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「判官びいき」を考える



判官びいきという言葉がある。衆知のように夭折した源義経を自然にかばう日本人特有の心情である。確かに日本人は、義経のように悲劇性をはらんだ人物に強く惹かれる傾向がある。

私自身、スポーツを観ていても、いつの間にか弱い者を応援している自分に気付くことがある。この「判官びいき」を、もう少し厳密に定義すれば、本来才能があり余るほどありながら、その才能が開花しないままに終わってしまったような人物を、自然にかばってしまう日本人特有の優しい心情とでも言えるだろうか。

広辞苑には「源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて弱者に対する第三者の同情やひいき」とある。まさに判官びいきは、日本人の心の中にある優しい心情であり、一種の美意識といっても過言ではない。

判官びいきをされる人間というものは、日本の歴史の中でも、ほんの数人しかいない。弱いからすぐ日本人がその人物をヒーローに祭り上げるかというとそうでもない。義経の他には、父景行天皇の命ずるままに、日本中を戦(いくさ)して歩いた悲劇の王子ヤマトタケルなども、それに近い人物の一人だ。

このように考えていくと判官びいきの人物が現れるには、あるいくつかの条件があるような気がしてくる。まず何と言っても第一は悲劇性である。悲劇性こそ判官びいき発生の前提となる。次にはある分野で特に優れた才能を発揮する人物であること。第三には、育ちの良さというか、天皇の息子であるとか、源氏の御曹司と呼ばれるような人物であること。第四には、夭折した人物であること。そして第五に、どこかに精神的な弱さを漂わせる人物であること。第六には義経に対する兄頼朝のように強力なライバルが存在する人物であること。そして最後の第七の条件とは、生き様のかっこいい人物であることだ。

この条件で考えると、織田信長は、歳を取りすぎであると同時に信長以上に強力な人物が見あたらないこと。また坂本龍馬は、育ちが悪すぎである。したがって、判官びいきと言っても厳密に考えればこのようにほとんど判官びいきされる人などいないというのが現状だ。日本で判官びいきに真に言えるのは、やはり源義経をおいてはない。それが結論である。

佐藤
 

 


1999/6/28

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