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頼朝の死と怨霊

−歴史の真相というもの−


北條九代記という文書の中に、頼朝の不可解な死に対する記述がある。それは短いが実に奇怪な話だ。建久九年(1198)十二月二十七日、頼朝は、相模川にて、行われる橋供養に出かけのであった。この橋は、稲毛三郎というものが、建久六年七月に亡くなった妻の冥福を祈って造ったものとされる。亡くなった妻は、実は頼朝の妻政子の妹というから、頼朝にとっては、義理の妹にあたる。式はやがて滞りなく終了し、散会となる。

八的原(やまとはら)という差し掛かった所で、馬が俄に興奮しだし、ただならぬ気配が生じて、頼朝の頭上に義経主従と伯父源行家の亡霊が現れたのである。その亡霊たちは、ただじっと頼朝の顔を見据えていたということだ。頼朝は、その亡霊たちの姿を絶えがたい恐怖を感じ、汗を掻き身を縮めた。何とか持ちこたえて、先を急ぐと今度は稲村ヶ崎の辺りで、波間に十歳ばかりの童が現れて、じっと頼朝を見ている。幼くして壇ノ浦の藻くずと消えた安徳天皇の亡霊っだった。流石の頼朝も、心の平穏を保つことが叶わず、ついに気を失い、馬から落ちて倒れてしまった。

それからは、様々な加持祈祷が試みられた。しかし頼朝の容態は一向に良くならない。やがてこれまでと思った周囲は、年も明けた正治元年(1199)正月十一日に頼朝を出家させ、十三日に時の最高権力者は呆気なく身罷ったのであった。この時頼朝五十三歳、背筋が凍るような、しかも首を傾げたくなる怪しげな死である。。

人は頼朝の不可解な死を様々に噂しあった。俄に亡霊が現れたからといって、頼朝のような天下の武将が簡単に取り乱し、しかも馬から落ちて、死んだりするものだろうか。後に頼朝の死は、様々な噂が渦巻くことになる。

少し醒めた歴史眼で頼朝の死というものを考えてみよう。

仮に落馬による死が本当だったとする。そしてそのことを当時の鎌倉幕府というものと併せて考えると、頼朝の死が、幕府に与えたショックは、計り知れないようなものがあったとみるべきだ。おそらく頼朝の死は、鎌倉幕府の機能を一時的に停止状態とさせたことであろう。

歴史的に言って、独裁的な権力というものは、指導者の死を隠すような傾向がある。当時の鎌倉政権もやはり、出来上がったばかりの体制で、即座に後継者を考えられるような安定したものではなかった。それに何よりも頼朝自身、53歳という年齢で、頭領としては、働き盛りの年齢での突然死だったことが幕府にとっては寝耳に水の一大事だった。

現代の人間は、鎌倉政権と言うと、何かかっちりとした揺るぎない権力構造を単純に想像しがちだが、所詮は荘園経営でのし上がってきた土豪たちの集合である。別の言葉で言えば、鎌倉政権とは、源頼朝という貴種性の濃い人物を神輿に担いだ板東武者の権力なのである。それぞれの猛者たちは、かってにやれ平氏の末裔、源氏譜代の家臣などと言って、中央に繋がる血脈を誇示しているが、隙があれば、自分が権力を握って天下に号令したいという武者特有の粗野な気質が権力のそこかしこに渦巻いている。

その権力の脆弱性を証明したのが、頼朝の死という東国全体を内乱巻き込みかねない事件だったのである。次々と発表が遅れ、後手々々まわってしまったのは、頼朝の後継をめぐって、権力内部ですったもんだの大論争が連日連夜繰り広げられていた為であろう。ひとつ間違えば、幕府そのものが崩壊し、内戦に発展しかねない火種を抱えた論争だった。こうして巷では、頼朝の死に対して、様々な憶測や噂が飛び交うようになったのであろう。

人々は、幕府の動揺による沈黙にせき立てられるように、奇異な話を様々に考えたのであろう。罪あるなしに関わらず、権力を維持する為に非情を貫いた頼朝が殺害した御霊は数知れない程である。怨霊の100や200にまとわりつかれたって全然不思議はない。噂は伝説伝承の種のようなものだ。今でも、橋供養があった相模川(馬入川)の界隈(神奈川県茅ヶ崎市)では頼朝の死に関するこのような俗説が伝わっている。

頼朝が橋の渡り初めをした際に、乗っていた馬が当然暴れだして、頼朝を乗せたまま馬が川に落ちてしまって、それからこの辺りの川のことを馬入川と呼ぶようになったというのである。

ところで元久三年(1206)関白藤原家実(1179-1242)の日記(猪隈関白記:1197-1235)に、頼朝の死について、「飲水の重病によって、去る1月11日に出家し、13日に亡くなった」という記述がある。「飲水の病」というのは、古来より、水を欲しがる病ということで、糖尿病とされていて、今日ではこのような記述から、頼朝の死因は、「糖尿病」による死とする説が多く見受けられる。しかし常識で言えば、糖尿病で怖いのは合併症であり、頼朝のように、僅か発病から、17日ほどのスピードで、ころりと死んでしまうことは少しおかしいように思われる。と考えると、この飲水は水を大量に飲んだことによる溺れ事故の果ての死と考えられなくもない。要は、馬が先の稲毛某が造った橋がどのような形状かは知らないが、(浮き橋だったとの説もあり)、バランスを崩した馬が動揺し、川に落ちて、頼朝が相模川の水をしこたま飲んでしまったことだって考えられる。頼朝が、馬と一緒に川に落ちて、溺れて飲水したとなれば、これは武将としては滑稽を通り越して情けなくなるが、先の馬入川の俗説を考え併せると、まんざら嘘であるとも断じ難いのではないだろうか。

また式の帰途、鶴峰八幡宮付近(茅ヶ崎市浜之郷)にさしかかった時に、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、馬が暴れ出して棒立ちとなり、落馬をした頼朝が傷を負って、翌年死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるために、この場所に弁慶塚を造ったと伝えられている。

後者の話は、北條九代記の記述にそっくりであるが、そもそもこの「北條九代記」(成立年代作者不詳)は、正史の「吾妻鏡」や「保暦間記」などを種本として書かれており、北条家を好意的に描く傾向が強いから、巷間で広く流されている俗説を採って、怨霊で頼朝が死んだという方が、北條家に一番都合の良い文言の選択だったかもしれない。

頼朝の死をめぐるあらゆる歴史的な虚飾を取り払って、最後に残る真実というものがふたつだけある。ひとつは、建久九年(1198)十二月二十七日、相模川に新しく架かる橋供養に場において一人の権力者に死に至る何らかの変調があったこと。もう一つは、その変調の後、17日後の正治元年(1199)正月十三日に身罷ったことである。このことだけは誰が何と言おうと否定しえない真実である。

ところで、橋とは一体何を象徴するものだろう。橋は、双方の川を繋ぐ橋脚として、そこを往来しようとするものを、橋を隔てた向こう側に渡す役割を果たす。橋と橋で隔てられた世界は、所謂異界であり、その境を繋ぐものが橋なのだ。古来より、橋にはふたつの別の神々が棲む世界を繋ぐという道具であった。古来より、川には水神が棲み、橋には橋姫がいて、その辺りには境の明神など往来する人間どもの姿をじっと見守っているのである。それが橋にまつわる、日本人が心の奥底に持つ民俗的なイメージである。目に見えぬ神や妖怪、亡霊などありとあらゆる得体のしれぬものたちが集合し徘徊する所、それが橋に象徴されている。

人間は、イメージの力というものを持っている。少ない情報がひとつあり、そこにもうひとつの情報が入ると、人間はイメージの力を何気なく使って、そこに因果というものを適用させて、合理的な判断を加えようとする。たとえ、答が不合理なものであっても、イメージは、何らかの正当な理由を見つけて、その不合理な結論を合理と見なすこともなる。

例えばこうだ。
情報1、「頼朝が死んだとさ!」
イメージの力の作用1
「え、まさか、だって、頼朝はまだ若いはずだよ。病気だなんて、ちっとも聞いてないぞ。いったいどんな理由で死んだのだ」
情報2
「相模川の橋供養の帰り道だそうだ」
イメージの力2
「相模川の橋供養だって・・・確かあそこには水神様が祠があったはずだが・・・」

ここで「頼朝が死んだ」と「相模川の橋供養」を繋ぐのがイメージの力なのである。そしてそこにある種の因果を思考し、イメージの力はこのような推測を導き出す。

イメージの力3
「きっと、これはたたりだな。それも飛び切りのたたり。きっとそうだ。怨霊は、義経だ。」

こうして少ない情報は、民衆の噂として、人から人へと伝播し、さらに多くの人のイメージの力が介在して、増幅され、曲折をへて、大きな頼朝死亡の怨霊説として力を得るのである。

そしてこの怨霊説は、もうひとつ重要な頼朝死亡の真実を覆い隠すのに非常に都合の良い情報の操作ということが言えるだろう。権力に近づこうとする者は、古来より、権謀術数の重要な手段として、噂を広める冠者を放って、噂を自分で流したり、敵地で情報を攪乱したりした。「北條九代記」がどのような経緯で、出来上がったものかは、分からないが、ある勢力が、自分の陣営に有利に政情を導くために、この怨霊説を採ったことの名残が、ここにあることだけは否定できない。

もちろんこの怨霊説が、ある勢力(北條氏?)が、意識的に流したものか、都合良く民衆の噂に乗っかったものかは、今となって判断のしようはないが、もしも頼朝を暗殺することにあらかじめ計画したというのであれば、それは初めから練られていた噂であろうし、偶然の事故あるいは、急病による予期せぬ死であれば、後にその噂を利用して、権力の中枢にはい上がろうとした鎌倉武者の強欲な姿がそこには浮かぶのである。まあ、少なくてもこの「北條九代記」が、頼朝の死の真実を因果応報の世界に押し込める役割を担って書かれている可能性が高いことは否定できない事実である。つづく 佐藤
 

 


2002.2.14

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