少女たちは楽園をめざす

1990年6月

はじめに

 今日のように何故同人誌が流行ったのか?わずか五年前、コミケットの規模は今の四分の一に過ぎなかったのに…根源的な問いかけというものは、常に答えるのが難しい。

 同人誌が現在のように大きくなったのは、「キャプテン翼」を始めとするアニパロブームのせいだからだ、というのは当り前だし簡単だ。しかし、それは、何の回答にもなっていない。なぜなら、そう答えることによって、アニパロブームが起こり、C翼が<選ばれし作品>となったのは何故か?、という問いかけが、また発生するからだ。これでは単に言葉を入れ換えただけに過ぎない。

 そこで、本稿では、ここ数年の同人誌のトレンドのシステムを解明する試みをしてみたい。かくも無謀なことをしようと思うのは、ここでひとつけりを付けて置かないと、九〇年代を本当に迎えられないような気がするからなのだ。

第1章 自己実現としての同人誌

 人間とは、常に欲求を持ち続ける動物である。低次のレベルにおいては人間は、生命の安全や、衣・食・住に対する欲求を持つ。しかし、人間はそれだけでは満足しない。人間の欲求は、次第に高度なものへと移行していく。そして、人間の欲求で最も高次なもののひとつに自己実現の欲求が存在する。その中には、自分を自由に表現したい、という願望も含まれる。

 ところで、人間の高次の欲求というのは、低次の欲求が満たされてはじめて、起こり得るものである。今、我々は、物質的には歴史上まれにみる繁栄の中にいることに間違いない。この資本主義的繁栄の行き着いた高度情報化大衆社会では、受け手も送り手もなくなる。誰もが様々なネットワークの中で、送り手でもあり、受け手でもある。すべては相対化される。故に、この高度大衆社会のもたらした同一性の中で自己表現は自立する。もはやプロもアマチュアもない。誰もが、自己表現を求める時代、それが現代なのだ。

 ただ、この状況において、日本という国が持つ特殊性がある。それは、この国において<まんが>というものが普遍的に存在している、ということである。

 我々は、相手とコミュニケーションをとるためには、相手との共通体験を必要とする。その時々によって様々なものが共通体験と成り得る。例えば、それは会社だったり学校だったりする。しかし、共通体験はそれが大きければ大きいほど、人を引きつける。日本における<まんが>というものの大きさと、その<まんが>を空気みたいなものとして生きてきた我々とを考え合わせれば、<まんが>を共通体験として我々が選択するのは、まったくもって当然だったと言える。現代のメディアの条件は、相対化とともに<全員参加>でもあるのだ。

 また、純技術的な問題だが、普通紙コピーの普及を忘れてはならない。コピーの普及によって、我々は、非常に手軽に、最小限の金銭的負担で自己表現の媒体を手に入れることができるようになったのである。

 以上のような要因が、<同人誌>というものを自己表現の手段たらしめたのである。

しかも、<同人誌>の世界にはコミックマーケットという<場>が既に存在していた。最近のイカ天、ホコ天といったバンドブームは、同人誌のブームと構造的に非常に近いが、これらバンドブームより早く<同人誌>のブームが起こったのは、バンドブームよりもはるかに早くから、<場>が存在したからである。そして、<場>はブームを加速する。同人誌はコミケットがなくてもある程度発展しただろうし、同様にバンドブームもイカ天がなくても、発展しただろう。しかし、<場>があることで、ブームはより大きなものとなった。

 また、このコミケットという<場>は、描き手にとってだけでなく、すべての人たちにとっての自己実現の<場>となる。

 読み手にとっても同人誌は自己実現である。読み手にとっての自己実現とは、表現することの代償行為として、<読む>ことを通じて自分の世界を構築することである。これはどういう意味かというと、<読む>ということは、極めて個人的かつ内的なものであり、作品を媒介として自己のイメージを喚起させる作業である。ある作品の<読まれ方>はその作品の読者の数だけ有り得る。このように読者の自己の世界が自立すると、これは不可侵なものとなり、作者すら触れることはできなくなり、この世界を壊した者は、作者でも許されない。それどころか、かつて愛したものだけに、憎しみはより深くなる。読者とはこのように厳しい存在でもある。

 また、即売会のスタッフにとっても同人誌は自己実現の場である。スタッフとして参加し、<場>を作り上げること、それ自体が自己表現なのだ。そして、コスチュームプレイもそうである。見た目の派手さから、好奇の目でみられやすいコスプレだが、自己自身をまんがやアニメのキャラクターに仮託する行為というのは、プリミティブな自己実現と言えよう。

 それどころか、十万人の参加者の中には、何も買わずにただコミケットに来る者すらいる。彼らにとっては、コミケットに来て、同じ仲間がいるという帰属の確認をすることが自己実現なのだ。

 今の日本において、自己実現を達成できる<場>は非常に少ない。同人誌とコミックマーケットが、ここまで大きな存在となったのは、その<場>を提供したからである。それもわずかの金銭的・社会的・肉体的負担だけでである。そして、割り当てられたスペースにおいては、何を表現しようが規制はほとんどない。こんな<楽園>がほかにあるだろうか?

第2章 共通世界としてのパロディ

 さて、同人誌が自己表現の場であったとしても、それは、すなわちオリジナルなものを生み出す場である、というわけではない。自分で新しい世界を生み出すことができる人の数など限られている。

 ひとつには物理的な制約がある。長いページに渡って作品を描くことは、アマチュアには極めて難しい。長いページを描けないということは、オリジナルな作品を創る場合において、決定的に不利である。なぜなら、短いページで誰も知らない世界について語らなければならない、という非常な困難が生じるからである。

 もうひとつには、描き手において内的な制約がある。そもそも、自分でキャラクターを起こして、話を創ることそれ自体に困難がある。誰にでもたやすくできることではない。 しかし、絵を描くことはでき、自己表現の欲求は極めて高い。自己表現の大衆化は、モデルを必要とする。ここで、登場するのが共通言語・共通世界を対象とするパロディという表現手段である。

 パロディを自己表現の手段として用いることにより、描き手は、誰も知らない世界について語り、新しくキャラクターと物語を創る苦労から解放される。描き手はただ絵と感性に集中するだけでいい。同人誌は創作活動ではない。同人誌とは、自己表現のための方法であり、自己表現を通じて他者とのコミュニケーションを図ることである。他者とコミュニケーションしたいという欲求は、端的に言えばより多くの人に読んで欲しい、という欲求につながる。高度大衆社会における自己表現とは、自己の表現そのものを突き詰めていくことが目的なのではない。

 同人誌において即売会を通じて行われるコミュニケーションは、直接的・具体的・個別的であり、商業誌などでは得られないものである。だから、多くの描き手たちは、コミケの会場に来たがり、読者からの手紙を欲しがる。そして、時には同人誌の方が商業誌よりも大切である、という価値転換すら起こる。その代表例は、あの尾崎南である。C翼ブームにおいて最も人気を得た描き手であり、その後、集英社の「Margaret」でデビューした彼女だが、商業誌の仕事のために同人誌の作品がつまらなくなっていてごめんなさい、という言い訳が成立しているという南森鮑魚氏の指摘は非常に正しい(「尾崎南…神話…同人誌」(真相の噂通信VOL15)参照)。

 そして、今の日本が資本主義社会である以上、作品は商品としての二重性を持つ。読者は消費者でもある。しかも、目で見えて成果のわかる<資本主義ごっこ>ほど送り手にとって面白いものはない。

 例えば、普通のとりたてて人気のないサークルまで、猫も杓子もフルカラー表紙の同人誌を出すのは、同人誌の持つ商業性の現れと言えよう。それを愚かな行為と笑うのは簡単だが、目立って沢山売りたいという欲求は、当り前のものある。

 また、長い行列を作って、本を買うという行為も、甚だ商業的である。コミケットには大手サークルというブランドが、事実として存在する。これはブランドである以上、示差性(ちがい)そのものを商品としたものである。同人誌の希少性・限定性は、読者を<選ばれた消費者>にし、彼らに対してのみ開かれた特権的な商品としてブランド同人誌が成立することになる(基本的な理論については「<私>探しゲーム」(上野千鶴子、筑摩書房)参照のこと)。ちがいそのものが商品である以上、作品自体の質の優劣は二の次である。質的な盛りを過ぎたのにいつまでも列ができるサークルがあったり、「サムライトルーパー」のサークルにおいて、信じ難いほど低レベルのサークルにまで列ができるのは、そういう理由である。

 このような商業化は、常に同人誌の世界において批判あるいは非難の対象となる。つまり、アマチュアリズムの精神に反するということになるのだが、それを強調したところで現実に対しては何ら意味を持たない。同人誌というものが社会的行為である以上、金銭は関わってくるし、エゴイズムやネタミ・ソネミもある。そもそもアマチュアというものが近代的な<労働>の裏返しである以上、<近代>の呪縛から逃れることはできない。もちろん今の同人誌の商業主義にすぎる面に問題点があることは否定はしないが、いわゆるアマチュアリズムでは、何の解決もあり得ない(注・アマチュアの問題に関しては東風あきら氏の所論を参考にさせて頂いた)。

第3章 パロディ対象としての原作

 それでは、何故、「キャプテン翼」(高橋陽一、週刊少年ジャンプ掲載)という作品が、最初に現在のアニパロブームの火つけ役となったのだろうか。

 それは、多様な描き手たちが存在し、その描き手たちがそれぞれ自分の世界を構築していく、という状況において、世界を構築しやすく自分に合った物を見いだせる作品として、「キャプテン翼」という作品が非常に適していたからではないだろうか。極論すれば、集団ヒーロー物である「キャプテン翼」(以下「C翼」)は同人誌そのものとも言えた。描き手の少女たちは、非常に多数のキャラクターの中で、好きなキャラクターを恣意的に取り出すことによって、いくらでも恣意的な自分の世界を創ることができたのだ。

 無論、これ以外にも、1.十代の少年たちが主人公の健全スポーツまんがであり、<やおい>の対象にはその健全さゆえに適していたこと、2.主人公たちのグランド外での生活が描かれていないことで、その生活を想像力で埋めることができること、3.「C翼」という作品そのものの持つメジャー性(作品自体が真っ当な少年まんがであったこと)と、社会的なメジャー性(大ヒット少年まんがであったこと)が、共通世界となるのに向いていたこと、等の理由が挙げられる。

 そして、もうひとつ重要なのは、あれだけ個性あるキャラクターを大量に描いていながら、「C翼」のキャラクターは全体としては非常に個性が少なく、その無個性さ、無名性がパロディ対象として非常に適していた、ということである。

 次に流行ったのは「聖闘士星矢」(車田正美、週刊少年ジャンプ連載中)であった。これの流行った理由には集団ヒーロー物が流行った理由がほぼ当てはまるが、この作品においての固有の問題点があり、「C翼」ほどの盛り上がりもなく、現在、衰退の道を辿り始めている。

 では、「聖闘士星矢」の問題点は何かと言えば、ひとことで言ってしまえば、作者があの車田正美であったことに尽きる。

 「聖闘士星矢」という作品は車田正美にしてはその個性を押さえた作品で、ヒット作であった「リングにかけろ!」(週刊少年ジャンプ掲載)以来の人気復活をねらう作品であった。実際、この車田正美と「ジャンプ」編集部の目論見は当り、「聖闘士星矢」(以下「星矢」)は、彼にとって久々の大ヒット作となった。

 しかし、どんなに車田正美がその個性を殺しても、その個性は非常に強い。故に、同人誌のパロディの描き手たちは、そのキャラクターを自分の物にすることが非常に困難であった。さらに車田正美の作品においては常にそうなのだが、セクシュアリティを原作のキャラクターが既にもっており、同人誌において、多くの場合これは、パロディするのに邪魔になる。また、車田正美の持つ泥臭さは、それが持ち味ではあるのだが、この泥臭さは、今のような清潔さこそ男性を選ぶ判断基準の第一に挙げられる状況においては、マイナス方向にしか働かない。この問題が最も現れるのは、<やおい>の場合である。「星矢」パロディでの<やおい>は、どうしても肉体を感じさせるセックスとなり、こういう嗜好を持つ女性もいることはいるが(だから、「星矢」にはハードJUNE系のサークルからの流入が多かった)、女性全体からみれば、基本的にはマイノリティでしかないからだ。

 そして、今、少女たちの心を最もとらえている作品は「鎧伝サムライトルーパー」(サンライズ制作)である。この「鎧伝サムライトルーパー」(以下「トルーパー」)に至って、集団ヒーロー物パロディはひとつの極みを迎える。

 登場する五人のキャラクターは非常に希薄であり、キャラクターの間の差異もほとんどない。車田正美のような強烈な個性などは感じられない。いや、そもそも「トルーパー」においては作者すら存在していない。これまでは、「C翼」なら高橋陽一、「星矢」なら車田正美という作者が作品の後ろに見え、原作は原作としての地位を得ていたが、「トルーパー」では、アニメーションの集団作業の中に作者が埋没してしまっている。原作から作者の姿が見えない以上、もはやそれは原作ではない。アニメの「トルーパー」も同人誌の「トルーパー」も等価である。「トルーパー」の原作自体が、「C翼」「星矢」の原作以上に少女たちの間で人気を得たのはそういうわけである。

 そして、希薄なキャラクターは、アニメーションにしてはファッションにこだわり、しかし、肉体そのものは遠ざけられ、美形キャラという無機質な記号だけが残る。

 このような記号だけのキャラクターが支持を得るのは、何もアニメーションの世界に限ったことではない。最近の芸能界における光GENJI、WINK、森高千里、といった人気アイドルたちの無機質さ、肉体性の無さは、「トルーパー」のキャラクターの記号性と非常に近しい関係にある。森高千里のレコードジャケットをフィギュアであると看破した「アクロス」(パルコ出版)はさすがに鋭かった。そして、「トルーパー」の声優たちのグループNG−FIVEが声優にしては異例の人気を得たのも同じ構図である。自分たちの出たアニメーションのキャラクターを自分たちにかぶせ直すという複雑な作業がここには存在する。

 キャラクターが記号である以上、パロディの描き手たちは、そのキャラクターをいかようにも処理することが可能である。「星矢」パロディにおけるカップリングが、結局は原作(及びTVアニメ)に根ざしていたのとは全く異なり、「トルーパー」パロディにおけるカップリングは、5人しか主人公キャラクターがいないのにのにも関わらず、非常に多種多様である。キャラクター間の差異が小さければ小さいほど、描き手はその中に差異を見いだしていくのである。

 鎧を着た勧善懲悪集団ヒーロー物ということで、一般には「トルーパー」は「星矢」の後継者と思われてきたがこれは違う。キャラクター全体の持つ無名性を考えれば、「トルーパー」こそ「C翼」の正当な後継者だったのだ。しかも第二次ベビーブームと自己実現の場としてのコミケットが定着したため、少女の絶対数そのものが「C翼」ブームよりもはるかに多い。だからこそ、作品的(本編・パロディ両方とも)にもレベルはそれほど高くなく、キャラクターの数も少なく<間口>が狭いのに、新しくコミケに参加した少女たちの熱狂が「トルーパー」で燃えさかったのだ。

 ただ、「C翼」ブームを体験したもう少し上の年代の少女の多くが、あまり「トルーパー」ブームに乗れなかったという事実がここにある。これは、彼女たちにとって、「トルーパー」ブームというのは、既に体験した構図であり、その時、描き手たちは、今よりはるかにレベルの高い作品を生み出していたのに、わざわざ今またあまり面白くもないブームにつき合うほど子供ではなくなっていたからだ、と言えよう。

 さらに、キャラクターの記号性は、<やおい>という面で、その特質を明らかにする。「トルーパー」の希薄な<お人形>キャラによるセックスは、「星矢」のように肉体を感じさせない。しかも、マスコミによる過剰な情報により、セックスそのものに対する興味は次第に高まっている。特に「アンアン」のセックス特集が好評を博したように、女性が自分の意志でセックスに関わっていこう、という方向性が最近強くみられる。ここにおいて、「トルーパー」サークルの実に9割までが<やおい>サークルであり、肉体を感じさせないが、しかしきわめて露骨でハードなセックスシーンが描かれることになる。

第4章 代償行為としての少年まんが

 以上でひと通りの説明が終ったが、同人誌−パロディ−キャプテン翼、という文脈の中で、わざとひとつだけ落としておいた要素がある。それは、なぜ選ばれたのが少年まんがであったのか、ということである。

 コミケの歴史は、女の子と男の子のブームが交互に起こった歴史であった。最初は二十四年組らの少女まんがによる女の子のブームであり、次がロリコン・美少女中心の男の子のブームであり、今は再び「C翼」「星矢」「トルーパー」のパロディによる女の子のブームである。つまり、最初の問いかけをもう少し詳しく言い直すと、この第三のブームは本来ならば少女まんがから起こりうるはずだったのに、少女まんがからではなく、少年まんがから起こったのはなぜか、ということである。

 その最大の理由は、商業誌における少女まんがそのものの衰退である。発展性を封じ込められた少女まんがでは、少女たちは<自己実現>ができなくなったのである。

 萩尾望都、竹宮惠子らに代表されるいわゆる二十四年組の少女まんが家たちは、それまでの類型的な少女まんがを解放し、新たな可能性を少女まんがに見いだした。「トーマの心臓」「ポーの一族」「風と木の詩」「綿の国星」…。七〇年代後半の少女まんがシーンにおいて、名作が綺羅星のごとく次々と生まれた。彼女らの活躍は、同人誌をも刺激し、七五年末に始まったコミックマーケットにおける最初のブームは、少女まんがのそれであった。

 しかし、八〇年代も半ばになろうとする頃になると、後に続く作家たち(特にいわゆる三十五年組以降)は、せっかく二十四年組の少女まんが家たちがつくった新しい少女まんがを、消化しきれなかったことが明らかになってゆく。画面とストーリーを隙なくつくろうとしすぎるため、物語のダイナミズムは失われ、設定とシチュエーションしか作品の中に存在しなくなる。このような作品世界において、読み手が想像力を自由に働かせることなどできるはずもなく、作中では<死んだ>世界が繰り広げられる。キャラクターも想像力を刺激するような要素に乏しく、リアリティが無い。全体としての絵のレベルは、確かに昔に比べて格段にうまくなったし、きれいになった。だが、それだけである。

 しかも、多くの少女まんが雑誌の編集方針が、結果的に女性としての性を固定化し、従属を強いるようなものでしかなかった(無自覚なラブコメこそ、性の役割の固定化の最たるものである)ため、これは、高まりつつあった描き手の少女たちの<自己実現>とは真っ向から対立することになる。少女たちの描きたいものはそんなものではない。そして、<自己実現>したいという欲求と少女まんがに対する不満とを合わせ持っていた描き手の少女たちは、八五年に「キャプテン翼」という異色の少年まんがを見いだしたとき、それをわが物とし、熱狂したのである。

 絵は全くもって荒削り、語られていない部分は広大、しかし、キャラクターの明快さ・魅力は十二分にあるこの「C翼」は、その絵柄的な受け入れられやすさ(やっぱり「北斗の拳」や「魁!男塾」のような劇画タッチの絵柄では困るのである)もあって、少女まんがのアンチテーゼとして描き手の少女たちに支持されることになる。もちろん、まだその当時では大半の少女においては、少女まんがに対する幻想が機能しており、少女まんがの可能性は無限であり、<自己実現>足り得ると信じている少女たちも数多くいた。けれども、多くの少女にとって、結局は少女まんがは<自己実現>をさせてくれるものではなかったことは、現在に至っても続いている、その後の少女まんがの非常な落込みを見ればわかる。

 この少女まんがのレベルダウンが加速度的なものとなったのは、内側から今までの枠を破って少女まんがを発展させるのに足り得る人材が、もはや少女まんがには残っていなかったからである。質的・量的に拡大しているときにデビューするのは結構難しいが、デビューの後は上昇気流に乗ればいいので、その後は楽である。ところが、落ち込んでいるときにデビューするのはきわめて容易だが、追風がないので後が厳しい。しかも、本来ならば少女まんがシーンに登場すべき少女たちは皆、より楽で、より容易に<自己実現>ができる同人誌へ移行してしまった。例えば、それは、高河ゆんであり、みずき健であった。新しい作家が出てきて内圧が生じることもなくなった少女まんがでは、新陳代謝すら止まる。今から五年前の人気作家と今の人気作家は、その顔ぶれにおいてほとんど変わりがないという恐ろしい停滞が、少女まんがにおいては続くことになる。

 しかし、同人誌ブームにおける人気作家たちが、プロのまんが家を志したとき、彼女たちが採った道は少女まんがであり、決して少年まんがではなかった。少女たちは再び少女まんがへと戻ってきた(ている)のである。つまり、パロディの対象としての少年まんがとは、描き手の少女たちにとって、少女まんがの制限事項を避けて<自己実現>するための仮の対象に過ぎなかったのである。少女まんがが変わらなかった以上、描き手の少女たちが変わるしか道はなかったのだ。そして、今度は彼女たちが少女まんがを変える番なのだ。

第5章 擬似恋愛としての少年愛

 少女まんがにおいて、男女関係、特にセックスは、常に排除の対象であった。これは、日本の社会において男女関係が基本的には未だにタブーであり、特に女性に対してより厳しいタブーとして働くことの反映に他ならない。

 このタブーの壁は非常に厚く、二十四年組の作家たちでさえも、正面から男女関係に挑もうとはしなかった。それに、そもそも男女関係を描くことは、社会的制約のある無しに関わらず非常に難しいことである。しかし、そのかわり、「恣意的世界をまるごと表現できる」(野阿梓)少女まんがの表現形態を知り尽くしている二十四年組の作家たちは、少年愛といういわば抜け道を見いだした。この抜け道の効用が絶大であったことは、七〇年代後半、少年愛ブームが少女マンガにおいて吹き荒れたことからもわかる。

 しかし、少女まんがにおいてシステムとして成立している男女関係・セックス排除の強制力は強く、この少年愛という抜け道は、ボーイコンプレックスマニア少女まんが−−美形キャラクターは沢山登場するが、いわゆる同性愛的な要素が消された無機質な作品−−に漂白される。もし、少年愛的要素が作品の中にあったとしても、それは、ギャグとして無力化される。那州雪絵の「ここはグリーンウッド」(「花とゆめ」連載中)の藤掛と渡辺というカップリングの緑林寮におけるあり方を思い出せば、このことは理解できると思う。

 ところが、拡散したまんがシーンにおいては、男女関係・セックスは、当り前のように描かれる。青年誌のここ数年の好調ぶりを語るのに、この問題を忘れることはできない。ただ、レディースコミックになると、現状を変えるような変化は望まれない。レディースコミックの読者は、自分で自分の現状を変えることができるほど、社会的に自由ではないからである。だから、レディースコミックでは、セックスはタブーではないが、恋愛関係は固定化され、タブーのままである。

 このような状況において、少女たちも、男女関係・セックスには無自覚でいられない。そして、少女たちは、保守化して時代に取り残された少女まんがを捨てた。行くべき道は二つある。ひとつは少女まんが的自己実現そのものを捨てることであり、もうひとつは少女まんが的自己実現をその手に取り戻すことである。ここまで読んでくればもうわかるだろうが、少女まんが的自己実現を取り戻す手段というのは、つまりは同人誌であり、<やおい>なのであった。

 少年愛というものは、純粋できれいな性を求めるための手段として、恣意的につくられた聖域である。そこには基本的には男という単一の性しか存在せず、必然的に発生する葛藤を描くことにより、人間関係を描こうとする。とは言うものの、本当に男と男の恋愛関係を描くということは、これはいわゆる「さぶ」などのホモセクシュアルの世界であり、少女たちの求めるものではない。少年愛というのはあくまでも擬似恋愛・擬似セックスであり、少年は仮装<少女>としての性格を持っている。少女たちは、自己を切り放し、安全圏にその身をおいて、妊娠の恐怖のない、何も生み出さない少年愛と戯れる。

 かつての二十四年組の時代においては、少年愛は性倒錯であるという認識は<描き手><読み手>双方にあった。そして、過剰なセックスへの欲求を覆い隠すため、作品をペダントリーやデカダンスで埋め尽くす。

 一方、いわゆる<やおい>同人誌においては、もはや性倒錯などというタブー意識はほとんど存在しない。少年まんがの<戦い>というのは常に<神話>であり、<神話>の世界では、同性愛は不自然ではないこと、現実の社会状況において、少女たちにとってセックスがかつてほどタブーでなくなったこと、男女関係を描く代わりの方法論としての少年愛は、非常に手軽で安易な方法であり、手段が自立して半ば目的と化したことが、その理由である。少年愛はまさに大衆化したのである。大衆化の波は、ペダントリーやデカダンスなど軽く押し流してゆく。

 また、これ以外にも二十四年組における少年愛と、いまの<やおい>同人誌にはふたつの相違点がある。

 ひとつは女性の問題である。二十四年組の作品においては女性が登場することがあっても、それは汚らわしい存在であり、聖化のためのサクリファイスとしての意味しか付与されない。例えば、それは「風と木の詩」(竹宮惠子、週刊少女コミック・プチフラワー掲載)でのジプシー少女であり、「日出処の天子」(山岸凉子、LaLa掲載)における近親相姦であった。女性という性に対するルサンチマンがここにはある。

 これに対し、今の<やおい>同人誌においては、支配者、保護者としての女性が登場する。「C翼」には原作にそのような女性が存在しないので異なるが、「星矢」には城戸沙織、「トルーパー」にはナスティ柳生、という少女がそれぞれ存在する。これは、パロディの世界では消去される場合も多いが、そのままパロディ世界において、原作通りの保護者の地位を占めることもまた多い。このようにパロディの世界でも保護者としての少女が存在することは、この少女が作者自身(当然パロディの、だが)の投影であることを意味する。だから、少女が作者の分身である以上、少女が関係する恋愛、つまり、自分が関係する恋愛はタブーである。

 もうひとつは性表現の問題である。例えば二十四年組の作品では、性器は全く描かれていない。ところが、<やおい>同人誌では、具体的・直接的ではないが性器は描かれる。この差はどこから生じるのであろうか。

 ひとつには、まんが全体において表現が以前より直載化・的確化したことである。レディースコミックの性表現と比較してみれば、別段<やおい>同人誌での描写が激しいわけではない。しかも、かつては恋愛がセックスまでを包括することができ、表現のレベルにおいても<キスだけ>、<手をつなぐだけ>でもセックスを示唆できた。けれども、今のようにマニュアル的な情報が氾濫し、恋愛とセックスが分離されると、示唆的表現では、セックスを表わせない。セックスを描くにはセックスを描く以外、代替的な方法は今はない。

 いや、理由はそれだけではない。擬似恋愛としての<やおい>において常に強調されるのはどちらが<受け>か<攻め>か、言い替えれば、どちらが男役でどちらが女役か、という点である。そして、これは必ず<何々受け>という言い方で表わされる。決して<何々攻め>とは言わない。少女たちにとっては<受け>こそが大切なのである。これは自己愛の変形である。自分自身は傷つきたくないから、<受け>の少年に自分の思いを仮託するのである。その意味においては、性器を持った<攻め>の少年は、少女にとって性的な対象ではあるが、<受け>の少年は決して少女自身ではないという<ねじれた>関係がそこに存在するのである。フェミニズム的な言い方をすれば、二十四年組の作家たちは、女性としての様々な制約を打ち破るために、新しい少女まんがを描いた。しかし、今の少女たちは<受け>という規定された固定的な役割から逃れたいという気持ちも持っているが、完全に解放されるのは怖い、というダブル・バインドな状況にあるのである。

第6章 少女たちは楽園をめざす

 そして、少女たちは、まんがを通して楽園をめざす。

 まず、少女まんがが、その輝きを見せた最後の時期において人気を得た作品について考えてみよう。「エイリアン通り」(成田美名子、LaLa掲載)、「ファミリー!」(渡辺多恵子、別冊少女コミック掲載)、「前略ミルクハウス」(川原由美子、別冊少女コミック掲載)、といった、八〇年代初頭に少女たちの熱い支持を得た作品に共通するのは、家族という物語を過剰に描くか、擬似家族という幻想を描くことによって、<楽園>を創出した、ということである。この<楽園>の中には基本的には親の姿が存在しない。例外は「ファミリー!」であるが、この場合、両親が、子供たちのレベルにまで降りてきており、親と子の間に必然的に生じるはずの支配関係をわざと消している。支配関係の全くない横のつながりだけの人間関係の中は居心地がいい。

 この親の存在の問題は、パロディという次の<楽園>においても同じことが言える。

 「C翼」においては、まだ、親の存在は明らかだ。「星矢」となると、話の神話的構造もあって、親の存在が見えなくなる。ところが、「トルーパー」になると、親の存在そのものが疑わしい。横の人間関係はあるが、縦の人間関係が成立していない。

 縦の人間関係がもたらす支配関係が、物語を生臭くし、束縛する以上、そもそも、縦の人間関係そのものを消去したほうが、物語をつくる上で苦労が少ない。そして、見知らぬ人間だけを集めて<楽園>を創り、その外部はみんな敵だ、とした方が図式が分かりやすい。こういうストーリー上の制約から(ほとんどが無意識的に)親が消去されるのが最近の物語の特徴だ。

 少年まんがにおいても状況は変わらない。「機動警察パトレイバー」(ゆうきまさみ、週刊少年サンデー連載中)では、埋立地の中の特車二課が<楽園>である。ゆうきまさみは、さすが、同人誌、しかもアニパロ出身だけあって、この<楽園>の構造を非常によく理解している。前の連載作品「究極超人あーる」においても、彼は光画部という<楽園>を見事に描いていた。ここでも親の姿は、見ることができない。

 ところで、この状況を逆手にとったのが、むつ利之の「名門!第三野球部」(週刊少年マガジン連載中)である。この作品では、親の姿を頻繁に出し、普通の少年が泥まみれになって努力して甲子園を目指す、あたり前の少年まんがを過剰なまでに描いたからこそ、逆に人気を得ることができたのだ。そして、ほとんどの人が気付いていないが、「キラキラ!」(安達哲、週刊少年マガジン掲載)の本当の価値は、この社会状況下で家族関係・人間関係を正面から描き切ったことにある。

 このような最近の物語における特徴は、別段まんがやアニメに限らない。あの吉本ばななの作品においても親の姿は消されていることも考えれば、この問題は、現在のすべての物語が等しく抱えている問題なのである。

 少女まんがが今のような長い低迷に落ち入っている理由を、さらに言い替えれば、少女たちに新しい<楽園>を提供できなかったからである。今、少女まんがにおいては、<楽園>は創るそばから壊れていく。成田美名子の「CIPHER」(LaLa連載中)での苦闘は、自分でもわかっているのだが、<楽園>の崩壊を止めることができないことの現れである。

 そして、このような状況の少女まんがにおいて、人気を得た作品の多くは、喪われてしまった<楽園>について語ろうとする作品でしかない。例えば、それは、松苗あけみや吉野朔実の諸作品であり、「やじきた学園道中記」(市東亮子、ボニータ連載中)であり、「辺境警備」(紫堂恭子、プチフラワー連載中)であり、「動物のお医者さん」(佐々木倫子、花とゆめ連載中)である。しかし、これらが何かを生み出すかと言えば、決して何も生み出しはしないだろう。むしろ、喪われた<楽園>について元気よく敢えて語ろう、という意志の見られる「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ、りぼん連載中)の潔さの方が美しい。

 今後、少女まんがが再生することができるとすれば、それは、少女たちに、新しく形を変えた<楽園>を提供できることが最低限の条件である。そして、そこは少女たちにとって、<自己実現の場>でなければならない。

 悲しいかな、その可能性は少女まんがの内部にはもはやない。唯一の残された未来は同人誌である。少女まんがにおいてほとんど失われた読者との共時性を、同人誌は、今、少女たちに提供している。同人誌だけが少女まんがと少女たちをつなぎ止める事ができるのだ。同人誌のここまでの隆盛は、確実に少女まんがの停滞を短くするだろう。高河ゆんは兆しであり、今はまだ、停滞にブレーキがかかっただけであるけれども…。そして、二十一世紀を迎えたとき、もしかしたら、再び少女まんがに栄光の時代がやってくるかも知れない。その鍵は、同人誌だけがにぎっているのである。

おわりに

 以上が、ここ数年の同人誌の大きな流れの分析です。もちろん、コミケットには女の子系パロディ以外のジャンルが多数存在します。特に、オリジナル系の復興と男の子の反撃については、今後の同人誌界を占う上で重要なのですが、今回はそこまで言及すると煩雑に過ぎるので、また稿を改めて考えていきたいと思います。

 本稿をつくるのに当たって、様々な方のご協力を頂きました。特に、コミケット事務局の岩田次夫氏の御助力なくしては、本稿はできなかったと言って過言ではありません。厚くお礼を申し上げる次第です。

 なにぶん時間もなく、浅学非才な私ゆえ、論証不足な所も多く、間違いもあるかもしれませんが、その点に関しては、御教授頂ければ幸いです。また、御意見・御感想についても、伺いたく思いますので、お待ちしております。

(一九九〇年六月二十七日)

<参考文献>

●書籍

大塚英志 「システムと儀式」(本の雑誌社、八八年)
大塚英志 「物語消費論」(新曜社、八九年)
大塚英志 「少女民俗学」(光文社、八九年)
上野千鶴子「<私>探しゲーム」(筑摩書房、八七年)
中島梓  「ベストセラーの構造」(講談社、八三年)
浅羽通明 「逆襲版 ニセ学生マニュアル」(徳間書店、八九年)
本田和子 「フィクションとしての子ども」(新曜社、八九年)
米沢嘉博 「戦後少女マンガ史」(新評社、八〇年)

●雑誌等

「ぱふ」(雑草社)
「コミックボックス」(ふゅーじょんぷろだくと)

大塚英志・上野千鶴子「漂流するセクシュアリティ」
上野千鶴子「ジェンダーレス・ワールドの<愛>の実験」
大塚英志 「<産む性>としての少年」
      (「都市U 特集性的都市」都市デザイン研究所/河出書房新社、八九年)
大塚英志 「居心地の悪いトレンド読み屋たちも「あの頃」の夢を見るのか」
      (「ユリイカ」九〇年二月号、青土社)
米沢嘉博 「小さな出会いのなかの至福−同人誌とマニア誌」
      (「青年心理」八二号、金子書房、九〇年)
米沢嘉博 「コミケット 世界最大のマンガの祭典」
梨本敬法 「やおい族 美少年ホモマンガに群がる少女たち!」
河内秀俊 「おたく産業は巨大なブラックマーケットだ!」
      (別冊宝島「おたくの本」JICC出版局、八九年)
野阿梓  「少女マンガについて私が知っている二、三の事がら」
      (「SFアドベンチャー」九〇年七月号、徳間書店)

●同人誌

岩田次夫 「少女まんがの構造<第一次案>」
      (「季刊はんぷてぃだんぷてぃNO.2」、八四年)
東風あきら「『何をなすべきか』あるいは「近代主義批判」への花道」
      (「季刊はんぷてぃだんぷてぃNO.3」、八五年)
中村公彦 「パロディVSオリジナル」
      (「COMITIA9カタログ」COMITIA実行委員会、八八年)
      「オリジナリティはどこにある?」
      (「COMITIA10カタログ」COMITIA実行委員会、八八年)
南森鮑魚 「夢みる頃を過ぎても 紡木たくへ向けての序論」
      (「真相の噂VOL.2」スタジオアマルティア、八七年)
       「尾崎南…神話…同人誌 補完機構としての商業誌」
       「同人誌界90」
      (「真相の噂通信VOL15」スタジオアマルティア、九〇年)
無署名  「気分はもうオリジナル」(「裏街道通信3」、八六年)

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