牛を尋ねる話

 
 
 
さて今日は「十牛図」という絵図のことにについて書く。しかし絵はない。何故絵を置かないか。それは言葉によって、自らの頭の中で絵を想像して貰いたいからだ。

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尋ねる牛と書いて、「尋牛」(じんぎょう)という言葉がある。これは禅の精神を分かりやすく伝えるマニュアル本「十牛図」の第一の絵である。細く長い道がどこまでも続く、果てしない荒野である。細く長い道は、人生を象徴している。その中を立った一人、とぼとぼと歩いている人物がいる。いったい何をしようとしているかと言えば、牛を探し行く、と言う。ともかくこの男は、牛を探すことに時間を費やすことを心に決めたのだ。

だんだん道を歩いていくと、男が何者かの足跡を見つけた。近寄ってよく見ると、どうやら牛の足跡ではないか。とうとう牛を捕まえるチャンスがあるかもしれない。このことを見跡(けんせき)と言う。

男はその足跡を辿って、道を外れ、山の方に分け入っていく、もはや怖いものはない。どんどんと山奥に分け入っていく。するといた。真っ黒い牛の尻が見えた。まさか熊ではないはずだ。尻尾もある。あれは間違いなく牛だ。このことを見る牛と書いて「見牛」(けんぎゅう)という。

さてこの牛は、暴れ牛で、どうにも捕まえるのは難儀である。大格闘の末やっと、牛の尻尾を捕まえる。殺すか殺されるか。その位の覚悟がなければ、野生の牛を捕まえるのは容易ではない。男は牛の尻尾にしがみついている。この絵のことを得る牛と書いて「得牛」という。

捕まえたと言っても、まだまだ牛は野生の心を持っていて、いつ逃げてしまうか分からない。男はこの牛を調教することに必死になる、頭を撫でながら、鼻管を通して、手綱を引く。次第に牛もおとなしく従うようになった。この絵を「牧牛」という。

男はこの牛を田舎に連れて帰ろうと思う。そこで旅の支度をして、牛に乗り、意気揚々と道を歩いていく。この絵を「騎牛帰家」(きぎゅうきけ)という。

家に帰った男は、田舎の家で野山に囲まれて、悠々自適の生活をしている。もはや牛は家畜となって、彼の前にはいない。物思いに耽っているのか。座っている男がそこにいるだけだ。この絵のことを牛を忘れ、人だけが存すると書いて、
忘牛存人」(ぼうぎゅうそんしん)という。

あれれ、画面には何もない。何も見ない。ただ絵の丸いフレームだけがある。これは何を意味するのか。この男が死んだのか。死んで無に帰したということか。それともこれは男の心の状態を表しているのか。この絵?を、十牛図では、禅的な最高の境地としている。この奇妙な画面を、人も牛もともに忘れると書いて「人牛倶忘」(じんぎゅうくぼう)という。

次ぎに枝が生き生きとせり出した絵が見えてくる。その背後には生命力に溢れた春の野山がある。この絵のことを「返本還源」(へんぽんげんげん)という。本来の根源に戻ること。ひょっとしてここは天国なのかもしれない。人の影はどこにも見えない。

最後の絵が見えてくる。太った男が、街にきて、何かを誰かに渡そうとしているシーンが見えてくる。この絵を街に入り、手を伸ばすという意味をもって「入廛垂手」(にってんすいしゅ)という。何ものにも捕らわれず、ただ思うがまま、生きて間違いのない境地に達した男の老いた姿であろうか。

さてこうして牛を尋ねることから始まった。男の人生絵巻が閉じられる。いったいこの絵で登場する牛とは何であろう。あなたは牛をどのようにイメージするだろう。私は牛を自分自身の本来の心と考える。元々自分というものは、自分の内面にありながら、あたかも野生の牛のように御しがたく、簡単に調教できるようなヤワなものではない。牛を探そうとすることは、つまり本来の自分を見つけようと心を決めた状態を言う。

人生について、ある心理学者は、「自己実現の旅」という言い方をする。つまりこの十牛図の絵において、表現されていることは、いかにして自己実現の道に到るかをやさしく説いた絵本なのである。まずは「牛を尋ねる」と思うこと。ここから自己実現の道は開始される。佐藤
 


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2000.9.8