希望時代のヒーロー

石原裕次郎私論


正直に白状すれば、かつて映画作りを志したこともある私にとって、裕次郎の「青春映画」なんて眼中にはなかった。どこかで馬鹿にしていたところがあった。そんな訳で私は、彼の映画を真面目に観た記憶がない。最近BS放送が、裕次郎映画の特集をしているので、偶然「嵐を呼ぶ男」と「風速40米」という作品二本を立て続けに観る機会があった。

まあ芸術性という点では、さほどのものはないが、裕次郎自身が、ものすごく輝いていて眩しかった。今青春の輝きをあれほど大胆にしかも自然に表現できるスターがいるだろうか?素直にそんなことを考えた。そもそもスターというものは、自然に生まれるものであって、本来素材そのもののはずだ。

しかし最近のスターと言えば、芸能事務所やテレビ局などのマスコミによって、意図的に作られる虚構の存在と化してしまった。ジャニーズ事務所の売り出し方を冷静にみれば分かるように、何年かごとに、次にスターダムに乗せる少年をあらかじめ何人か用意しておいて、まわりの人気を見ながら徐々にターゲットを絞って行って、時代に合いそうな、スターをマスコミ操作によって、意図的に作っていく。
 

そこへいくと、裕次郎という人物は、まったく型破りな存在だった。裕次郎は、それ以前も以後も誰にも似ていないキャラクターだ。当時、彼の兄は石原慎太郎と言って学生時代に芥川賞を獲得するほどの秀才だった。しかし当の本人はまったく兄貴なんて眼中にないような、只のやんちゃなを通す悪ガキだった。喧嘩・たばこ・酒、あらゆることに手を染める札付きのワルだった。そんな弟に、秀才の兄はあべこべにコンプレックスを持っていたらしい。何故あんなにも自由に生きれるのか、そんな驚異を感じていたというのだ。

芥川賞受賞作の「太陽の季節」(昭和31年=1956)は、そんな裕次郎の破天荒な青春を軽快なタッチで描いた小説だった。ふとしたことからその小説が映画化(昭和31年5月)されることとなり、兄はそのシナリオを自分で手がけることを条件に契約をした。主演は長門裕之だったが、そこで裕次郎は、若者の行動の演技指導兼ちょい役で出演した。カメラを覗いた映画人が、裕次郎のキャラクターを見て驚いた。映画のフレームから飛び出すような伸び伸びした存在感に直ぐさま、プロデューサーの水ノ江滝子は裕次郎を主役に抜擢した映画が「狂った果実」(昭和31年7月石原慎太郎原作脚本)をその二ヶ月後には完成させたのである。そしてアッという間に日本中の人気者になってしまった。

こうして生まれついての映画スター裕次郎は、誕生したのであった。どうしても現在の若い人は、「太陽に吠えろ」や「西武警察」のイメージのむくんだイメージが強いと思うが、まず裕次郎を見るなら、若い頃の彼のぎらぎらするような青春の輝きを見るべきだ。そこには演技技術や作られたスターとはまったく違う本物の輝きがある。

裕次郎という存在は、戦後日本の奇跡と言われた経済発展の象徴そのものだったのだろう。確かに昭和30年前半、日本は今よりも遙かに貧しく、生活も苦しかった。テレビは最高の貴重品で、車どころかクーラーを付けている家なんてなかった時代だ。しかし裕次郎の映画を観ていると、その頃の方が、今より遙かに豊かだったような気がしてくる。それはおそらく、経済的には貧しかったが、一生懸命頑張れば、何とかなるという希望があったからだと思う。

今はどうだろう。小学生すら自分のテレビを持ち、高校生がかつては、お金持ちのマダムしか持てなかった高級ブランドを平気で持つ時代となったのに、誰も満たされた気持ちになっている人がいない。最近では、ブランド中毒という一種の精神強迫症に陥っている女性までいるという。次から次へと自分の好きなブランドの新製品を買い集め、それでも満たされず、また次の同じような新製品を買い続けるような症状らしい。これが現代だ。日本は、今いつ果てるともない不景気の真っ只中にいる。そこにはある種の豊かさはあるのだが、不安ばかりで、希望というものがまるでない。

裕次郎のような圧倒的に輝いたスターが現れないのも、そんな時代だからこそなのだ。そのように考えてくると豊かさとは、今お金をいくらいくら持っているという金銭的なものではないことが分かる。つまり真の豊かさとは、明日に希望がどれほど持てるかという希望の度合いなのだ。そこであなたはどの程度の明日への希望を持っているか。佐藤
 


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1999.10.6