PUREGIRLって…

1998年12月

 つまりだ、「PUREGIRL」は出来の悪い「漫画ブリッコ」なのである。終わり。

 って、おいおい(笑)、それでは話にならないので続ける。でも、二十代後半以上のまんがファンなら、この一言でニュアンスわかるよね?

 でも、この同人誌を読む読者の半分くらいは、もう「漫画ブリッコ」なんて知らないだろうから説明しておこう。「漫画ブリッコ」というのは、80年代前半に白夜書房(当初は、ダミー会社のセルフ出版)が発行していたエロまんが誌である。最初は冨田茂などが看板の只のエロ劇画誌で、A5判というエロまんが誌にしては特殊なサイズや作家陣の薄さもあって、ほとんど全く売れていない雑誌だった。そこにつけ込んで、当時同人誌を中心に一部で盛り上がっていた「ロリコン」ブームを背景に全面的にこの雑誌をリニューアルしたのが、フリーの編集者であったかの大塚英志である。83年の5月号からの刷新で、大幅に作家陣が入れ替わったのだが、今振り返ると、よくこれだけのメンバーが集まったと思わせる充実ぶりである。藤原カムイ、寄生虫、外園昌也、ひろもりしのぶ(みやすのんき)、早坂未紀、森野うさぎ、計奈恵、白倉由美、桜沢エリカ、岡崎京子、いくたまき、中田雅喜、中森明夫、竹熊健太郎、そして、忘れてはならないあぽ(かがみあきら)……。中森明夫が「おたく」という言葉を初めて使ったのもこの雑誌のコラムからだった。「女子高生まんが」ということで、白倉由美、桜沢エリカ、岡崎京子の3人が一括りにされてしまうとゆー今から思えば(いや、当時でも充分に)乱暴な企画もあったのだ。

 さて、これだけのメンバーを集めているからには、さぞかしこの雑誌は売れただろうと思うだろうが、これがそこそこでしかなかった。白夜書房から出ているエロ本のくせに、エロまんがが載っている割合は全体の半分にも満たなかったのだから当然ではある。また、作家のメンバーを見ればわかるよーに、「漫画ブリッコ」はロリコンまんが誌であると見せかけておきながら、しかもその実、「ロリコン」誌でもなかった。もちろん大塚にとっては、「ロリコンまんが・エロ雑誌」というのは方便であったことはゆーまでもないし、これは大塚自身も認めているところでもある。錚々たるメンバーを集め、ブームの火付け役のひとつでありながら名前ほどには売れていない、というのはどこかの雑誌も同じである。
 売れていないということは、金がないとゆーことでもある。おかげでこの「漫画ブリッコ」、絵にこだわる描き手をそろえている割には、印刷は最悪で、しかも、原稿料がよろしくない。初期最大の人気作家ひろもりしのぶを抱えきれなかったのは、その人気のために急上昇した原稿料を払えなくなったせい、という泣くに泣けない話もあった。これも、CGアートに凝る割には印刷は今一つで、しかも、売れてないから金払いが悪いというところでよく似ている。

 そして、「漫画ブリッコ」の影の「売り」が、「オーツカ某」という形での大塚そのもののキャラクター化であり、やたらと業界ネタを連発するコラムの存在であった。当時、大塚はこの雑誌以外にも徳間書店等で働いており、「プチ・アップルパイ」などのアンソロジーを作っていたのだが、その過程であちらこちらで集めたネタを「まんがの真相」とゆーコラムで暴露していた。末期になると、白倉由美との「ねこまたぎ対談」で内容はエスカレートし、版元の白夜書房批判にまで及んで、大塚は編集長を事実上解任されることになる。既に述べたように「ロリコンまんが」であることは、大塚にとっては極論すればチャンスに過ぎない。彼はそれを政治的に利用しようとし、ある程度それは成功した。「ハイエンド」という言葉を作りだし、それを政治的に利用しようとした人々の過去の言説を見れば、彼らは明らかに以前から大塚の仕事に注目していたことを思い出す。そして、いざ自分たちがなしたことはといえば、大塚のデッドコピーであったことは、非常にわかりやすい。そう考えれば、なぜ「ハイエンド」の雑誌で、業界コラムが熱心に語られるのか、合点がいくであろう。

 そんな「漫画ブリッコ」最大のスターと言えば、やはり、表紙を担当し、「ワインカラー物語」というリリカルなショートストーリーを描いていたあぽ(かがみあきら)であったことは異論のないところだろう。独特なメカニックデザイン、SFマインド豊かな物語性、そして少女まんがと言っても言いすぎることのない感受性、いずれを取っても将来を嘱望されていた描き手であったが、惜しくも84年8月に急逝してしまう。しかし、彼のまんがを愛した彼より一世代若い人々へ残した影響は大きい。没後十年の94年に、うたたねひろゆき責任編集の愛情溢れる回顧本が発行された。また、先日発行された有馬啓太郎の単行本の巻末には、若かりしころのアイデアノートの一部が掲載されているが、それを見れば、当時の有馬が影響を受けまくっている事が一目瞭然である。ついでならば、ぼくもその多感な(笑うなよ)高校時代にあぽ(かがみあきら)のまんがに出会っている。おそらく彼に出会わなければ、ぼくもこうして今でもまんがの世界にいることはなかったであろう。あの時、彼はぼくらにとってそれほどの存在だったのだ。「美少女」と「メカ」と「SF」というお約束のキーワードを、ビジュアル的にも物語的にも整合させながら、完成度の高い世界を作りつつあり、まさにそれが花開いていくだろうその時、彼は逝ってしまった。
 いわゆる「ハイエンド」系の作家で、同じ立場にあると言えば、やはりCHOCOであろう。その曖昧さゆえに混乱と喧騒を引き起こしていた状況に、CHOCOが指し示した方向性は、確かに一つの切り口を見出したことは明らかな事実である。そのCHOCOがあの雑誌の表紙を飾るというのは不思議な符号の一致なのか、意識的な所業なのか。

 てなことをつらつら考えていくと、「PUREGIRL」というのは、出来の悪い「漫画ブリッコ」なのでは? と思えてくるのであった。もちろん、意識的、無意識的に大塚を手本にしている縮小再生産なんだから仕方がないし、しかも、大塚ほどにはハッタリも利かせられないから、虚勢を張った分だけ周りから突っ込まれてるわけだし。(後、白夜と喧嘩して編集部飛び出して、アンソロジー編集するところまで真似しなくてもいいのに…、というのは余計か(苦笑))。

 「漫画ブリッコ」は才能のプールにはなっていたが、それを活かせずに終わってしまった。「漫画ブリッコ」に関係した描き手たちで、その後、人気を得た人々とゆーのは、結局は「漫画ブリッコ」とは関係なしに自分で自分の道を切り開いた人たちである。ブームや雑誌はとりあえずの環境を作るかもしれないが、それを活かすのは作家その人の力である。補助にはなり得ても、メインにはなり得ない。だから、「PUREGIRL」なんて、それくらいに思えばいいのである。むしろ過剰な思い入れこそ雑誌も作家も不幸にするだけなのではないか?

 「ハイエンド」というフレームワークも、これが到達点でも完成型でもない。むしろ、未熟な萌芽とでも言うべきものであって、ここから次が始まるのだと思う。そして、おそらくは「ハイエンド」とはだいぶ違った形で結実するはずである。かつての「ロリコン」ブームは、結果的に「ロリコン」という要素がいつのまにかほとんどまったく脱落し、エロ劇画表現から美少女まんが表現へのまんがにおける性表現のパラダイム転換をもたらした。おそらく「ハイエンド」ブームも同じ展開をたどるような気がする。今はまだ姿は見えないが、想像するにその過程において岩田次夫が指摘するような「ハイエンド」の持つ排除性のかなりの部分は、捨てられていくように思われる。それは、「ロリコン」が本質的に持っているマイナーな性嗜好ゆえの排除性が、いつのまにか霧消してしまったかのようにあっさりと捨てられるか、あるいは案外にしぶといかはわからないけれども。もちろん、逆に排除性を利用したより先鋭化・特殊化を意識的にさらに推し進める、という方法もなくはないが、もはやそれはまんがとして成立し得るか疑問だし、過去の歴史は、そういう手法がほとんと確実に袋小路となることを物語っている以上、一部の恐るべき才能以外はセレクトすべき手段ではあるまい。そして、排除性の排除が成し遂げられなければ、おそらく「ハイエンド」は、まんがの世界でよくあるただの一過性のムーブメントで終わってしまうだろう。しかし、もしうまくいけば、それは現在の「ハイエンド」とはずいぶんと遠い地平にあるものになっているかもしれないが、それこそが文字通り「21世紀のまんが」になっているはずである。 

(文中敬称略)

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