E-28購入控 第6章〜衝動編

by TAZYさん


32回目の梅雨は、景色が霧状の大気に遮られグレーに見える程の、
久し振りに本格的な雨量を齎していた。
Tは、負った部分に気圧の変化を直接的に受け、酷い時には
起き上がることも困難に成っていた。
空ろに目を向けたTVでは、明日の天気を青い傘と白い雲が表していた。
不意に、隣の部屋から聞える声が耳に届いた。
それは二歳になった娘が、Tを真似たものだった。
「・・・アタマ、イタイ、ヨコニ、ナルヨ、」
虚しさがTの胸を絞り、寝ている身体が段々と折り曲がった。
リモコンを掴み視線を送らないまま、TVを静まらせ、
娘を注意する彼の妻の声を聞きながら、Tは再び眠りに着いた。

翌日、
グレーに染まるハズの空は、予報を離れて陽射しを伴っていた。
これまでの降水で、大気は勿論、視界に映る多くのものが、
鮮明な色を艶を放っていた。
空は春とは違ったブルーを見せ、
膨らんだ雲はホワイトに磨きを掛けていた。
Tは、前日の痛みから若干ながら開放され、窓から空を眺めていた。
−RRRRRRRRRRRRRR
少し離れた場所の従兄弟Hから、訪問したいという旨の電話だった。
3歳下のHとは生まれた時から兄弟の様な付き合いをしてきた仲で、
彼はTの影響でバイクにも乗り、高校生時代には峠のチャンプにもなっていた。
そんなHも、今では県警の整備隊に配属されていた。
「遅くなってゴメンネ、」
両手にお見舞いを抱えて、Hは昼を過ぎた頃にやって来た。
「そんな、気を遣わなくていいのに」
Tは、Hを歓迎した。
一通りの病状の話を終えた頃、Hが切り出した。
「Kちゃんさあ、誰かBM欲しい人、知らない?」
「え?BM?」
Tは、軽い驚きを憶えた。
Hの口からBMWの話を聞くとは思ってもみなかったからだ。
「そう、BM。KちゃんはBM嫌いだったでしょ、だから、
他に欲しい人知らないかと、思ってさ、」
「急に、どうしたんだよ、BMなんて、」
「いや、あのね、俺が通ってる歯医者さんがね、手放したいんだってさ」
Tの脳裏にE28が一瞬にして浮かんでいた。
「どんなBMなの、それ?」
「普通のやつ、つうか、ちょっと古いかな、」
「何だよ、ちゃんと見てないのかよ、」
「ははは、俺Mini以外興味無いしさ、」
Hは中学時代から憧れていたMiniに乗っていた。
「でも、又、どうして、」
「あのね、歯医者さんの息子さんが4月に免許取って、
来月息子さんのクルマが納車予定なんだってさ。
それで、今までは、そのBMとシーマと二台持ってたんだけど、
場所が無いんでBMの方を手放すんだって、」
「んだぁ、シーマの方が良いってか、」
「う〜ん、そうでも無いらしいんだけど、その歯医者さんって、結構ぉ、
お爺さん先生でさぁ、左ハンドルなのが駐車場とかで困るとか言ってたよ、」
Tは、そう聞くと改めて7シリーズを思い浮かべていた。
「そっか、・・・実はさ、俺、BM探してるんだよ、最近さぁ」
「はぁ?KちゃんがBMぅ?どうしたの、急に、」
「・・・安全性とかね、色々さ、」
「ふうん、じゃあさぁ、試しに見に行く?」
Hは気分転換にどうか、と付け加えた。
「そうだね、行ってみるか、」

青い空と白い雲の下、
TとHは、数十キロ離れた歯科医を目指して、Miniに乗り込んだ。
Hの話では、近代的な建築物として建築家賞にも輝いた建物に、
もう半年間もBMWは眠っている、ということだった。
Tは歯科医のガレージをあれこれ想像してもみた。
オイルの匂いが微かにする空間に、大雑把な布が掛けられたBMWがいる。
Tは軽い興奮を憶えていた。
そして、いつしか、頭痛も随分と治まっていた。

アスファルトに奇麗な白いラインが映える駐車場に、Hは丁寧にMiniを収めた。
そして、受付けで顔見知りの歯科助手に訪問の旨を伝えた。
暫くすると、歯科特有の匂いの中、E院長が姿を現した。
「わざわざ、おこし頂いて何なんですが、ベーンベはね、もう自動車屋さんにね、渡しちゃってるんですよ、もし御時間があるのなら、行ってみられますか?
連絡しますけれど、」
白髪のE院長は、丁寧な口調で二人に詫びた。
「ええ、ご面倒じゃなかったら、是非、」
Tは、どうしても実際に見て帰りたいと思っていた。
「貴方が、乗って下さるのかな?」
E院長は、Tに視線を向けた。
「・・・あの、昔から、気になっているBMWがあるんです、」
Tは六本木での光景を口にした。
「そうですか、恐らくその頃のカタチだと思いますよ。でも、520なんですよ、」
「え、5シリーズなんですか、」
何種類ものE28のイメージがTの脳裏にフラッシュバックした。
「ええ、525ではなくて、520ですけどね」
「E28っていうタイプじゃないですか、」
「さぁ、そこまではねぇ、スイマセンねぇ、」
E院長に連絡をしてもらい、TはHと中古自動車屋へと向かった。
「Kちゃん、買う気でしょ」
ウッドステアリングを操りながら、Hは笑って言った。
「さあね、」
Tも笑って返事をした。

中古車販売店のオーナーは、機嫌良くTとHを迎えた。
「先生がこれを預けられる時には、随分時間が掛かってですねえ、」
E院長が新車購入時からの話を延々と語ったと、オーナーは告げた。
TにはE院長のBMWへの愛着が感じられていた。
「こちらです」
オーナーは二人を店舗の裏の小さな倉庫へと案内した。
「前に見た売り物の28も、不人気車専用の倉庫に置かれてたよ」
Tは笑いながらHに耳打ちした。
「Kちゃん、まだ28って決まったワケじゃないよ」
HはTの肩を叩いた。
オーナーは手動のドアをスライドさせた。
ゆっくりと開くドアの先に、薄暗い空間が表れた。
数台の中古車が、久し振りらしい光を受けた。
「ほら、ビンゴ、」
Tは、Hの胸を叩いた。
二人の視界には、外光を受けて薄い艶を段々と蘇らせていく、
ドルフィンメタリックのE28が映っていた。
外の世界からの光は、空間を漂う微小な異物をヒカリの粒に変えながら
数本の太い線をE28に繋いでいた。
フロントガラスに浮いた埃までもが、薄い絹織物の様に美しく輝いていた。
「エンジン、掛けてみますか?」
オーナーはTに鍵を渡した。

32回目の夏に見えている入道雲と青空のコントラストは、Tの興奮を煽っていた。
スピーカーから流れる、セイヴフェリスのスカソングを口遊みながらTは、北海道と東京からのゲストに会う為に、愛車のアクセルに強弱をつけた。
ワイフの許可を得ず衝動買いした海豚の色をしたE28.520iは、
それに応える様に車体を震わした。
Tは、E28を巡る様々な人々に出会え、色々な話が聞けることを、嬉しく思えていた。
六本木の路上で感じた魅力に、同じように取り付かれた人間が現在も大勢いることに、
Tは興奮していた。
E28専門のHPを発ち上げたヒト、
ディーラーに任せるコトも無く己でE28に触れることの出来るヒト、
何台ものE28に乗り継げたヒト、
希少なE28を携え愛でるヒト、
E28の初なオーナーになれたヒト、
TをE28のオーナーとして迎えてくれたヒト、
TにE28との出逢いを訊ねたヒト、
TのE28への稚拙な疑問にも億劫がらずに答えをくれるヒト、
常人なら旧く枯れ果てたと思う、E28というコードを与えられた欧女の魅力を知る、顔も知らない人々に、Tは独り、感謝と友情を馳せていた。

そんな空気を纏ったヒトに、もうすぐ会える。
27年前の夏に、父親の助手席からBMWを見ていたダケだった少年は、
自分の愛車としてのBMWのステアリングを大きく切った。

Tの父親は、デザインの変遷に失望しブルーバードを降り、
休日にはクラウンのハンドルを握っている。
カワドウロも、とっくにアスファルトの路面を与えられてしまった。
U三の消息は今も知れず、U三の屋敷だった場所は整地され、
公団住宅が建っている。
緩慢な時代の人々は、Tの記憶の中にしか残っていない。
ディレクターSやプロデューサーMは、変わらず映像業界にいて、
いまだに当時のスタイルを大切にしている。
完成した天気予報のフィラーは、評判というシビアなメジャーで計られ、
放送予定の半分もクリア出来ずに、画面から消えた。
Tを轢いて逃げた犯人も、深夜の路に消えたままだ。
そして、
Tの長女は、彼が初めてBMWを意識した年齢に近付いていた。
彼女は、白と青いエンブレムを冠した海豚色の欧女を遠くから眺めるだけではなく、独特な香りに包まれてながら、そのサイドシートに座ることが出来る環境にいる。
父親の気分次第では、彼の膝に座り、ステアリングを握れることもある。
しかしながら、「ベームベー」ではなく「ビーエム」とE28を呼んでいる。
もう少し、大きくなったら・・・、Tはそんな風なコトを考える事も多くなっていた。

戻るステアリングに掌を添えながら、Tは再び天空に視線を移した。
そこには、
変わることのない、入道雲と青空のコントラストがあった。

第6章・衝動編  E28購入控〜終


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