ジャナ革:既存ジャーナリズムの問題点 |
日本が生まれ変わるためには構造改革が必要だと、かなり前から何人もの人が言い続けていた。小泉総理の誕生によって、実現への期待が大きく高まっている。しかし現実には、いろいろな反対勢力が強く抵抗して、そう簡単には達成できないだろう。
こうした状況で反対する人々を、マスメディアの多くは「総論賛成、各論反対」と表現する。何度も聞いている言葉だが、いつも違和感を感じてならない。「各論反対」の方は合っていると思うが、「総論賛成」の方は間違っていると思うからだ。
基本的なこととして、もし総論賛成と本気で思っているなら、各論で反対するはずがない。各論で反対することは、総論での賛成と大きく矛盾するからだ。そして、相当なバカでない限り、大きく矛盾するような思考はしない。
では、構造改革の各論に反対する人々は、相当にバカなのだろうか。そうではないだろう。各論と同じように総論にも賛成していない、と解釈するのが適切だ。もし総論に賛成と言っているなら、それは建て前だけの話で本音ではない。世間から文句を言われるのがイヤなので、とりあえず賛成のフリをしておく、というのが実情であろう。
このように検討してみると、「総論賛成、各論反対」という表現が間違いだと分かってくる。誰が言い出したか知らないが、良くない表現の1つといえる。“ウソを報道している”と言えるかもしれないレベルだ。
では、どのような表現なら適切であろうか。もっと実際の姿に合わせ、次のように変えてはどうだろうか。意味としては「総論は建て前で賛成、各論は本音で反対」なのだが、これでは長すぎる。もう少し短くして、「総論ニセ賛成、各論本音反対」などと。「総論ニセ賛成」の部分は、「総論ウソ賛成」や「総論建前賛成」でも構わない。さらに記事の中では、「いつものように、一般論としては賛成のフリをしている」と書いておく。
こういった表現を用いると、読者には「本当は反対なのだが、総論では建て前で賛成だと言っているのだな」と伝わる。そうなれば、「総論ニセ賛成」と言われた人には大きな圧力がかかりやすい。国民や企業から、反対する理由を問われたり、考え直すように文句を言われたりする。現状のように、のほほんとしてはいられない。今よりも大変な状況になる。
逆に言うなら、「総論賛成、各論反対」などと表現しているから、関係する人はラクに過ごせる。この種のマスメディアの表現を一番喜んでいるのは、改革に反対する人である。つまり、こうした人々をマスメディアが手助けしているのに等しい。
もちろん、マスメディアで記事を書いている人々は、そう思っていないだろう。しかし、結果として、そうなってしまう。その大きな原因は、自分たちが用いた表現の影響を、深く考えないからだ。この表現で適切なのか、この表現を用いるとどんな行動につながるのか、逆にどんな行動を阻害するのか、などと考えたりしない。この深く考えないという姿勢は、日本のマスメディア関係者に共通した特徴なので、今さら驚くことではない。
「総論賛成、各論反対」を使うのには、もう1つ理由がある。このような決まり文句を、現在のマスメディア関係者は好きなのだ。細かく説明する必要性が減り、より少ない言葉で伝えたい内容を表現できる。だからといって、不適切な言葉を使って良いという理由にはならない。
「総論賛成」と報道する背景として、政治家や官僚が「一般論としては賛成」などと言っている現実があるかも知れない。しかし、そうだとしても、その発言が本音かどうか、ジャーナリストなら追求すべきだ。
もっとも有効なのは、相手の政治家や官僚が直接関係する分野で、具体的な改革案に賛成かどうか尋ねる質問。つまり、各論に相当する部分に賛成なのか、直に問うのである。「〜に賛成ということは、〜の分野における〜にも賛成なのですね」といった形で。もし反対なら、「一般論としては賛成」との意見と矛盾することを指摘し、どちらが本当なのが問い詰めればよい。そうすれば、建て前で賛成している点を明らかにできる。
政治家や官僚の中には、取って付けた理由を述べながら、自分の分野だけは例外だと主張する人もいるだろう。その場合には、適切な評価方法に照らし合わせて、納得できる意見なのか評価してみる。取って付けた理由が多いので、マトモな評価方法を用いると、価値の低い意見となりやすい。
こうした評価の結果も、報道の対象となり得る。誰からどんな意見が出たのか、その内容を評価した結果はどうだったのか、どんな評価方法を用いたのか、などを記事にするわけだ。こうやって報道すると、取って付けた理由を主張する人が少しずつ減ってくる。適切な報道が、世の中を良い方向に導く力となるわけだ。
一部の政治家だけを取り上げると不公平なので、政治家全員に同じ質問をして、その結果を一覧形式で公表すべきである。また、全員に同じ質問をすべきなので、その結果も含める。もっと重要なのは、その後の行動だ。回答した内容どおりに行動したかどうか、調べて結果を報道する。とくに強調すべきなのは、最初の意見どおり行動しなかった人、すなわちウソを付いた人である。
こうした報道では、最初に質問するとき、最後の報道方法まで含めて明らかにしておく。質問の回答内容と行動が一致しない人に関しては、とくに力を入れて指摘するといった点を。そうすれば、最初に回答する時点で、建て前だけの回答内容を言いにくくなり、強い圧力として働く。
質問や報道が厳しくなるほど、回答を拒否する人が増える。そんな人が減るように、拒否した回数のランキングとか、拒否率のランキングなどを継続的に公表し、逃げる行為を難しくする。このように、工夫する方法はいくらでも考えられる。
質の高い報道内容を求めるほど、物事を評価することの難しさも分かってくる。そうであっても、質を高めるために必要な能力で、だんだんと向上させるしかない。最初はレベルが低くても、勉強しながら評価方法に改良する意識が大切だ。
最初のうちは、評価される側から文句が出てくる。文句のレベルが低い間は、「〜の思想に染まった評価だ」とか「〜の偏見が混じっている評価だ」などと、雰囲気だけで反対する。そんなときこそ、評価基準を公表していることが役立つ。評価基準のどの部分が悪いのか、具体的に指摘してもらうように、対応すればよい。また、相手にも自分の評価基準を出してもらうという対応も有効だ。どちらも、レベルの低い意見を出す人にとって、手強い相手となる。
当然ながら、評価基準の改良案は、誰からでも受け付ける。多くの人に良い意見を出してもらうほど、評価基準の質が高まり、それのもとづく記事の質も向上する。また、評価基準が良いほど、低レベルの反論が難しくなり、そうした意見が減ってくる。
これまでの日本の報道では、政治家や官僚の評価を避けてきた。しかし、評価しなくては、質の高い報道など実現できない。そろそろ考え直す時期に来ているし、やらなければ報道する価値は相当に低いままだ。
これからは、「総論賛成、各論反対」といった、ダメな人を手助けする表現を止めてもらいたい。その代わり、適切な評価方法を採用して、それに合った取材を行い、より良い表現で報道しなければならない。そうなるように、読者の側では、不適切な表現を指摘し続けよう。
(2001年6月25日)
不適切な表現でダメな人を手助けしている |