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雪印食品転落の寓意

−一線を越えるきっかけ−


町を歩いていて、雪印のあの青い看板が目に入った。子供の頃から牛乳やチーズで馴染みのあの雪の結晶の懐かしい大きなマークが晴れ渡った冬の空に浮かび上がっている。しかし何故か悲しい。

雪印乳業という乳製品の名門企業は、自業自得とは言いながら、子会社「雪印食品」の牛肉をめぐる不正詐欺疑惑に、企業としての存在理由が見あたらないほどの危機的状況に追い詰められてしまった。

どのように考えても、外国産の牛肉を和牛と詐称した上で、国からの助成金(?)をだまし取る。しかもそれが組織絡みで、恒常的になされていたということが、私の頭では、名門企業「雪印」のブランドイメージと結びつかなかった。きっと社員には、親子で雪印に勤めていた人もいるだろうに、それが何故、国を詐称してまで、補助金だか、助成金だかをだまし取らなければならなかったのか。どうしてもそこまでしなければいけなかったのか。

もしも初めから、詐欺をするつもりの企業ならいざ知らず、そこまでして僅か数百万の金銭を手に入れてどうするというのだ。そのような悪事が、どうしてバレずに続くと考えたのか。常人の考えではないな。いったい何が内部であったのだろう・・・。そんなことをずっと考えていた。

そんな時、朝のニュースで、「雪印食品は、商品先物に手を出していた」という報道に、急に目が覚めたようになった。まあ、メーカーであれば、リスクヘッジとして先物取引をすることは珍しくない。おそらく雪印食品の場合はきっとそこに投機的な売り買いを絡ませてしまったのであろう。通常であれば、商品取引は、リスクヘッジの役割を果たすのであるから、メーカーであれば、多少の損が出ても、問題はない。きっとデリバティブ(金融派生商品)的な感覚で、損が無限に発生する泥沼の状況に追い込まれてしまったのではあるまいか。そんなことが、一瞬にして私の頭の中を駈け巡ったのである。

考えてみれば、相場に絶対はない。数年前アメリカのデリバティブの権威でノーベル経済学賞を受賞した学者の二人が起こしたロング・ターム・キャピタル・マネージメント(通称LTCM」という金融ベンチャーが、多額の負債を抱えて倒産した。要するに相場というものは、学問的な論理が通用しない魔界のような世界なのだ。

あたかもすれがグローバル経済の常識のように言われ、それをやらないような企業は、時代遅れのように言われる風潮が、数年前まで確かにあった。でも今よくよく考えてみれば、それはアメリカ的な経済論理であり、現実の30倍や40倍という膨大な仮想的な取引によって支えられている経済は、いつその仮想に膨らんだバブルが弾けても不思議がないほど脆弱な経済論理に過ぎなかった。

おそらく雪印食品の運用担当者は、ある程度の相場を知っていた人物かもしれない。捻りハチマキで、難しい数式の入ったデリバティブの教科書の数冊を読破したような自信家の風貌が頭に浮かぶ。相場は、自信家に任せるべきでない。という相場の格言をどっこでみたように気もするが、まあ予期せぬことが突如として起こるのが、世の中である。それが今回は、降って涌いたように出た「狂牛病騒動」だったのだろう。相場は一気に反転し、すべてのシナリオは一瞬に瓦解する・・・。こうして雪印食品は、底なし沼のような無限損失の相場の深層を垣間見てしまったのである。

この瞬間に、名門とか、社会の常識とか、心にあった倫理のタガは、バチンと外れてしまったのである。正常な感覚を持つ人間が非常識な行為に手を染める時には、必ずこのような何らかのきっかけがあるものであるが、雪印食品の場合は、相場への投機であったのであろう。

常識を疑えと言われる。今人が常識と思っているものには、必ず落とし穴がある。そろそろ懸命なる日本人は、グローバル化と美化されたアメリカ的なる経済論理に対して、少し斜に見、眉にツバを付けつつ判断すべき時ではないだろうか。ひとつ予言しておこう。日本人をすべて投機家に変えかねない日本版401kと言われるものに、懸命なる人は近づくべきでない。少なくても私は「クワバラ・クワバラ」と逃げ出す一人である。

追記、この文章は、必ずしも、雪印食品の詐欺疑惑の経過レポートしているものではない。推測に基づく寓話として考えていただければありがたい。佐藤
 

 


2002.2.1

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