から派生。現実問題、各誌部数が落ちているし、いくつかのマイナーマイナー誌は休刊に追い込まれて、仕事が減っている人が出始めている。これまた厳しいことに誰もが公平に仕事がなくなるのではなく、人気がある人はそれでもやっぱり仕事があり、同性間の人間関係がギスギスしはじめる。

根拠3:社会人としての基盤の欠如

 学生時代からずっと同人誌をやってきたので、学校をきちんと卒業していない、社会人経験が無い人間が多く、そういう人は、つぶしが効かない、社会人としての常識に欠ける場合がある。従って、今から他の正業にはつきにくい。

根拠その4:みんな結構なお歳

 キャプテン翼からだと普通三十路に突入しているし、そうでなくても二十歳台後半。

 以上の根拠と、今の日本の社会規範と不況も考え合わせると、冒頭の予言「来年は女性系同人作家の結婚が増える。」というきわめて安直な結論が導かれるわけです。もちろん、こういう「でもしか結婚」のような機械的な推論が、恋愛や結婚といった情緒的要素を多分に含んだ問題に丸々適用できるわきゃない。だから、これは、あくまで飲み屋の与太話です。実際、このネタを知り合いのサークルの女の子と話していたら、「そんな根性で結婚なんか出来るわけないじゃないですか」だそうで。同性の方がこういう話は手厳しいです。ちなみに、男性系の同人作家も、最近何人かが結婚したり、彼女連れていたりするので、結構恋愛熱って盛り上がってます(有馬○太郎先生のまんが参照のことか(笑))。
有明の海を見ながらおたっぷる誕生となるのでしょうか?? こりゃ、ねるとんでも企画しましょうか(爆笑)。フリータイムは、今東京で一番フェロモン発散してる街、お台場で。告白タイムは、ビッグサイトの国際会議場棟屋上で、夕日か夜景を見ながらだね!(←調子乗りすぎか?)。

商業誌アンソロジーとお子様たち 崖っぷちでスキップするお嬢様たち 1996.08

 今のアンソロジーは昔と違って青田買いが激しいですね。ダグオンなんて、まだそれほど盛り上がってもいないのに、もう何冊もアンソロジー出てます。
 昔のアンソロジーというのは、ブームが盛り上がってから作られていて、同人誌をコンスタントに買っている人間からすれば二番煎じの感は否めませんでした。なぜなら、アンソロジーに描いている作家はもう知っているし、その人の本はもう持っているのでしたから。言い方が悪いのですが、同人誌を買いにいけない地方の人向けという感がありましたね。ところが、今みたいにアンソロジーの出るのが早いと、アンソロジーを見てその作家を知るという事になってしまい、昔よりアンソロジーの宣伝効果が高いんですよね。で、商業誌アンソロジーは、商業誌であるがゆえに原作製作者との兼ね合いがあり、「やおい」は載せにくい。従って、最近やおいを描かない作家が増えている、ということになるわけです。
 では、「アンソロジーに載れば本当に本が売れるのか?」ということになりますと、ところがそんなことは全然ありません。いや、むしろ自分の首を絞めています。なぜなら、アンソロジーを買えば、たいていの事が、安価に済んでしまい、わざわざ同人誌を買う必要がなくなるからです。昔より青田買いが進んでいる分、とりあえずそのジャンルで平均レベル以上の作品は、アンソロジーで読めてしまいます。しかも、三百ページくらいの本が八百円くらいで買えてしまう。わざわざゆりかもめに乗って高い交通費払って有明まで行って、同人誌買うよりコストパフォーマンスははるかにいいんですよね。しかも、有明に来てお目当てのサークルの本が買えればいいですが、今の状態では、即売会に来ていないサークルがたくさんいて、下手をするとくたびれ儲けなだけになってしまう。それに、男の子は、一般的にコレクター指向が強いので、元の本に対する執着がありますが、女の子は「読めればいい」という子が多いので、アンソロジーだけで満足できてしまいます。

 無知とは恐ろしいもので、自分の売れ部数が過去に比してどれほど少ないか、若いお嬢様方はわかっていません。かつてトルーパーの最盛期、コミケだけで4千部売っていたサークルが当たり前のようにいたなんてことは知りません。知らないものだから、自分がさもすごいサークルになったかのような錯覚を起こしてしまうわけです。そして、面白い本を作るという本質的な部分はおろそかにされ、くだらないことへの情熱は馬鹿らしいほどです。 
 即売会の申し込みに嘘の搬入申請をして壁をもらおうとしたりとか、わざと開場時間より遅れて販売をして列を作ったりとか、毎回毎回つまらないコピー本を出して列を作って喜んだりとか。それに、変に自意識過剰で、他のサークルの悪口を嬉々としてフリートークに書いたりしてるところもあります。特に最近、年寄りどもをげんなりさせたのは、「ファンクラブは認めていません」と臆面もなくペーパーに書いてたサークルがいたことでしょうか。あんたは何様? というところであきれてしまいました。
 この世界を10年以上見てきた年寄りに言わせてもらえば、そういうつまらないアオリばかりにこだわったサークルは、友達のサークルを無くし、即売会の信頼も失い、そして、お客も去っていくものです(ほほ100%)。いくつか話したサークルには、老婆心ながら注意はするのですが、全然わかってないって感じですね。まったく。
 心配なのは、こういうお子様たちが売れなくなったとき、ちゃんと自分で後始末が出来るのかしら、という点です。印刷所の間には、金銭関係でトラブルを起こしたサークルのブラックリスト的なものがありまして、今これに名前がある人は数百人以上いるそうですが、リストの名前の数が増えないか、非常に不安です。

 この文章は、大手商用BBSであるNiftyserveの岩田次夫氏のPATIOにて発表された記事を再編集したものである。原記事は前田栄氏の記事へのフォローの形を取っているが、本誌に収録するに当たって、単独で読めるように再編集してある。この文章を書くに当たって、インスパイアさせてくださった前田氏に深く感謝します。

コミックシティ幕張へ Revenge of The Aka-boo-boo 1996.08

 来年、コミックシティが幕張メッセでのコミックシティの開催を予定しています。聞いている話では、来年1月26日開催予定だそうです。7月21日のコミックシティのカタログの事務局の武田氏の迷コラムでも、メッセ開催が触れられています。

 もはや、観光地化している臨海副都心ですが、そういうイメージもあってかビッグサイトの稼働率は当初予定を上回ってかなり良好なようです。観光地化ということはどういう結果をもたらすかというと、サラリーマン相手の展示会だけでなく、一般客相手の物品販売やイベントも開かれるということになり、土曜日・日曜日も何かしらの催し物が開かれることとなります。つまり、同人誌即売会が取れる日程が少なくなっているのです。特に、1月〜3月の間は日程が厳しいようで、同人誌即売会を開催するホールが取れないようです。そこで、苦肉の策として登場したのが幕張メッセでの開催ということになるようです。
加えて、有明の使用料が値上がりする問題があります。都市博中止の影響でビッグサイトの使用開始が1年間早くなった今年は、移行措置として晴海並みの料金で貸し出されていますが、今年末からはそれがなくなり本料金となり、記憶違いでなければ、2〜3割ぐらいの値上げがされる予定です。会場費という最大の経費が増えるということは、当然収支に大きな影響を与えるでしょう。
 しかも、ここのところの女性系同人誌の急激な落ち込みを反映して、スーパーシティ以降の通常のコミックシティは、かなり厳しい状態での開催が続いています。6月の三回と7月の一回、どれも2ホール確保しておきながら、それががらがらでした。シティの島割だと、1ホールで2千スペース、2ホールで4千スペースというところに、どの回も2千数百から3千弱くらいしか入っていません。特に致命的なのは、一般参加者が全然きていない。朝の段階で並んでいる一般参加者は、数百人という状態です。これは、カタログによる収入を見込めない、ということになりますね(実際、カタログも晴海時代より値上げされていますし)。

 さて、聞くところによると、この話は、赤ブーからではなく、幕張側の営業工作の結果ということらしいです。バブル崩壊後、ただでさえ稼働率が落ちている幕張ですが、ビッグサイトの開業によってさらに厳しい状態に追い込まれているようで、赤ブー以外にも複数の即売会に営業を行っているようです。
武田氏はコラムにおいて、今度は問題無くやりたい、会場側とも話がついている、的な文章を書いています。意気込みは感じられるのですが、前回の中止事件のとき発生した問題をどうクリアするかについては、何らの裏付けがある文章ではありませんでした。同じような問題がまた発生した場合(相手は何せ「教育県」として名高い千葉県です)、どう対処していくのか明確になっていない以上、サークルとしては参加に二の足を踏んでしまうと思います。

 もっとも、今の有明の惨状を見ていると、普通のコミックシティが幕張で開催できたとしても、だれもあんな遠くまで行かないでしょう。交通費だけで、東京駅から往復で千円くらいかかりますからね。ゆりかもめのお金すら出したがらない今の若い子が行くわけはないです。

 コミックシティの最近のカタログを見ると、秋以降の募集スペース数が春に比べて減っています。春は7000SP募集ということで3ホール押さえてあったのですが、秋以降は4000SP募集ということで2ホールになっています。これは、3ホール押さえられなかったというよりは、7000SP募集しておいて、2500SPしか集まらないと、格好が付かないからでしょうね。実際、武田氏のコラムを読むと募集数と実際の数が違う事に関するクレームへの回答が載っています。この後のコミックシティでスペース満了なのは8月18日の参加費千五百円の「Goodコミックシティ」だけらしいですから、今後益々こういうクレームが増えていくことを考えたら、募集スペースを押さえた方が賢明でしょう。

 しかし、武田氏のコラム読んでると、相変わらずだなぁというかんじですね。危機感もってるのかしら、と思います。どうもシティの様子を見ていると、かつてTRCから晴海に移ったときもサークルもお客も減って苦労した。今回もそれと同じで、とりあえずやっていれば何とかなる、と思ってるんじゃないでしょうか。

 でも、今回のはそういう現象の問題ではなく、地殻変動なんですけどね。読み切れてないと、非常に危険なことが起こりそうな気がします。

 この文章は、大手商用BBSであるNiftyserveの岩田次夫氏のPATIOにて発表された記事を再編集したものである。原記事は前田栄氏の記事へのフォローの形を取っているが、本誌に収録するに当たって、単独で読めるように再編集してある。この文章を書くに当たって、インスパイアさせてくださった前田氏に深く感謝します。

コミケットと総会屋 報われない片思い 1996.08

 7月13日、東京ビッグサイトにおいてコミケット準備会の拡大準備集会が開催されました。スタッフ以外の方はご存じないかもしれませんが、拡大準備集会というのは、準備会スタッフが全員集まり、連絡事項の伝達や打ち合わせをする場で、コミケ毎に3回開催されます。で、今回の集会は、コミケット50における最後の拡大準備集会にあたり、この日は、準備会スタッフ以外の方も参加して、準備会に対して、質問や意見を述べることが出来る場となっています。コミケットにおいては、スタッフ、サークル、一般参加者の立場は平等であり、皆の力でコミケットを作っていく、というのが理念の一つです。最終の拡大準備集会でサークル及び一般参加者が意見を述べるという事は、その理念に沿ったものと言えます。また、実際にスタッフ側が想像していなかった点を指摘していただいたり、どのような点をサークルの方や一般参加者の方が気にしているのかがわかる、よい機会でもあります。

 さて、話を当日に戻します。何人か質問される方がいらっしゃった後に、問題の人物が登場されました。まず開口一番「私の発言は、最後まで聞いてほしい。途中で遮った場合は、言論の自由を侵害したものとみなす。」だそうで。
 最初のいくつかの質問は、3月に行われたコミケットスペシャル2に対するもので、いろいろと問題点の指摘がありました。質問者の方には申し訳ないのですが、お世辞にも要領を得た質問とは言えず、10分以上も独演会が続き、会場内のイライラが募っていきました(ちなみに、最終の拡大準備集会は、二部構成で、午前中の第1部は前記のサークル、一般参加者向けの質問会で、午後の第2部がスタッフの打ち合わせとなっています。ですから、この段階では、スタッフで来場している人間はそれほど多くはなく、会場内の3割くらいだったように思います。)。
 途中、何度か、個別のご指摘について米沢代表が答えようとしたのですが、「途中で邪魔をしないでほしい。最後まで発言させてもらえなければ、言論妨害である」ということで、その場の米沢代表の回答をお断りになられました。そして、一連のコミケットスペシャルへのご指摘の後、こう言う風におっしゃられたのです。「これに対しては、準備会の回答は必要はありません。次の質問に行きます。」
 この後、次第に会場から発言者から非難の野次が飛ぶようになります。今度は、偽造入場券についての質問などになります。その後の質問も同様の態度でなされ、場内は質問者に対する野次が騒がしくなってきます。米沢代表も途中で何度か、「質問には、個別でお答えする」というのですが、その都度「私の発言の途中であるので、邪魔をするなら、言論の自由の侵害である。」ということで、聞く耳を持たずに勝手に発言を続けられます。ここに至っては、場内は野次で騒然となってきます。会場の音響さんや、ガードマンさんが様子を心配して、場内に入ってきます。米沢代表が「質問は後で個別でまとめて伺う。あなたの後ろにも質問したい人が待っているので、いったん止めてくれないか。」と言っても、「それは認められない。」とおっしゃられ、さらに発言を続ける。見かねた一般の方が、質問者のマイクに近寄り、マイクを遮って、丁寧に質問者の発言の問題点を指摘されます。温厚な米沢代表もさすがにむっとして、「この会場を借りているのは準備会です。あなたは言論の自由を主張されているが、あなたは公共性というものを無視していらっしゃる。そういう質問の態度は、議事の妨害であり、このまま続けれられるなら、退席してもらう」と言い切り、結局、質問は後でまとめて、ということでその場の事態の収拾がなされました。

 とにかく、この質問者の方、御自分のおっしゃりたいことをただただ述べるだけでした。質問に答えてもらおうというのではなく、ただ自分の主張を言うだけでした。実際、後で来てくれれば質問を受けるという、米沢代表のコメントにも関わらず、この質問者の方、米沢代表のところには現れませんでした。これでは、質問したい、自分の意見を言いたいというよりは、嫌がらせに来て、それによって生じた混乱を他のサークルや一般参加者の前に見せて喜ぶ、という悪趣味の持ち主であるようにしか見えないのですが。
 この質問者の方、実はあるグループに関係のある方です。このグループの方はAさんという方が中心になって、最終の拡大準備集会の度に何人かで準備会に対して批判的な質問をなさりにいらっしゃいます。しかも客席をよく見てみると、発言者以外のグループのメンバーの方が何人かいて、指示を出したりしているように見えます。言い方が悪くて恐縮ですが、このような状態ではこのグループの方々は総会屋と似たようなものです、と言わざるをえないのですが。

 注:実際、上記の質問者と米沢代表の最後のやり取りのとき、質問者の方の携帯電話が鳴り、その電話の後、質問者の人は、質問を打ち切りました。たぶん、会場内の別の人が中止の指示を出したんでしょうね。

 確かに、拡大準備集会の実態を見れば、非常に些末な質問に終始しがちで、「サークルと一般参加者の意見を聞いた」というセレモニーになりがちな要素を含んでいること自体は否定出来ないところがあります。その中で、動機はよく分かりませんが、毎回毎回準備会に対して批判的な質問をされる彼らの行動は、ある程度の緊張感を質問コーナーに与えていることは事実です。批判の無いところに健全な発展はありえません。そういう意味ではこのグループの行動はある程度評価される部分を持っているとは思います。
 しかし、今回の行為は明らかに行き過ぎでしょう。準備会に対してコミケットで正しくない行為が行われていると批判するなら、自分達も質問においてのマナーをまもるべきです。いくら自分が正しいと信じて批判をしても、このような態度での質問では、準備会に批判が届かないばかりでなく、積極的に拡大準備集会に参加している意志的なサークルや一般参加者の心も動かさないと思います。

 夏のコミケットの反省会(二日目終了後)、あるいは冬のコミケット51拡大準備集会にいらっしゃるのでしたら、その辺あたりを御考慮の上、建設的な議論をしていたただきたいものです。

 しかし、片思いに焦れている姿って、いい年した大人だとみっともないです。

「ゴーマニズム宣言」へのレクイエム 1995.08

 「ゴーマニズム宣言」の「終了」についてはとやかく言われているが、一言で言えば、小林よしのりは「ごーまんかましてよかですか?」と言いながら、「逃げた」のである。
 「SPA」が小林にとって居心地が悪い雑誌となっていったのは、オウム真理教に訴えられている自分がいるのに、オウム真理教に許容的・擁護的記事が掲載されたこと、さらに、オウムに殺されそうになったという被害者意識が生み出したヒステリーの結果でしかない。
 小林は、これを、殺人未遂事件の被害者としての立場を充分に利用して、同情を煽る一方で、「SPA」の編集方針としてのバックボーンに存在する、価値相対主義への反発として、問題の普遍化を試みている。確かに、以前から小林は価値相対主義への批判を誌上で繰り返し行い、不快感を示していたのは事実である。けれども、今回の問題は、本質的にはきわめて個人的な事柄にすぎない。であるからこそ、小林は連載最終回において、「看板作家」対して扶桑社は何もしてくれない、というような玩具をねだるだだっ子のようなことを、臆面もなく主張して止まなかったのである。しかし、これだけでは、人気作家のわがままでしかなくなってしまう。小林の、問題の普遍化の試みは、単に「ごーまん」という彼の造語を用いて、この作家の不遜さを湖塗するものでしかない。

 ここに「ゴーマニズム宣言」において「ごーまんかますこと」が手段であった時代が遥か昔に過ぎ去り、「ごーまんかますこと」が目的となってしまったこの作品の腐敗を見ることができる。初期の「ゴーマニズム宣言」における「ごーまんかます」とは、この社会に確かに存在するタブーを言及するための装置として有効に機能した。特に、単行本第2巻あたりまでの迫力と緊張感はすばらしいものであり、メディアとしてのまんがの新たなる可能性をも垣間見せてくれたことに間違いはない。そして、その圧倒的な事象の掌握能力の一方で、取捨される情報の恣意性、曖昧性、非論理性への疑義が、かつて某文芸評論家を大いにいらだたせたのであった。
 だが、連載を重ね、人気を得た小林は、この国のマスコミ文化に深く根付いている、成功者を持ち上げるだけ持ち上げた後で貶める、マッチポンプシステムにしたがって、悪評にさらされることになる。これに対して小林は「ごーまん」を、自分を守るために「かます」ことになる。これは自己防衛手段としても有用であった。なにしろ、最初に「ごーまんかます」と宣言している以上、独善的であることも、自己に都合のいい意見だけ取り上げ反対意見は無視することもすべて許容されてしまうのである。表現するものにとって、こんな楽チンなポジションは他にない。

 小林が大きな勘違いをしているのは、彼が口をきわめて非難する価値相対主義に彼自身は呪縛されていないと思いこんでいることである。大多数の「SPA」の読者にとって、「ゴーマニズム宣言」とは、「SPA」の連載の中で楽しみにしている連載のひとつにすぎなかった。そして、この混沌としている世の中で、威勢良く自己の価値観を披露する奇人がいて、その奇人の言葉がまあ面白いから読んでいただけである。それが、「SPA」を買うモチベーションになっていたかもしれないが、たくさんの雑誌の中でたまたま「SPA」を選んだだけでしかない。そして、「ゴーマニズム宣言」を読むということも、一つの価値をたまたまその時チョイスしただけでしかない。価値相対主義の中では、「ゴーマニズム宣言」も価値相対主義というものを拒否するという一つの価値でしかないのである。これは、小林の主張するカリスマ性やプロフェッショナリズムでは克服することはできない。唯一可能なのは、カリスマならカリスマらしく、小林が麻原彰晃となることだが、カリスマを演じることは出来てもカリスマにはなれない小林にとっては、それこそ出来ない相談であろう。

 まんがの第一義的メディアは、雑誌媒体である。二十本前後の作品を我々読者は一つのまんが雑誌から提供されるわけだが、その読み方は読者ひとりひとり千差万別である。紙メディアの特質は、ランダムアクセスの容易性であり、ひとつの雑誌を読者は恣意的に読み飛ばしていく。ひとりの読者に取ってひとつひとつの作品は等価である。つまり、雑誌においては、メディアそのものが価値相対化を実現しているのである。これは、受け手によるザッピングが可能なメディア(たとえば、テレビであり、最近で言えば、インターネットのWWW(WORLD WIDE WEB))の特質なのである。かつて、まんが雑誌において常に第一線で小林は戦ってきた。才能の切り売りで短期間に消耗していく者がほとんどであるギャグまんが家という職業において、確かに小林は長く戦い、戦果をあげてきた。だが、「SPA」において、小林は裸の王様に成り下がってしまった。裸の王様であることを小林に告げる勇気もなかったか、さもなくば、裸の王様であることすら見抜けなかったか、どちらにしても「SPA」編集部の能力の低さもあまりに情けないが、そのことが作品の質の低下の免罪符にはならないことは言うまでもない。
 そして、近代まんがの歴史は、メディアとしてだけではなく内的志向においても価値相対化の歴史であると言える。別段、「SFアニメ」や「おたく」が価値相対化をもたらしたのではない。価値相対化とは、手塚治虫以来、近代まんがに内在している視点であり、60年代の少年まんが、70年代の少女まんがを通して育まれていったものである。小林のかつての代表作を振り返るならば、彼こそ過剰なまでのギャグまんがを描くことによって、既成を疑い、ギャグによる価値を紊乱させた相対化の名手であったはずである。それが、今やこの体たらくとは何とも嘆かわしいことではないか。これを変節、いや裏切りと言わずしてなんと言おう。

 今回のトラブルを経て、「ゴーマニズム宣言」は、小学館の「SAPIO」へ移ることとなった。宅八郎と「週刊ポスト」の対立をこの移籍にからめるのは、あまりにうがった見方であり、そうした意見には賛成しかねるが、「週刊ポスト」VS宅八郎という図式がなくても、我々が以前より知っている小学館のあり方を思い起こせば、この移籍はうまくいかないであろうと思われる。なぜなら、事なかれ主義とローテーション人事に代表されるあの会社の官僚機構が、「ゴーマニズム宣言」が今でもかろうじて持っている「毒」すら許容できるとは到底考えられないからである。
 既に断末魔の雄叫びをあげている「ゴーマニズム宣言」。いったいいかなる終わりが待ち受けているのであろうか…?

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