義経と自己実現

義経の人生の十牛図的解釈

 
源義経の幼名は牛若である。さてこの牛に縁のある英雄と十牛図について考えてみることにしよう。つまり十牛図を、物差しとして、義経の人生を解釈してみようという試みである。

その設問に入る前に、義経にとって尋ねるべき牛について考えてみることにしよう。実はこれは簡単なことだ。気がついたら、父は平家によって殺されていた。命からがら、母の常磐は、まだ二歳の義経を抱いて、逃亡を遂げる。しかも母常磐は、自分の母が捕らえられたのを知り、捨て身で義経ら三人の息子の手を引いて、平家の当主である平清盛の前に現れる。清盛の懐の深さと、母常磐の美貌と胆力によって、取りあえず、義経ら三人は、命を助けられる。これが後に平家の命取りとなった。

こうして義経にとっての牛は、「父の敵を討つ」という宿意として、存在することになる。義経は、父義朝に似て、才気走った所のある少年で、頭の回転も早かったようだ。母は、公家である藤原氏の有力な人物と再婚をして、三人の子を養育していたが、それぞれ武門の道を歩ませることはできない。平家の方でも当然気にして監視されている状態が続く、母常磐は気が気ではなかったようだ。そこで義経は、四歳にして、母と別れて、源氏ゆかりの者の家で養育されることになった。更に十一歳で鞍馬寺に預けられる。ここでも義経は、自分という存在がどんな人間なのかは分からない。ただ周囲のことから考えて、自分が普通の家庭に生まれた人間でないことは薄々気づいていたはずである。

義経が十五歳になった時、周囲の人間から父義朝の無念の死を聞き、血が逆流するほどの衝撃を受ける。それからは、平家打倒のことばかり考えるような状態になる。つまりはっきりと自分の生きる道を確認した。つまり牛の存在を意識したことになる。したがって義経にとっての尋牛(じんぎゅう)は、十六歳なって、金売吉次に自ら頼んで、奥州に下ろうとしたことである。

むかし男が成人することを元服といった。紗那王丸とか牛若とか呼ばれていた義経だったが、自分で源九郎義経という源氏らしい名前を付けて、奥州に下る途中で、元服を済ませてしまう。大事なのは、人に名付けられた義経ではなく、自分自らで命名したその強靱な自立心である。義経は、十六歳ではあったが、すでに彼は平家追討の鉄の意志を持った一人前の男(武将)であった。

それから七年間、奥州で様々なことを学ぶ。特に軍事的な戦略戦術にかけては、命がけで奥州に伝わる野戦の仕方や奇襲戦法を学ぶ。その間、京都に下って、「鬼一」という法師の元にある中国の武術書を読み漁ったという伝説があるが、これなどもいかに義経という人物軍事的な勉強をしていたかを物語る逸話である。
ともかくこうして義経は、十六歳から二十二歳までの七年間で一気に、尋牛から→見跡→見牛→得牛→牧牛までを一気にクリアしてしまうのであった。

二十二歳の時、兄頼朝が、平家打倒の鬨の声(ときのこえ)を上げたことを聞く。矢も盾もたまらなくなったなった彼は、奥州の父とも言える人物秀衡の制止も聞かず、兄の許(もと)に馳せ参じる。要するにこれが義経にとっての「騎牛帰家」(きぎゅうきけ)である。牛の背に乗って家に帰ったのである。つぎに彼を待っていたのは、長いことの物思いの時期であった。要するに源平の戦いが小康状態となって、義経自身、上げた拳の処置に困るような状態が丸四年間続く。まさにこの時期は義経にとって、「忘牛存人」(ぼうぎゅうそんしん)の一時であった。

やっと我を忘れて、自分自身の存在の全てを賭けて戦う時が訪れた。義経二十六歳の時、平家打倒に京に向かうことになる。そこで彼の頭にあるものはといえば、父の汚名を晴らす、そのために平家一門を打倒する。そればかり。その一点に神経が集中する。宇治川の戦いから、平家一門を最終的に殲滅した壇ノ浦の戦いまで、わずか一年とちょっと。これが義経にとっての「人牛倶忘」(じんぎゅうくぼう)の時期であった。

こうして義経という人物は、自己実現を遂げたのである。義経にとって「返本還源」(へんぽんげんげん)とは、ただ心安らかに、奥州高館で自刃した果てた時のことである。清々しい風が流れて、義経の短くも美しい。生涯の幕は下りたのである。義経にとって「入廛垂手」(にってんすいしゅ)は、彼の死後、様々に伝説が生まれ、彼を慕う人々が、哀れを感じ、「判官贔屓」なる心情を持ったことになるであろうか…。佐藤
 
 


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2000.9.11