義経公と共に高館で亡くなった女性についての一考察 

−平泉千手院に眠る妻とは誰か?!−

毛越寺配下の千手院は、金鶏山の麓にある。ご本尊は、千手観音で、不動明王も祭られていると聞く。元々同院は、藤原三代公の位牌堂であった。昔、金鶏山の中腹に義経公の妻子の五輪塔があったと言われていたが、現在は、この御堂に向かって左手の奥に移されている。歴史から見て、これまで義経公には、つねにスポットが当てられてきたが、どうしてもこの千手院に眠る義経公の妻子の存在は、忘れ去られている感じが強い。

さてこの義経公の妻子の存在の件だが、妻が一体誰だったのか、今もってはっきりしていない。一説では、頼朝公の命によって、正妻となった河越太郎重?の娘とする説。(吾妻鏡)大納言平時忠の娘とする説。(源平盛衰記)。久我大臣殿の姫君(義経記)。というような説があるが、いずれも決定的な説ではなく事の真相は、不明なままだ。もちろんこの中で、久我の大臣は、平忠時の娘という解釈が有力だから、実質は二人と見ていい。

私は、この二人のうちのどっちという二者択一は採らない。そもそも二人とも、義経公が、頼朝公によって、反逆者の汚名を着せられた時点で、京都にいた女性であり、最愛の女性(?)静御前が、吉野の山中に置き去りにされるような中で、きっとこの二人には、監視の目が光っていたはずであり、その中を逃亡者一行としての義経主従に混じって、真冬の山中を、奥州に逃げ延びて行けるとはどうしても思えない。したがって私は、この高館で義経公と共に亡くなったという妻子は、別の人物を想定しなければ、合理的な説明が出来ないと考えるのである。

福島県の飯坂にかつての奥州藤原氏の重鎮と目される佐藤基治の居城大鳥城跡がある。この地は白河の関から入ると、第一の要衝の地である。佐藤氏は平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の後胤であり、その意味では奥州藤原氏とは縁戚関係にある。基治は温泉があることから湯の庄司と言われ、この飯坂に居城を構え、奥州の南を固めていた。この基治の妻も、奥州藤原氏から嫁いでおり、血脈を通じた強い結びつきを持っていたと考えられる。

義経公が、奥州から打倒平氏で立ち上がった兄頼朝のもとに馳せ参じる時に真っ先に付き従ったのは、この佐藤基治の息子の継信と忠信の兄弟とその郎等たちであった。基治には、その他に娘がいたが、彼女は奥州の覇者と言われた藤原秀衡の三男泉三郎忠衡のもとに嫁いでいる。その為かどうかは不明だが、最後の最後まで、父秀衡の遺言を守り、義経公を擁護し、ついにはそのために泰衡に首を取られてしまった。

ところで、義経公が、奥州に来て、以外に知られていないのは、妻帯していたと思われることだ。その根拠は、後に義経公と盟友関係になる伊豆有綱(源姓)という人物が登場するのだが、吾妻鏡の注意書きにはっきりと、「義経のムコ」と記されていることだ。つまり鎌倉にやって来たときにはすでにある程度の年齢のいった姫を設けていたことになる。その第一の候補が、この佐藤基治の娘である。つまり基治にとっては、義経公は、義父という関係にあたり、自分の大切な二人の息子(継信・忠信)を、義経公に惜しみなく同道させている理由は、そんな所に伺えるのである。

飯坂には口承だが、義経公に纏わる伝説が数多く残っている。佐藤氏の菩提寺である飯坂の医王寺には、様々な義経公の遺品と目される太刀や鞍などの宝物が残っているが、その中でも、屋島の戦いで、倒れた継信の命を奪った矢先が遺っているのには驚かされる。この寺を訪れた松尾芭蕉も、継信忠信の妻たちが、母である基治の妻の悲しみを癒すために、遺品の甲冑に身に付けたことに感動して、「笈も太刀も五月に飾れかみのぼり」という句を遺しているほどだ。

そのような訳で、これまで、これまで義経公の妻と言えば、まず河越太郎重?の娘か平時忠の娘という固定観念があったが、それに私はもう一人の正妻、敢えて奥州の妻と言う表現を使っても良いと思うが、佐藤基治の娘を仮説として挙げて起きたい。

義経記などでは、あたかも妊娠していた久我の大臣の娘が、稚児の恰好をして、雪の北陸道を山越えして、歩いたとされるが、どのように考えても、都育ちの姫君が、真冬の山越えなど出来るはずもなく、物語を読んだり聞いたりする者の興味をそそるための虚構と考える方が自然である。ましてや、冒頭にも書いたが、旅慣れたはずの白拍子の静だって、同行はとても無理ということで、吉野山に残された位なのだ。

と考えれば、やはり奥州に、もう一人の妻がいて、この女性の出自は、佐藤基治の娘である可能性が高いと思われるがどうであろう。佐藤

 


2001.7.26

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