和歌の本質を問う


 
和歌というものは、雅な感性から来る・・・。

そのようなことを云う歌人岡井隆氏の話を聞きながら、「そうかなあ・・・?」という漠然たる思いが湧いてきた。それからというもの「歌の本質は雅か?」ということを心の奥でずっと考えるようになった。いったい何をさして「雅」ということを云うのか?

周知のように岡井氏は、宮中恒例の歌会始の選者も務めるような当代一級の現代歌人である。その先生がそう云うのだから、嘘はなかろうとも思うが、歌の本質が雅と云われた日には、田舎生まれの者はどうしていいか分からないようなつまらない気持になる。貧乏人や田舎者は歌なんて止めろと云うのか、ということはなかろうが、雅と頭から規定されると、歌というものが、実に小さく小さく箱庭の如き世界に収まってしまいかねないような錯覚にさえ捕らわれてくるのである。

もちろん氏は、雅な心をもって歌を詠めということを云っているのであろうが、どうも違うような気がして気が収まらないのである。そこで雅ということの語源を辿ってみると、やはりそこには「宮」が来て、天皇の居る都ということに収まることに気が付いた。もしも和歌が雅な心で詠むのであれば、どうしてもそれは都人の感覚で詠む。そして天皇の住む都の心をもって詠むという究極に辿り着いてしまうのである。

さて和歌の始まりは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治し出雲に宮造りをして、『八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を』と詠んだのが最初とされる。確かに都を造ってそれが歌の始まりでそれが雅と結びつくのは分かる。しかしこのスサノオノミコトの歌が雅かというと少しも雅な感覚はない。むしろ音による語呂合わせのようなものであり、みんながこの歌を歌いながら、舞でも舞っていたような躍動感のようなものを感じてしまうのである。

もちろんその後、和歌は、万葉集として、天皇やその周辺の貴族たちだけのものから、防人(さきもり)と云われた兵士の故郷に残した妻子への郷愁の歌や、東歌のように関東の庶民たちの生き生きとした生活の歌までが登場するようになって、その裾野が広がって行ったのである。そうなると歌というものは単に「雅」という心をもって詠まれるようなものではなく、もっと大らかで自由で、日本人の豊かで瑞々しい感性の発露となっていることは誰の目にも明らかである。

確かに古今集や新古今集の時代になると、むしろ庶民の歌は影を潜め、宮廷に参内するプロ家した歌人たちの独壇場となっていき、「雅」な心に収れんして行くような錯覚を覚えないでもないが、やはりそこにも能因法師や西行法師のような「雅」とは正反対の「放浪」や「漂泊」をテーマと決めて、ひときわ鄙びた田舎の風景を愛し、また己が年老いて朽ち果てていく様を飄々と歌にしているのである。彼らの歌には、むしろ「雅」とは対極にある「鄙び」の心が根底にはある。

俊成や定家親子のような歌の家が出来るに当たって、「雅」の歌は定着していくのであるが、しかし依然として和歌の本質が雅で統一されているとは思えない。俊成や定家の歌は、「雅」で「巧み」ではあるかもしれないが、厳しい放浪の旅の中で詠まれた西行の歌と比べると、極めてテーマにアプローチをするときに実感の乏しい歌になっていることが多い。

旨い歌は、必ずしも人の感動を呼ぶものではない。むしろテクニックとしては稚拙な歌だとしても、人の心を打つのは、実感のこもった歌である。その意味で、西行は都生まれではあるが、「雅」な心ではなく、明らかに「鄙び」な心をもって歌を詠む歌人である。そしてけっして西行の歌は、うまく詠もうとしている歌では決してない。むしろ西行は歌人としてはアマチュアリズムを貫いたた人である。だからこそ鎌倉において源頼朝に「歌の道」を聞かれた時には、ただ一言分からない。思ったように詠んでいるだけとしか答えなかった。それに対して、歌論書のようなものを書き下ろした藤原俊成・定家親子の方は完全なプロである。

そのアマチュアの西行やプロの俊成・定家らの歌が、渾然となり、歌集「新古今和歌集」を構成する時、和歌というものの本質が見事に浮き出てくるのである。つまり歌には「雅」な心を旨として詠う歌と「鄙び」な心をもって詠う歌との渾然一体となって歌の宇宙を構成していたことになる。しかもその「雅」?「鄙び」の対立構造が、万葉の時代から今日まで続いていることは明らかである。その意味で、今や岡井隆氏という現代の優れた歌人は、雅を旨として、作歌をする人であって、俊成・定家のような流れを汲もうとする歌人ということになるであろう。そしてその対極には鄙びを己の作歌の魂として詠む歌人がいることもまた事実なのである。

雅と鄙びが微妙なバランスを保って陰翳をつくり出す和歌という文芸は、日本文化の中に咲く一片の華の如きものである。歌を華と表するとき、その華の奥には、歌の種になるものが眠っている。今風の言葉で云えば、DNAということになろうか。そこには「雅」とそれに対する形で「鄙び」というものがDNAの二重螺旋を構成している。和歌とはこのように一様なものではない。多元的な様々の要素が入り交じり、折り重なって、日本文化という美なる庭先に和歌という華は咲いている。

考えて考えて、三週間が過ぎた。そして自分の中でこのような答えを出した次第である。

「歌は「雅」一辺倒の文芸にあらず。「雅」「鄙び」の心を種子として結実する美しき言ノ葉の華である。」佐藤

和歌とはなみやびひなびの心もてあや織りなせる言の葉の華

 


2002.9.20
2002.10.4
 

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