
永福寺跡が早く整備されるのを待ちたい
文治五年(1189)夏、頼朝は、無血開城された平泉にやってきて、中尊寺の精神に触れ、盗み得ぬ精神というものを痛感した。この平泉の精神とは、仏教文化を背景として命を尊び、平和を守るという初代藤原清衡が「中尊寺供養願文」というものに結晶させた非戦の教えである。
事実、頼朝率いる鎌倉軍が平泉に入ると、中尊寺の経蔵別当心蓮(しんれん)という僧侶がやってきて、「中尊寺は鎮護国家のために建設された霊場ですから、今後とも衰退しないようにご配慮いただきたい」という趣旨の話をしていた。
頼朝は、直ちに心蓮に向かって、平泉という地にある中尊寺、毛越寺、無量光院など平泉にある寺社についての一切を報告するように命じ、その所領を安堵した。
おそらく頼朝は、平泉の精神に触れて、何かを感じ取ったのだろう。鎌倉に戻ると、永福寺建立を宣言(永福寺事始)した。吾妻鏡には、文治5年12月9日の条に、永福寺造営のことが記載されている。
「今日、永福寺の事始があった。これは奥州において泰衡が管理していった寺々を、(頼朝が)ご覧になって、鎌倉の地にも、華にも似た美しい寺を建てようと計画したものである。その本意は、第一に(この戦で亡くなった)数万の怨霊をなだめ、第二には、成仏できずいる御霊の苦しみを救うためである。平泉の堂塔が立ち並ぶ中に、二階大堂(大長寿院と号す)という御堂があった。これを模して建てようと思うので、これを二階堂と呼ぶことにした。」(現代語訳筆者)
何と、頼朝は、鎌倉に凱旋して、直ぐ平泉を巡覧した感動をことを「永福寺」というものに昇華させようとした。別の言葉で言えば、明らかに平泉で触れた平泉の精神とその結晶としての堂塔を、永福寺という寺院を通じて象徴的に鎌倉の地に遷そうと試みたことになる。
さらに好意的に解釈するならば、初代藤原清衡が残した「中尊寺供養願文」の精神にならい、戦争で亡くなった人々の御霊を敵味方の別なく平等に弔おうとしたのである。
この時の頼朝の心を推し量れば、自らが策謀の限りを尽くして滅ぼした平泉の文化の素晴らしさを認めつつ、それを継承することで、自らの行いを正統化しようとする思いと、もうひとつは、奥州合戦で亡くなった亡者の怨霊を祟りが起こらぬように鎮めようとする思いが複雑に交錯していることを感じる。
何故、そのように思ったかと言えば、実際、二階堂という地にある永福寺跡を廻った時の印象からである。はっきり言って、永福寺跡で、この区画が意図的に封印されたような印象を持った。何しろ、永福寺は、谷間のどん詰まりの一角にある。この用地は、何でも山を崩して谷を埋めて、造成されたものと言われる。おそらく、この用地は、陰陽師たちが、鎌倉の鶴岡八幡宮の鬼門の方角にある場所を、特別に選び、これを封印する形で、山と二階堂川などで結界し、怨霊がここから出て、鎌倉の地を荒らさないようにしたのではないだろうか。そんなことを、永福寺跡を散策しながら、強く感じた。
それでも頼朝にとって永福寺建立の構想は、平泉を越える文化を鎌倉に実現するという強い対抗意識から出たものに相違ない。
それは永福寺の寺院の構成から一目瞭然となる。この寺は、単に二階大堂を模しただけではなく、平泉文化のすべてを継承してしまうという意図が見えてくる。
寺院の構成から言えば、中央に本堂である二階堂、左に薬師堂、右に阿弥陀堂を配し、それぞれが平等院のように翼廊で結ばれている。その前には、池が掘られ、池には中央の二階堂に向かって、反橋が渡されていた。この配置は、平泉の二代基衡が建立した毛越寺と極めて似ている。但し毛越寺は、西向きだが、永福寺は東向きである。
この永福寺について、頼朝が平泉文化のすべてを継承しようとしたのではないかと思われる。その根拠は、まず二階堂が、清衡が建てた中尊寺(二階大堂)を象徴し、薬師堂が基衡の建てた毛越寺(本尊は薬師如来)を、阿弥陀堂が秀衡の建てた無量光院(本尊は阿弥陀如来)を象徴するのではと、考えたからである。
頼朝は、初代清衡、二代基衡、三代秀衡が、百年に渡って平泉の地に築いた文化をまとめて乗り越えてやろうとの思いを持ったのである。しかし残念ながら、頼朝のこの思いは鎌倉の二階堂という地に根付くことはなかった。応永12年(1405)12月17日昼前、「永福寺炎上」と「鎌倉大日記」に記されている。頼朝の寺とも言うべき大寺院「永福寺」は、頼朝が父義朝を弔うために建立した勝長寿院の廃寺同様、歴史の表舞台から消えてしまったのである。
永福寺を建立した頃の頼朝にとって、平家を倒し、奥州藤原氏を滅ぼし、自分に逆らうような対抗馬はいなくなっていた。ただひとつ怖ろしいのは、滅ぼされた亡者たちの怒りだったかもしれない。