山形隆昭先生を追悼する 


 
わが恩師山形隆昭先生を送る

誠に非礼極まりないことであるが、初七日も随分過ぎて、あるインターネットの掲示板で、高校の恩師である山形隆昭先生の急逝を知った。

「七月十二日に山形隆昭先生が亡くなった」
目を疑った。本当に山形先生か。まさか・・・。その人の所には、亡くなった十二日にこんな文面の葉書が着いたと云う。
「これからは悠々自適で晴耕雨読の世界を目指したい」
それが先生の別れの言葉だった。

私は高校卒業後、お会いしていないので、もちろん葉書など来るはずはない。信じられなかったので、山形先生と親交の続いている後輩に電話をすると、「最 近、先生の夢を何度か見たんです。そうですか。知らなかった」と絶句した挙げ句、受話器の向こうで大泣きに泣いて、「また後で電話します」と切ってしまっ た。
気持ちは同じだ。何と人の命は儚いものか。

山形先生は、高校時代の世界史の先生だった。飄々とした感じの人物で、まず授業を始めると、大学ノートにぎっしり書き込まれた自身の文字を、黒板に一字一 句疎かにすることなく左から右へとびっしりと書き込んでゆく。我々は、ただ無言のまま、その字句を、自分のノートに書き取って行くのが精一杯だ。

いつしか黒板一杯になると、講義が始まる。時には、一回では書き足らず、「おいみんな書いたか?これ消すぞ、」と言って別の字句を次々と書いて行くような 実に生真面目な印象の先生だった。

当時、先生は、学校でも一番若い先生で、まだ独身であった。24歳か25歳位ではなかったか。私は築館高校の日進寮に入っていて、先生はそこの寮管を務め て居られた。流石に世界史の先生だけあって、ヒトラーやエバ・ブラウンの写真集やユダヤ人の虐殺の写真集などを持って居られて、ナチズムや人間の残虐性に ついての話を聞きながら、興味深く蔵書を見せていただいた。またキューバの革命家ゲバラの写真集や、当時の学園紛争の写真なども、本棚にはぎっしりと積ま れていた。あの頃の何気ない会話がしみじみと思い出される。若き時期に、このような先生と膝をつき合わせていられたことは、人間として本当に幸運だった。

もう時効だから、白状してしまえば、寮では結構砕けたところもあって、「おい弘弥、これ呑むか」と、角瓶を少しばかりグラスに注いで呑ませてくれたことも あった。すると先生は、とっておきのレコードを出してきて、ペレスプラード楽団のあの名曲「マンボNO5」や盲目の黒人歌手レイ・チャールズの「わが心の ジョージア」(ジョージア・オン・マイ・マインド)をしみじみと聴いて、「弘弥、どうだ。いいだろう」と云うのであった。

山形先生は、名門仙台二高を出られて、東北大学を卒業後、宮城県北部の県立築館高校の教師として赴任した。その後は、文字通りの宮城県教育界のエリート コースを歩まれ、最年少で鶯沢工業高校の校長に昇格された。更には教育政策の柔軟性を買われ宮城県の教育委員会に転出され、文字通り難問山積の宮城教育界 のリーダーのひとりになられた。平成十年よりは、県教育委員会の指導課長を経て、仙台八木山にある向山高校の校長職に就かれた。おそらく先生には定年退職 前の最後の奉公先として、現場へ復帰したいとの強い思いがあったのだろう。

そしてこの春、五年間勤め上げた向山高校校長の職を辞された。先生は、退職後の公職就任の誘いをお断りになり、私立の東北生活文化大学高等学校(旧三島学 園)に、一人の教諭として教壇に立つ道を選ばれた。そこで若い人たちに世界史と日本史を講義しながら、悠々自適の学究生活に入ろうとした。実に先生らしい 決断だった。長い間苦労を共にした奥様と共に晴耕雨読の生活を満喫しようとされたのかもしれない。

これまでは、県の教育界のリーダーとして、ご自身の歴史観を押さえて発言されていたはずだ。公職を離れたことで、自分の価値観で、現代の日本の状況につい て発言なされような気持ちもお有りだったと思う。

そんな矢先の去る二〇〇三年七月一二日(土)午前二時頃、山形隆昭先生は、仙台の自宅にて急逝された。享年六十歳。余りにも早い旅立ちである。その日は、 午後四時から、先生の退職を祝し、「山形隆昭先生を囲む会」が開催されることになっていた。先生は久々に会う同僚や後輩たちとの再会を楽しみにしていた。 明日の挨拶の言葉も書き終え、就寝前の入浴中に悲劇は起きた。胸を押さえて倒れた先生は救急車で運ばれたが、帰らぬ人となった。こうして私たちは、かけが えのないひとつの大きな星を失った…。

「山形先生。いったいどうされたのですか。別れの言葉もなく、逝ってしまうとは。遺された者は、あなたの突然の旅立ちに暗い空を見上げて、ただ呆然と立ち つくすばかりで す…。」

山形先生より高校時代に、二冊のガリ版刷りの箴言集を戴いた。ひとつは黒の装丁で、タイトルは「備忘録」だったと思う。おそらく実家のどこかに埋もれてい るはずだ。今その中の言葉が妙に懐かしく思い出される。そこには確かこんな言葉が書かれていた。

「別れの言葉はさりげなく。後の真の出会いのために」山形隆昭

実に心に響く良い言葉ではないか。誠に先生らしい言葉だ。さり気ないからこそ、その人の面影は、強く人の心に刻まれるのである。十八歳で、高校を卒業して お会いしない親不孝ならぬ恩師不孝の私であるが、先生からお教えいただいた人としての「さり気のない温かさ」と学としての「中庸なる歴史観」を心に深く刻 んで生ある限り励みたいと思う。山形先生ありがとう。そしてさようなら。どうぞ安らかにお眠りください。
二〇〇三年七月三十日
東京在住 佐藤弘弥

 
  恩師山形隆昭先生の御霊に捧げる三十一首

遠き日に「別れの言葉はさり気なく」と云ひし山形先生逝く
遠き日の箴言集を見つければ黄ばみし紙に亡き師はお座す
師 の急逝伝へし友は携帯の向こうで「まさか」と絶句して泣く
分厚くて牛乳瓶の底の如き眼鏡を掛けし師六十 で逝く
「角瓶を飲むか」と吾に今だから云へる亡き師の新任時代
酒 酌めば「マンボNO5」など聴いて悦入る師も憎めなき
大好きなレイ・チャールズの渋き歌聴く度「いいな」と師呟けり
世 界史の授業の時は黒板にとにかく字を書く教師で在りし
ヒトラーやユダヤ虐殺ゲバラなど歴史写真を見し師の部屋で
必ずや物わかり良き人でなく師は兄貴分若き我らの
肝臓を患ふ師のこと聞きながら仙台までも行けぬ我なり
晩年は現場に戻り校長を務めしことも先生らしき
思い出をかくかくしかじか振り返り山形先生弔ひて呑む
悲しけれ「晴耕雨読の生活を目指す」と記す文絶筆に
誰知ろう苦労を掛けし奥様を残し旅立つ師の悔しさを
百歳も珍しくなき平成に享年六十余りに若し
在りし日の師の笑顔ふと向山高校紹介画面に見つく
卒業し会はぬ師なれど心には師の教ゑ在り昴(すばる)のごとき
飄 々と教師三昧貫ぬける師の人生は美しかりし
中 庸と時代精神在りしこと教えてくれし師に感謝せむ
安らかにお眠りください遠くから山形隆昭先生を送る
一生を人を創るに捧げたる師の生き様に拍手を送る
母も師も共に亡くして呆然と野辺の彼方の栗駒山見る
思い出は何でもかんでも集めむと師の講義録ノオトを探す
肴(ネタ)活かす江戸前鮨の山葵ごと言葉厳しき師でも在りにし
今頃は浄土の子らを集め師は平和の尊さ説いているかも
気が付けば四十九日の旅も終ゑ今し我が師は何処に居られる
遠き日の師の思い出を偲びつつ四十九日の今日を迎ふる
師逝きて四十九日の今日の日に童話を記して御霊に捧ぐ
古寺に咲く大輪の蓮を捧げむと四十九日の朝日に祈る
地震在り山背吹き荒れこの夏に師は逝き給ふ二〇〇三年


 


2003.7.30
2003.8.27 Hsato 

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