豊かさとは何か?!
ー印象・ド
ビュッシーの「月の光」ー
「豊かさ」というものはいったいどんなものか?少し考えてみたい。一番先に思いつくのは、金
銭的豊かさである。誰も多くの財産を持ち、お金の心配の要らない生活を望む。豊かな生活は、財産の裏付けなしには生まれない。そのように思っている人が一
般的だ。
しかし豊かさを「金銭的豊かさ」と考えてしまうと、豊かさという袋小路に入って身動きが取れなくなる。どのようなことかと言えば、金銭的豊かさは、工夫を
生まなくなる。何もしなくても暮らしていけるのだから、努力も要らない。するとそこに豊かさの弊害がたちまち悪魔のように顔を出す。
昨日、あるお宅のパーティに招かれて、クラッシックの演奏を聴いた。これだけを聞くとお金持ちの集まりのようだが、けっしてそうではない。クラシックを勉
強している若者たちが企画した手作りの演奏会だった。会費は千円。持ち込んだりしたワインを傾けながら、フォーレ(1845−1924)やドビュッシー
(1862−1918)などの曲をゆったりと三時間に渡って和やかに聴く静かな演奏会だった。
私はいつものように、目を瞑りながら、クラシックという静かな海に浸りきっていた。特に理由は見あたらないのだが、何故かドビュッシーの「月の光」に差し
かかった時、思わず「ドビュッシーは豊かだ」と心の中で叫んでしまった。もちろん声には出さないが、確かに「豊か」という言葉が心の奥から湧いてきたので
あった。
「ドビュッシーは豊かだ」この言葉を何度も反すうしてみた。ドビュッシーが豊かなのか、ドビュッシーが創作した「月の光」という曲が豊かなのか、結局私
は、まず感情の中で、この馴染んでいる「月の光」を「豊か」と感じたことを思った。この時点では、彼の才能に比してけっして豊かだったとも言えない人生を
まったく考慮に入れてたわけではない。若い頃、ドビュッシーは、自分の自信作をチャイコフスキーという巨匠に送って、酷評されたこともあるという。その意
味でドビュッシーの音楽の斬新さは、今日私たちが考える成功や財産的豊かさから来るのではなく、創造的葛藤(あるいは創造的苦悩?)から来ているのではな
いかと思った。
本来芸術作品について、「豊かさ」というものを感じるのは、クラシックに限らず、創造主たる芸術家本人の精神葛藤から来るのである。とすれば、豊かさの源
泉は、芸術家の苦悩という言い方も可能になる。そして芸術家本人のその時点での獲得した名声や金銭的豊かさとはまったく関係のないものということにもな
る。
もしもドビュッシーほどの才能ある人間であれば、チャイコフスキーという巨匠が唸って絶賛しそうな曲を作曲して、褒められること位は容易いであろう。しか
しおそらくドビュッシーは、精神の高潔さ故にそのような貧しい行為はできないのである。ドビュッシーの曲が醸し出す豊かさの極致を、私は勝手に「牧神の午
後への前奏曲」と思っている。この曲を聴いていると、自然に牧歌的な気持になってくる。そして長閑な原野に誘い込まれ、言うに言われぬ豊潤な一時を過ごす
のである。何と贅沢な時間だろう。それにしても「豊かさ」とは何であろうか・・・。
2005.12.21 Hsato
義経伝説
義経思いつきエッセイ