平泉は何故美しいのか?!

ギリシャのパルテノンにがっかりした事

今日は、平泉が何故美しいのかということを考えてみたいと思います。平泉は何故美しいのでしょう。そのことを考える前に、ギリシャに行った時の印象を書きます。もちろんギリシャは世界遺産にも登録されているあの歴史都市です。でも現実はひどいものでした。観光という名の景観破壊が進み、見た人を感動させるものが欠けているように思えたのです。これは平泉にとっても大変大事なことだと思います。

私は、ギリシャへ行って、パルテノンのあるアクロポリスの丘に登った時、少しも美を感じませんでした。そこにあるのは巨大な大理石のモニュメントであり、世界遺産に登録されてはいるものの、何か違和感がありました。何故、私はパルテノンに美を感じないのか。そのことをずっと考え続けていましたが、少ししてその理由が分かりました。それはギリシャ正教会に入った時でした。ギリシャに移入されたキリストは、トルコ風の建物に納まって、じっとこちらを見ていました。そこには、祈りがありました。でも私は、そこでも違和感を持ちました。何故、ギリシャ人は、ギリシャ神話のような世界に誇るべき神がいるのに、ユダヤの息子のキリストを唯一の神として信仰するのか。と思った瞬間、パルテノンで思った疑問が解けたのです。

つまりパルテノンは、地元の人々にとって信仰の対象ではなくなっているのです。それは歴史のモニュメントであり、観光資源でしかないのです。そこには「祈り」はありません。かつて最高権力者のペリクレスだって、年に数度しか訪れないような聖地が、異教の異民族が、ひっきりなしに訪れて、土足で神殿を踏み荒らしているのです。パルテノンに祈りはない。それがこの巨大な遺跡に美を感じないことが分かったのです。

当時に、日本に置きかえて考えた場合は、どのような小さな神社仏閣でも、地元の人の祈りは、営々として残っています。それ出雲大社や伊勢神宮のような大神社でも、小さな村の名もない小社にも、あるいは奈良の東大寺、法隆寺だけではなく、住職のなり手もいなくて寂れた小寺にも漂っているものです。祈りがない都市というものは少なくても私には、美しいとは感じられないのです。考えても見てください。夜になれば、あの聖なるパルテノンが信号でもあるまいに、赤や緑や青に変わって、夜の闇に浮かび上がるのです。おぞましい姿でした。観光客に対する過剰サービスです。古代ギリシャ人が到達した究極の美を見たいと思って訪れた者にとっては幻滅以外の何ものでもありません。

ギリシャに行く一年前に、ローマに行きましたが、とても感銘を受けていましたので、ギリシャでも同じような感動を受けるだろう・・・。てっきりそう思っていたのです。そこで結論として思ったのは、ギリシャの精神は、すっかりローマという国家に吸収されてしまったのだろう。という事でした。神々の神話も文化も、ローマがこれを相続し、骸のような都市になってしまったのだろう。少し極端な感じがしますが、そこまで思いました。聞くところによれば、今ギリシャの山々のほとんどは、はげ山ですが、昔は鬱蒼とした森林だったということです。ここにもギリシャが、文明として、自然を徹底的に破壊した挙げ句に、その文明自体も、ついに滅びるに至った原因があるようにも思いました。

このことを考える時、信仰ということを抜きにして「美しい都市」ということは考えられない気がします。すなわち聖地(あるいは霊場)というものが、都市のどこかに存在し、少なくても多くの民衆あるいは市民が、その地に対して畏敬の念をもっている場所があること。しかもその聖地というものが、伝説として長く語られるような場所があること。こうして聖地の存在は過去から今に生きる民衆がこれを相続し、今度はこれを未来へ渡す場所があって、「美しい都市」というものは、かろうじて成り立っている花のようなものではないでしょうか。

ここまで書いて平泉が何故美しいかはお分かりでしょう。中尊寺という祈りを込めた聖地が存在し、そこには僧徒が命に替えても守りぬく覚悟の三代の御霊の眠る霊廟の金色堂が凛として存在しているからです。祈りが有る限り、平泉は滅びることはないのです。確かに政治都市としての機能は800数十年前に死してしまいました。でも平泉の美の本領は残っています。今平泉バイパスが、聖地の本領にまで悪影響を与えようとしています。ギリシャの例をひくまでもなく、観光のための人為的操作は逆効果しか生み出さないことを知るべきだと思います。なるべく、むかしのままの景観を保ち、あるがままを見せ、それを未来に伝える。この世界遺産の精神をわれわれはけっして誤解してはならないと思います。佐藤
 

 


2003.2.26
 

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