引退若乃花にあえて苦言

名横綱初代「若乃花」こと花田幹士の精神


春場所五日目(2000.3.16)に、黒星を喫した三代目若乃花が引退した。まだ29才なのに彼は、相撲界では、早くも「年寄り」と言われるようになる。

私はあえてこの若「年寄り」にこう言いたい。
「若乃花よ。貴方は何を受け継ぎ、後世に伝えて行こうというのか」と。こういってはなんだが、三代目は、初代若乃花(第45代横綱)と比べた場合、実にひ弱な花でしかなかった。

初代若乃花こと花田幹士は、昭和三年に青森県の弘前に生まれた。しかし18才で実家が破産し、持ち前の腕力を生かし一家を支えるために、昭和21年に相撲界に入門した。しかし全国の力自慢と大男が集まる中で、100キロにも満たない東北の片田舎の少年が出世する道は容易ではなかった。同門の兄弟子にはあの戦後のヒーローとなる力道山などがおり、己の無力を実感したと後の自伝で述懐している。しかし彼には並々ならぬ決意と覚悟があった。どんなことがあっても、自分を生かし、一家を立て直すにはこれしかないという信念のようなものだ。

彼は苦労をしながら、「土俵には宝が埋まっている」というプラス思考で、昭和33年初土俵から12年という長時間をかけて29才で相撲界の最高位である横綱に登り詰めるのであった。つまり今の若乃花が引退する29才ではじめて、初代若乃花は、輝く時を迎えたことになる。まさに初代若乃花は、まさに大器晩成型の不屈の力士だった。

初代若乃花が、己の意地と努力で切り開いたことによって花田家にも春がやってきた。弟もやがて兄の後を追うように相撲界に入門し、名大関と呼ばれるようになった。ひとつの流れが、二つになり花田家は、相撲界においてエリート一家と呼ばれるまでになる。初代若乃花は、34才(昭和三七年五月)で引退すると、年寄り「二子山」を名乗り二子山部屋を起こした。その後、彼は好敵手であった栃錦の時津風理事長の跡を受けて日本相撲協会の理事長の座についたのである。また理事長を二期4年(?)であっさり後進に譲ると、相撲の歴史を探るために、相撲協会の相撲博物館館長となり、相撲のルーツを探るためにモンゴルや中国を精力的に回って、相撲文化の収集に尽力をした。

その頃になると、二子山の精神を継承した弟子たちによって、角界で一番稽古をしているのは、「二子山部屋」と「藤島部屋」(弟貴乃花こと藤島親方が開いた部屋)だ、ということがまことしやかに囁かれるようになった。その猛練習の成果もあって、次々と角界の上位陣を支える力士をこの二つの部屋が排出し、並ぶ者なき二子山一門(後に定年初代若乃花が定年退職し二子山と藤島部屋は合併した)ということになり、まさに花田家にとって、我が世の春の絶頂期を迎えたようであった。その中には、弟藤島親方の二人の息子、現在の横綱若乃花と貴乃花もいた。

しかし私はいつもこの花田家に、危うい運命の糸のようなものを感じていた。それは初代若乃花の精神が本当に、受け継がれているかという一種の漠然とした不安である。つまり現在の若乃花も貴乃花も所詮は、何不自由なく常に親の暖かい愛の中で育ったいわば箱庭の花なのだ。二人の相撲界エリートは、弟が中学を卒業すると同時に阿佐ヶ谷の藤島部屋の四階から三階に移り、親子の縁を切って、師弟関係になったということである。しかし勝負の世界のことで言えば、これは茶番だ。ただ四階が三階に移り、パパやママが、師匠と女将さんになっただけのことだ。どう考えたって、依然として、誰よりもその子たち愛しいと思う親の愛に包まれているではないか。これは明らかに、初代若乃花の観念とは、異質のものに過ぎないのだ。

おそらく若貴兄弟とて人一倍努力のしただろうし、悩みもしているはずだ。しかし初代若乃花の精神性と若貴では、厳しさが違うのである。時代は違うと言ったらそれまでだが、彼ら二人が、相撲界の女将さんとして首をかしげたくなる女性と恋愛結婚をした時も、ある種の危うさを感じてしまった。それが純粋培養故の悲しさなのだろうか。世間の注目を一身に浴びてきた人間と、田舎から雑草のように生きることを強いられた人間の違いかもしれない。

現在相撲界には様々な問題が指摘され、その抜本的改革の声が一部でまき起こっいる。それはとりもなおさず、相撲文化の精神性をもう一度見直し、その真なるものを継承発展させて行くことが問われているのだ。そのためには何が真で、何が真でないかを見極めることが先決だ。あえておそらくこれからの相撲界を先導するはずの年寄り「若乃花」に苦言ならぬ助言を呈しておこう。

「花田家の家運は、再び衰運に変化した。極寒に向かう秋の気配だ。衰運を幸運に変化するための鍵は花田幹士の精神を思い起こす以外にない」と。佐藤

 


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2000.3.17