中尊寺蓮


ー泰衡が蓮ー

(中尊寺蓮/2003.8.24/佐藤撮影)

 
 
 
今年も奥州で、中尊寺蓮が美しく咲いた。この華は、何故こんなにも観る者の気持ちを揺すぶるのか。ただ美しいからではない。美しい花ならもっと他にある。この蓮には、初代清衡から営々として受け継がれてきた恒久平和への祈りが込められているからだ。800年の深い眠りから覚醒した清衡の本意はこの花に秘せられている。じっと薫風に揺れる大輪の蓮を観ていると、どこからか蓮の声が聞こえてくる錯覚に囚われる・・・。

中尊寺には、皆金色(かいこんじき)と表現されるあの金色堂がある。しかし以外に金色堂造営の意味を知る人は少ない。金色堂は、天治元年(1124)頃、初代清衡によって、戦乱の続いた奥州の地に平和の楽土を出現せしめるという強い意志によって造られたお堂である。その金色堂は見事にデフォルメされた黄金の蓮の形状をしている。初代清衡は、関山中尊寺の西方に極楽浄土に咲く華として金色堂を造営した。蓮の中央にはやがて新たな種子となる花芯がある。清衡は己の遺骸を永遠に朽ちない種子となるべく細工を凝らした。中尊寺供養願文に、金色堂の記述がないのは、この金色堂こそが秘すべき華として最初から想定されていたからからかもしれない。

中尊寺蓮は、この金色堂に納められた泰衡の首桶から発見された数個の蓮の種子が、数年前に八百年もの深い眠りから醒めたものだが、まさに生ける宝石がごとき見事な華だ。泰衡は父藤原秀衡の急逝を受け、いきなり奥州の御館(みたち)の立場となった。調略に長けた頼朝にとって、泰衡を退けることなど赤児の手をひねるようなものだった。散々頼朝は、泰衡を飴とムチで揺さぶった。そして奥州の心は分裂し、泰衡は、ついに何よりも頼りにすべき義経を、衣川の館に急襲し、自害に追い遣った。泰衡は義経の首を差し出すことによって、清衡の築いた奥州の楽土の平和を保てると思った。もちろん浅知恵だった。そんなことで黄金の都市平泉を諦める頼朝ではない。

秀衡を失い義経を失った時、奥州滅亡の歴史はほとんど決まってしまった。敗北は一瞬で訪れた。敗れ去った時、奥州の人々は、無惨に晒し首となった若き主の首をかき抱きながら、どうにかこの泰衡の御霊を極楽浄土に送ろうとした。幸い中尊寺は、清衡の深謀遠慮によって御願寺(ごがんじ:白河院のために清衡が造った寺)として存在した。たとえ頼朝でも、中尊寺には、容易に手が出せない。奥州の人々は、散々に傷つけられた泰衡の首を整え、弟忠衡の首と偽って、父秀衡の棺の中に、その首を納めたのである。そして首の入れた桶の中には、奥州の夏を彩っていた大輪の古代蓮がそっと添えられた。文治五年の暑い夏(1189)の日に、奥州平泉は泰衡とともに滅び去ってしまった。しかし中尊寺金色堂は、永遠に朽ちない黄金の蓮として奥州平泉の地に遺ったのである。 

八百年の長き眠りを目覚めれば夏の嵐も蓮心地良き


2003/8/ Hsato

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