ねこてつ、はじめての入院

1999年、9月2日

 夕方からおなかがしくしく痛み始めた。最初はおなかが空いたせいだろうと思っていたが、夜になっても痛みは治まらず、歩くとおなかにずきずきと響いた(ぱんつのゴムの圧力もおなかに響いていたなぁ)。そうこうしていると熱まで出てきた。それでも一晩寝れば直るだろうと思いつつ、いたいおなかをなでなでしながら寝た。

 朝になってもおなかの痛みは収まっていなかった。で、近所の診療所へ自転車で出かけた。お医者さんに診ていただくと盲腸だとおっしゃる。「僕だったら切るなぁ・・・でも一応外科の先生に診て貰いましょう」とおっしゃり、大きな病院で診ていただける手配をしてくださった。

 ドキドキしながら都立大塚病院の救急外来へ行った。診てもらえるまでどれぐらい待っただろうか。しばらくして名前を呼ばれて診察室へ。おなかをぐいぐい押されて痛いのなんのって。その後、血液検査、レントゲン、エコー等、いろいろな検査を受けた。 

 採血は苦手。あたしがあんまりこわばった顔をしていたのだろう、採血をしてくださった人があれこれ質問してきてくださり、緊張をほどいて下さった。エコーは面白かった。エコーはくすぐったいと聞いていた。くすぐったがりのあたしは耐えられるだろうか…等と心配だった。おなかにゼリーが塗られ、いよいよエコーの検査だ。機械がおなかに押し当てられ、ぐりぐりされた。痛かった(;;)。あたしもエコーのモニターを見ていたのだが、一体何が写っているのかさっぱり分からない。で、技師さんに今何が写っているのか聞いてみた。すると丁寧に教えて下さった。でも、聞いてもやっぱりよく分からなかった。

 全ての検査が終わったのが午後3時近かった。朝からろくにご飯も食べていないし、水分も補給していない。ぐったりしてしまった。そして再び診察室に呼ばれた。血液検査の結果、炎症反応が高く、白血球の値も高い。とりあえず抗生物質と痛み止めの点滴をして、それでもダメだったら手術します。今日から入院して下さいと言われた。慌てて家族に電話で知らせた。が、家族は冷静だった。

 そんな、入院って言われても…。ぼーっとしているうちにドンドン手続きは進み、あっと言う間に病室に案内された。素敵な婦長さん(ちょっぴり中村玉緒さんに似ている)に病棟の説明を伺い、病室に案内された。6人部屋の窓側だった。とりあえず点滴のラインをとり、点滴を一本受け、外出許可を貰ってスーパーで身の回りのモノを少し買い揃え、自宅に帰った。さーままさんに入院することをメールでお知らせした。

 荷物(読めなかった本とか、ピカチュウのぬいぐるみ、ぱふぱふおにぎりくん等、和みグッズもしっかり持っていったとさ)をまとめ再び病院へ。同室のみなさんにご挨拶を済ませ、パジャマに着替えて、「入院のしおり」を読んだり、看護婦さんに日常生活のあれこれについて質問されたり…と何だか忙しかった。偶然知り合いが同じ病院に入院していた(抗ガン剤の治療で)。年上の知り合いが居るのは心強い。

 病院の消灯は午後9時30分。一体あたしは眠れるのだろうか?と不安だった。ぱふぱふおにぎりくんにすりすりしながら眠った。が、いびきや寝言やうなり声などでぐっすり眠れなかった。


 朝になり、少し冷静になってきた。同室の方たちと少しずつお喋りできるようになり、皆さんの病状等が少しづつ分かってきた。あたしのお向かいにいた奥さんは副甲状腺の手術をされる方、他に乳ガンの手術をされた方、抗ガン剤の治療を受けている方、衰弱がひどいお婆さん、首の具合が悪くヘタに動くと首が折れてしまい不随になってしまいそうな女性等。

 看護婦さんたちは皆さんおきれいで、働き者だった。おトイレのお世話やもどしてしまった人のお世話、おふろに入れない人の身体を拭いて差し上げたり、シャンプーをして差し上げたり、医療行為から身の回りのお世話まで、それはそれは献身的に働いて下さる。それがお仕事だと言ってしまえばそれっきりなのだろうが、イヤな顔ひとつせず、笑顔で患者さんを励ましつつ、お仕事をこなしていく。本当に尊いお仕事だと思った。


 おなかの痛みはすぐに治まってきた。が、やっぱりヘンだったのか、夜眠っても恐い夢ばかり見ていた。夜中におなかが痛くなって目を覚ましたこともあった。夜はいろんな音が聴こえてきたり、いろんなことを考えたりするので苦手だった。で、ラジオをずっと聞いていた。たまたまミスターチルドレンの特集の週だった。深夜に聞くミスチルは心に染みるなぁ。「イノセントワールド」一番好きかも。ちょっと泣けてくる。
 食事はいつもデイルームでテレビを見ながら、おばちゃんたちとお喋りしながら楽しくいただいていた。おばちゃんたちは重い病気を患っているにも関わらず明るかった。そして病気に負けるかっっっ!という気合いで溢れていた。外国人の患者さんもいた。彼女たちは異国で、母国語じゃない環境での闘病生活はさぞ心細いだろう。が、同じ病人同士っていう不思議な連帯感があるせいか、お互い親身になって話し合えたことが面白かった。

 女性たちはすぐに友達になれてワイワイと盛り上がれるが、おじさんたちはなかなかそうは行かないようだった。こんなことで男女の違いも感じたりして。


 たくさんお友達がお見舞いに来て下さった。Mさんは「大谷ちゃんが入院なんて驚いたわ」とおっしゃり、マンガの本とペプシコーラのキャップのお人形(アナキンくん)を差し入れて下さった。お花を持ってきて下さる方、ジュースやゼリーを差し入れて下さった方。会社の人達もわざわざ来て下さった。今までこんなにお花を頂いたことはないよなぁ・・・って思うぐらい、たくさんのお花に囲まれて幸せだった。お見舞いメールもホントに嬉しかった。それに仙台から本やお手紙を送ってきてくださったり、毎日メールを下さったり、お仕事を抜け出してお見舞いに来て下さったナイスミドルなお友達の熱い友情に感謝した。
 病院って好きじゃないし、病気もイヤだ。だけど、今回の経験は甘ちゃんのあたしにはとても良い経験だった。癌と戦うために苦しい副作用の伴う抗ガン剤の治療を耐えている人達、手術のあとの痛みに耐えながらがんばっている人達、患者さんを心身ともにサポートすべく働く人達等・・・。いろんな人達の生き様を見られたり、話が出来たことはとても素晴らしい経験だった。健康のありがたさ、家族のありがたさ、友達のありがたさ等を知ることもできた。
 あっと言う間に10日間が過ぎた。朝の採血の結果が良かったので退院の許可が出た。嬉しかった。きゃーっっ!うれしいっっ!って感じじゃなくて、じんわり嬉しかった。が、同じ時期に入院してきてもまだ具合が悪い方や、あたしより長く入院しているのに思うように回復していない方たちもおられるので、素直に喜ぶことはできなかった。

 それでも退院の仕度をし、お世話になった皆さんにご挨拶をすると、みなさん「良かったわね。お元気でね」と心から優しい言葉を書けて下さった。お別れするときは涙を堪えるのに必死だった。たった10日間だったけど、とても密度の濃い10日間だったのかもしれない。あたしは元気に退院してこれたことを幸せに思う。まだあたしのおなかの中に病気は残っているけれど、仲良くおつき合いして元気でいられるように出来ることをしていきたいと思っている。


 退院後、しばらく家でのんびりしていた。家でごろごろしているのもラクじゃないなぁ・・・なんて贅沢な文句を言ったりしていた。お友達が娘のNちゃんを連れてはるばるあたしの家までお見舞いに来てくれたり、音楽師匠もお忙しいのに(風邪をひいて大変だったらしい)プリティなくまちゃんを持ってお見舞いに来て下さったり、Mちゃんもお手紙を送ってきて下さったり・・・。しみじみ嬉しかった。

 何度も書いちゃうけれど、ホントに貴重な経験が出来た。ここで学んだ大切なことがらの数々を忘れないように、活かしていけるようにがんばっていきます。

どうも長々おつき合い頂きありがとうございました。 

1999.9  

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