和の不思議

日本文化と和について

 
1.和の神髄】
和という言葉がある。音読みでは「ワ」。訓読みでは「なご」む、「やわ」らぐ、となる。和の本来の意味は、ふたつ以上の違ったものが、仲良く調和し、程良い状態になることを云う。そこから一転して、和を以てヤマトすなわち日本を意味することとなる。和の国が日本なのである。

多くの日本人は「和」という言葉をさして聖徳太子の17条のの冒頭の言葉「和を以て貴し…」と思いこんでいる節がある。ところがこれはれっきとした論語の中の孔子の言葉である。

すなわち論語一巻の一三段に、
有子が言われた。礼で大事なことは、和を貴ぶことです。(有子曰、礼之用和為貴)」とある。

更に論語から「和」について抜き出し、孔子の「和」の真意に迫ってみよう。
すると七巻の二三段に、
君子は和して、同せず、小人は同じて和せず(君子和而不同、小人同而不和)」とある。

これによれば「孔子」は、どうやら「和」と「同」を区別して考えているようだ。つまり孔子における「和」は相手に簡単に合わせて調和する事ではなく、相手をよく理解し、互いの相違を認め合った上で調和することである。それに対して「同」とは文字道理相手に容易に同意することである。

このような「和」に対する孔子の考え方は、次の二四段にもよく現れている。

孔子は「土地の人が皆好むということは十分ではない。土地の人の善者が好み、そうでないものはこれを悪(にく)むというのには及ばない」と、言っている。このように孔子における「和」の原理というものは、反対する者があって、はじめて機能する言葉と解することができる。どうやら孔子は言葉は違うが、民主主義の原理を二千五百年前に説いていたようである。

民主主義で大事なことは、反対意見を大事にすることだが、この孔子の民主主義の原理を、聖徳太子は、国を治める第一の原理として持ってきた人物だった。しかも政治家聖徳太子は、こと外交における「和」についても、安易に他の国や人に合わせることではないと、孔子の思想の神髄を明確に理解し意識して使っていた。

そのことを示す行為があの、随の天子に書いた文書「日出る国の天子、日没する国の…」の冒頭の箇所である。これによって時の随の王は激怒したらしいが、それが政治における「和」というものであろう。当時で言えば、隋は世界に冠たる大国であり、日本はようやく律令制度を敷いてこれから国を強くしていこうという状況だった。しかし太子はこれに少しもひるまず、外交の鉄則である、「和」心意気で渡り合ったのである。すなわちそれこそが「孔子」の政治処世哲学でもある「和」の精神の聖徳太子的受容であったのだ。

しかし今日、日本人の多くは、このようなものとして「和」を考えている人は少ない。最近の日本人は、特に相手と真に「和」する努力をしなくなったきらいがある。アメリカはおろか、北朝鮮や他のアジア諸国にまで、「和」の外交ではなく、「同」の外交が続けられている。

こんなことを覚えている人はいるであろうか。第二次大戦後、日本と中国は長く外交関係を結ばなかった。そこで登場した総理大臣田中角栄は、ひとり中国に渡って、外交の天才と目されていた周恩来と丁々発止のやりとりをした。なかなか合意地点が見つからなかったが、何とか「よし」それでは日中友好条約を結びましょうということになった。その時、中国のカリスマ的指導者毛沢東が一言、「喧嘩は終わりましたか」と言ってニコニコした。それで全ては終わった。対立していた二つのアジアの大国は友達となったのである。これが「和」の神髄である。

【2.和の歴史】
最近は、日本人がおとなしくなって、論争というものも少なくなった。NHKが毎年おこなっている成人式の「青年の主張」にモンゴルから留学している高校生がこんなことを言っていた。「モンゴルにいた時は、友達と色々なことで論争などをしたものですが、日本にきてから、そんなことが全くなくなってしまった」と日本の若者の現状を一種皮肉を込めて話していた。本当にこれで良いのか、と結んだ。言われる通りではあるまいか。

考えてみれば日本という国は、古代から、ことごとく「和」の精神からはずれた、「和合」の歴史を積み重ねてきた。逆らえば。武力による威嚇で国盗りが横行、とくに九州の隼人や東北の蝦夷(えみし)と言われた人々は、祭ろわぬ民として、武力によって征服された民であった。また「和の国」の強引な「和」の論理に「同」じざるを得なかった出雲の出雲族は、大きな社を与えられて、「国譲り」等と称する儀式によって、「和」という国の一翼をになって、日本列島の部族を集合し、日本という国家を形成の一翼を担っていくような民も現れたのである。

【和と宗教】
征服者が初めに手を付ける事と云えば、世界中どこでも同じで、宗教から手を付ける。つまり同じ神仏を、信じ込ませ、神社仏閣を創建するのである。時には以前祭ろわぬ者たちが信じていたはずの神殿を打ち壊して、そこに征夷たちの信じる神々を祭ったりもする。

しかしそこには当然の如く祟りということが発生する。そこで祟っている怨霊を鎮める専門家が登場する。古代の日本でも、怨霊を鎮めることは、先端の秘法だった。盛んに中国から怨霊鎮めの秘法を持ち帰っては、日本中の怨霊を鎮めにかかった。真言密教の空海や天台宗の祖最澄もそんな怨霊鎮めを盛んにやって、時の権力に媚びて大寺院を建てた男たちである。今小説などで話題になっている安倍清明のような陰陽師(おんみょうじ)もそんな人間のひとりである。

初め和の国(古代日本)の宗教は、神道であったが、近代宗教としての仏教が中国からもたらされると、それが古い宗教である神道を圧倒するようになった。その力の源泉は、やはり加持祈祷であり、後に弘法大師として宗教界のカリスマとなる空海はそんな新宗教の代表的人物である。

するとどうしたことか、神道はあっさりと仏教の力の前になびいて和(わ)してしまった。いわゆる神仏習合である。これも和の国ならでわの実に不思議な形だ。つまり神道時代の神様たちが、次々と仏教の仏の姿として合わさっていくのである。はっきり言えばこれは体のいい屈服である。因みに天照大神は、真言密教の中心である大日如来ということにすり替わってしまうのである。そのことで、神と仏はひとつとなり、古い神様はそのままで仏教も受け入れてしまうのである。だから現在でも日本中の家には、たいてい神棚と仏壇というものがある。

実に不思議な事である。もしもユダヤ人であれば、ヤハウの神以外は絶対に認めない。それも極端だと思うが、言葉は悪いが、どんな神や仏も手当たり次第に和して信じてしまうこの和の国の精神風土は本当にこれで良いのだろうか。確かに仏教の根本精神は、違った価値観を容認する寛容の精神つまり和(仏教的に云えば中道となる?)の心なるのかもしれない。でもちょっと間違えば、何でも容認してしまうポリシーのない国とも誤解されかねないと思うが、いかがだろう。佐藤
 


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2000.01.25