運命としての源義経
源義経は31歳の若さで死んだ。「もしも義経が生きていたら」、そんな思いから、民衆はこの人物を無意識の うちに伝説として蘇えらせた。所謂「義経伝説」は、まず民衆の心の中で始まった無意識の物語である。現在我々日本人の中にある義経像は、虚像実像入り乱れ ての伝説としての義経像であり、この義経の生涯の物語を分析することは、日本人の無意識に迫ることにもなるはずである。
義経伝説は、日本人の集合的無意識の結晶である。つまり日本人の中にあるヒーロー像が、義経という人物に投 影され、それ故に彼の伝説としての人生は、長い年月を掛けて縦横無尽に脚色され変節を強いられ、「義経=ジンギスカン説」のようなとんでもない説まで飛び 出すに至ったといえる。
単純に源義経の生涯を概観する時、その余りにも短い生涯は、ただただ平家一族を滅ぼすためだけにあるような 気さえしてくる。そして平家をあっという間に滅ぼすが早いか、彗星のように歴史の彼方に消えていった。この一文は、義経の生涯を辿りながら、その激動の運 命を総括し、併せて日本人が義経をこれほど受け入れるようになったのかを考えてみたい。
義経の生涯
まず義経の生涯を以下の七期に分けてみる。
|
|
|
|
第一期 | 0歳〜2歳 | 父義朝の敗死 | 父の業を背負う運命の子(父性愛の欠如) |
第二期 | 2歳〜7歳 | 母常磐の再婚 | 生存の奇跡(清盛の心の隙) |
第三期 | 7歳〜16歳 | 鞍馬寺の稚児となる | ライフワークを意識(母との別れと血族意識) |
第四期 | 16歳〜22歳 | 平泉での研鑽 | 出会い(父性持つ秀衡との出会い) |
第五期 | 22歳〜26歳 | 兄頼朝の旗揚げに呼応 | ディオニソス的熱狂(兄への片思いと打倒平家) |
第六期 | 26歳〜27歳 | 平家を滅亡へ | 奇跡の勝利(父の汚名を雪ぐ) |
第七期 | 27歳〜31歳 | 都落ち | 運命の暗転と死(諦念) |
第一期、
義経は源義朝の九男として、平治元年一月(1159)、母常磐との間に生まれた。父義朝は、その時、三六歳 の働き盛りで、保元の乱(1156)注1での功績により、左馬頭(さまのかみ)となったの だが、出世において、政治力に優れた平清盛に遅れを取ってしまった。その双肩に源氏の将来が掛かっていた時期でもあり、義朝の焦りは、相当なものだった。 そして平治元年十二月九日、平治の乱(1159)注2は、起こった。義経がまだ満一歳の誕 生日を目前にして、父義朝は、平清盛の熊野参拝の留守を狙って反乱を起こしたのである。一時はこの反乱が成功したかに見えたが、体制を立て直した清盛に あっさりと破れ去ってしまう。こうして父義朝は、義経の満一歳の誕生日も終えないうちに死んだ。義朝は、政治家という面では、清盛に劣っていた。しかし武 士としては誰もが認める才能ある人物だったようだ。義経の才能はこの父の才能を受け継いで現れたものだろう。
第二期、
義朝の敗死後、母常磐(当時二三歳)は、乳飲み子の牛若(義経)、兄今若と乙若ら三人を連れて、山野を彷 徨った挙げ句、年老いた母を救うために、覚悟を決めて、清盛の元に投降する。常磐の一世一代の必死な姿に押されたのか、清盛は常磐親子を殺さなかった。そ の後、義経記などでは、清盛はその美貌に参って常磐を妾にしたという話がまことしやかに流されているが、どうも事実ではないようだ。清盛のこうした一見す るところの器の大きさが、平家にとっては、後に大変な災いとなってくる。ともかくあの激動の中を義経が何とか生き延びてこれたのは一種の奇跡に近い。義経 は、幼年期の第二期のほとんどを父性愛というものを知らずに成長したのである。またおそらく若い母常磐の苦労や不安の影のようなものを感じつつ育ったわけ だから、性格的にもかなり屈折した面があったはずだ。母はそんな義経に、父義朝がどんな人物だったか、そしてどんなに悔しい思いを持って死んで行ったかを 話していた。義経は四歳までは母の元で暮らしたが、幼い頃から学問などに優れた能力を発揮し、そんな義経を気にしている清盛の目もあり、京都山科の源氏縁 の者に預けられた。こうして運命の子源義経は、四歳にして母と別れて暮らすこととなった。
第三期、
義経は七歳になると、鞍馬寺の別当東光坊阿闍梨蓮忍に預けられ、遮那王と名乗る稚児注3となった。この東光坊蓮忍は、父義朝とは旧知の間柄だった。義経記によれば、常磐が蓮忍に手紙を書き、
何とか仏門の道に入って平穏な人生を歩ませようと頼み込んだのだ。義経はこの僧侶のもとで、日夜学問に励んだ。「これだけの稚児は、延暦寺や三井寺にもい
ない。きっとこのままいけば、鞍馬寺を背負って立つ人物になる」と太鼓判を押されるほどの才を発揮した。そして11歳になる頃、かつて母から聞かされてき
た事の意味が徐々に分かってきたようだ(平治物語)。それは自分が清和源氏の嫡流である源義朝の息子であり、その父が志し半ばで死んだ事を理解するように
なったことを意味した。十五歳になった時には、聖門坊(しょうもんぼう)という源氏縁の者から、平家打倒の思想を聞き、それからは人が変わったようにな
り、明けても暮れても平家を討ち滅ぼすことを宿望とするようになった(義経記)。若者が、熱い思想に触れて熱病に罹ったようになるのは古今東西同じよう
だ。事態を察知した東光坊は、母常磐や継父藤原長成卿の意向もあり、盛んに出家することを勧めたが、義経はこれを頑として受け入れなかった。それにしても
清盛は、すぐそばにいる。もはや義経が鞍馬寺にいることは命の危険にも関わることになってきたのである。
第四期、
十六歳になった義経は、京の金商人「三条吉次信高」と出会い、奥州平泉の藤原秀衡の元へ向かう。途中熱田神 宮に立ち寄った義経は、「奥州に稚児姿で行くのはみっともない。もし秀衡の元に行ったら、元服を勧められるだろう。しかし秀衡は我源氏にとっては臣下であ る。その秀衡に勧められて元服したと合っては、周りの者に軽蔑されてしまうに違いない。せめて元服をして行きたいものだ」と言って、自らで元服を済ませよ うとした。そこで義朝の正室の父に当たる大宮司が烏帽子親となり、元服することとなった。その元服の席で義経は、更にこのように言い放った。
「さて自分の名に付いてだが、自分は本来左馬八郎と称するのが相応しいと思うが、叔父に鎮西八郎為朝がお り、どうもしっくりこない。自分らしい名にしたいと思う。そこで源氏縁の字である義だけを頂いて義経と名乗りたい。今日からは自分を左馬九郎義経と呼んで 欲しい」こうして義経は、身の危険を感じるようになっていた京の都を離れて、平家追討という宿願を胸の奥に忍ばせて奥州の覇王藤原秀衡の待つ平泉へと急ぐ のである。
そして奥州入り。秀衡との出会い。義経は秀衡との出会いの中で、これまで感じたことのない父性のようなもの
を秀衡の中に感じたはずである。不安定だった義経の人生で初めて訪れた平穏な一時であった。しかしここでも、義経はじっとしていない。馬に乗り、弓を取
り、平家を追討する日を夢見ながら、軍事訓練に勤しんでいたことが、伝説として平泉周辺に残っている。
第五期、
青年となった義経は、京都に次ぐ十万の人口に膨れあがった黄金の都奥州平泉において、それまでの不遇が嘘の ような充実した時を過ごしていた。彼は白河の関から津軽の原野まで、駿馬を駆って縦横に旅をし、様々な見聞を広めたに違いない。しかし彼の心には、ただ一 つ父の汚名を雪(すす)ぐこと、すなわち平家一門を倒し、源氏を再興するという悲願だけがあった。
そこに突如として、心沸き立つような知らせが届いた。治承四年(1180)八月十七日、伊豆にいた兄頼朝が 打倒平家を掲げて挙兵したのだ。この事実を半月ほど遅れて知った二十二歳の義経は、矢も盾もたまらず、秀衡に、兄頼朝の元へ馳せ参じる覚悟を伝える。秀衡 は、初めこの熱狂的な訴えに対して、反対の意を述べた。おそらく頼朝が石橋山で、平家側に一度敗れて敗走したという情報も平泉には入っていたので、もう少 し状況を見てからでも遅くはないのでは、という賢明な示唆だったのだろうか。いやあるいは、秀衡には当初から、義経を頂点とした奥州国のイメージが見えて いて、その壮大な構想が、血気にはやる義経の行動によって、崩れてしまうことを秀衡は怖れたのかもしれない・・・。
秀衡の思いを余所に義経の行動は迅速だった。もはやこの天才児の心を変えることは、奥州の覇者秀衡といえど も不可能だった。そこで秀衡は、縁戚の部下佐藤基治(信夫庄大鳥館の城主)の息子達(継信・忠信)ら数十人の郎従を義経に手向けとして与え、その首途を見 送るしかなかった。
佐藤一族は、藤原秀郷の流れを汲む名門である。奥州藤原氏とは同族であり、その信頼は熱い。義経に付き従っ た継信、忠信以下80騎の兵は兄弟の父信夫庄司佐藤元治が兵であると思われる。佐藤氏がこれほどまでに義経に関わった背景には、おそらく秀衡とは少し背景 の違う特別な理由があったはずだ。それは義経の最初の妻となった女性が、佐藤氏の娘であったと推測される。つまり佐藤元治にとって、義経は娘婿になる。こ うなると鎌倉の北条氏の立場に位置することになる。
元治は、要衝の地である信夫庄から遙々と、奥州と関東の国境にあたる白河の関まで、義経一行を見送ったと伝 えられる。白河の関には、義経が関東に向かう時に遺していった痕跡が多数ある。中でも、関から100mばかりの道ばたにある庄司戻しの桜の遺跡は、元治が 杖にして歩いてきた桜の木を道ばたに突き刺し、義経と息子達の道中の安泰と活躍を祈りながら、「この思いが叶うならば、この桜よ。地上に根付け」といっ て、遺った桜だと言われている。要するに、義経には一族の命運が掛かっていたのである。
関東に向かった義経一行は、治承四年(1180)十月二十一日に、初めて兄頼朝と駿河の国黄瀬川(きせが わ)の旅館で涙の対面となる。これが義経の正史(吾妻鑑)初見であり、いよいよ歴史の表舞台への登場である。二人は過去の苦労話談じて懐旧の涙を流しあっ たようだ。
義経の境遇について「吾妻鏡」は、初めて次のように記述している。
「この主は去ぬる平治二年正月、襁褓(きょうほう)の内において父の喪に逢ふの 後、継父一条大蔵卿長成の扶持によつて、出家のために鞍馬に登山す。成人の時に至りて、しきりに会稽(かいけい)の思ひを催し、手づから首服を加へ、秀衡 の猛勢を恃みて奥州に下向し、多年を経るなり、しかるに今武衞宿望を遂げらるるの由を伝へ聞きて、進發せんと欲すのところ、秀衡強(あなが)ちに抑留する の間、密々にかの館を遁れ出でて首途(かどで)す。秀衡悋惜(りんしゃく)の術を失ひ、追つて継信・忠信兄弟の勇士を付けたてまつると云々」注4
これから義経は、源氏の頭領である兄頼朝の家臣となって苦労をする。鎌倉に入った頼朝は着々と、力を蓄えつつあっ
た。そんな矢先に翌年養和元年(1181)閏二月には、平家の頭目平清盛が亡くなって、世の中の形勢は、刻一刻と鎌倉方有利の方向に流れていった。義経
は、ひと暴れし、自分の存在を誇示したくてうずうずしていた。ところが義経に、なかなか好機は来なかった。
同年七月、鶴ヶ岡八幡宮の上棟式に参加して御家人の一人として、大工に与える褒美といしての馬を引く役を賜った
が、プライドの高い義経はこれに不満を漏らして、頼朝の怒りをかった。義経としては、自分が、御家人と同じ扱いを受けなければいけないのか、納得がいかな
かった。しかし頼朝の高圧的な態度に仕方なく服従した。
さて多くの史家は、このエピソード(頼朝の弟義経に対する高圧的な態度)を、「たとえ弟と言えども、部下の 一人として扱う政治家頼朝の厳しさ」と見る。しかし私にはそのようには見えない。どうしても頼朝の鎌倉武士団の中における基盤の弱さのようなものを感じて しまうのだ。頼朝はただ御輿に担がれているだけの存在ではなかったのか。後に起こる頼朝の早すぎる死や、その長男頼家(二代将軍:1182―1204)、 同じく次男実朝(三代将軍:1192―1219)の相次ぐ悲劇的な死で、最後には源家の血脈の断絶にまで発展する。そのどす黒い陰謀の裏になにがあったの か。それは北条氏の権力への強い意志のそのものではなかっただろうか。結局、頼朝もその息子達も、北条氏の権力奪取の手伝いをさせられた挙げ句に、あっさ りと消されてしまった。(私は頼朝の死も、北条氏による暗殺と考えている。この件に関しては、別の紙面で論じるつもりである)
そんな微妙な立場を頼朝は、常に感じていた。だから頼朝は必要以上に義経にも強く当たらねばならなかったの である。しかしそんな時でも義経としては、ただただ平家を追討の先陣を切ることだけを願っていたので、頼朝のそんな危うい立場など知る由もなかった。義経 は気が狂うほどあせっていた。しかも気が付いてみれば、義経はすでに鎌倉の中で、異邦人のように浮いている存在だった。こうして義経と頼朝の対立の構図 は、源家というブランドを中心にしてまとまっていたに過ぎない頼朝と鎌倉武士団の対立の反映とみるべきではあるまいか。ともかく頼朝と義経の対立の萌芽 は、こうして醸成されていったのである。
同年十一月、義経にやっと出陣の時がきた。義経は、異母兄の範頼と同じく平維盛追討の代官に任じられ、勇ん で支度にかかった。
寿永二年(1183)五月十一日、鎌倉軍に先立って、京に攻め上ろうとした木曾義仲は、越中・加賀の国境の
倶利伽藍峠(くりからとうげ)で平維盛の四万の大軍を壊滅させて、怒濤の勢いで入京を果たした。そして七月二十五日ついに平家は幼い安徳天皇と三種の神器
を擁して西海へ逃れ都落ちをせざるを得なくなった。「このままでは功の全てを義仲に持っていかれてしまう・・・」義経のあせりは頂点に達していた。
ともかく、この第五期、歴史の表舞台に颯爽と登場した源義経にとって、その真価が試される時が刻一刻と迫っていた。
第六期、
義経にとって、戦とは何であったか。それは唯一自分を表現できる花の舞台のようであった。もしも仮に義経か ら戦をとったら、何が残るだろう。ただ不幸を背負った貴人に過ぎなかった。しかし彼は貴人というよりは鬼神であった。誤解を恐れずに言えば、源義経は日本 という国が中世への扉を開くために天が遣わした戦の申し子のような人物であった。おそらく歴史の中でふり返ってみれば、古代においてはギリシャ精神を中東 からアジア諸国まで伝えるために生まれたようなマケドニアのアレキサンダーや近世においては、フランス革命の精神を世界に広めるために存在したようなナポ レオンに比肩しうる軍事の天才であったと云えるだろう。
ただ義経個人にとっての個人的な関心事といえば、それはただひとつ父義朝の汚名を晴らし、源氏の旗印を再興 することにあった。それは彼の生まれ付いての宿願であり、今の言葉で言い換えればアイデンティティそのものであった。
その為に、彼は困難に耐え、奥州平泉を研鑽の地として、奥州の駿馬を乗り回し、奥州流の山岳軍事訓練に汗を 流してきたのである。彼の初陣は、木曾義仲を倒した宇治川での戦だが、この戦については、義経に見るべきものはなく、彼自身同族ということもあり、苦々し い気持ちでの勝利であったと思われる。
何といっても義経が歴史に己の名を決定的に刻んだのは、一ノ谷での華々しい勝利である。通常一ノ谷合戦と呼 ばれるこの源平の攻防戦は、元暦元年二月七日未明から午前中に掛けて行われたものである。この戦は、義経の名を一躍轟かすと共に、日本の合戦史にも残る戦 となった。平家方は、福原(現在の神戸)に本陣を置き、東の生田の杜に大手の陣を、そして西の一ノ谷に搦め手の陣を敷いた。完璧な布陣に見える。平家方の 兵の志気も高まり、まさに源平が覇を競う瞬間が置く一刻と迫っていた。
峻険な山々に囲まれた福原にいる平家軍を壊滅させることは容易ではない。義経は、この陣形を見て、すぐに秘 策のアイデアが浮かんでいた。しかし敢えて、この策は誰にも話さず、軍議においては、大手攻めは異母兄の範頼に任せ、自分は搦め手に回ると主張した。
おそらく言っても理解できないと義経は考えていたであろう。その秘策とは、平家が予想だにしない位置から攻 めて、陣形を崩すことである。そして主力軍1万5千を、異母兄の範頼に預け、義経は1万を率いて、三草山を経由し、一ノ谷を目指したのである。彼は三草山 に布陣していた平家軍三千を見つけて、夜襲によって、これを苦もなく壊滅させ、さらに7千の軍を土肥実平に搦め手を南から攻めさせるべく明石の方角を目指 させた。
土肥実平に秘策を話すと、実平は、信じられないという顔で義経と分かれて行った。訝る実平を見送ると、義経 は初めて、自分の三千の兵を前に計略を明かした。平家の背後ら坂を下り降りて、陣形を崩すというのである。一同これにはびっくりしたが、もう引くことはで きない。皆義経の大将義経の顔を見ながら、武者震いに震えた。ここにある7千とか三千とか、少し誇張気味の数字が並ぶが、現実にはずっと少なかったと推測 されている。
二月七日、早朝から、さっそく戦の火ぶたが切られた。生田の杜のある大手でも歓声が上がっている。すでに搦 め手の城戸口では、夜のうちに所属の軍を抜け出し、先駆けを狙って、あの熊谷直実父子が、未明から高らかに口上を述べながら、平家の陣に突入を図ってい た。明石側からは土肥実平率いる7千の軍勢が搦め手の城戸を目掛けて攻め込んでくる。義経は背後からじっと事の成り行きを見ている。攻防は一進一退を繰り 返す。背水の陣を敷く平家の武者たちの士気も高い。彼らは、浜の背後に聳える鉄拐山(てっかいざん)を楯にして源氏軍を押し返している。タイミングを計っ ていた義経は、何と平家が楯とする鉄拐山の崖を下ることを、部下達に告げた。どうなるかと思った者もいた。義経は無理示威はしない。実際にこの鵯越の逆落 としを決行したものは70騎と言われる。これが現実であるとすれば、先の三千というのは、10分の1の300騎で、逆落としを決行したのが、70騎兵とす ると合点がゆく。馬術の自信のない者、体力に劣る者は、後方支援にまわる。少しも恥じ入ることではない。
この「70騎」という数字を考える時、ふと思うことがある。この数値は、関東と義経主従の寄せ集め軍などで はなく、主力はあくまでも、奥州から義経に付き従ってきた佐藤一族の80騎が主力となっていることは明らかだ。これまでは鵯越の語り草となっている話に、 関東の武将畠山重忠が、この坂を自分の愛馬を背負って降りたというエピソードがあるが、彼はこの攻撃に参加していなかったという説が有力である。平家物語 では、佐野十郎義連という三浦流の武者が、勇ましく登場しているが、主力は義経子飼いの奥州義経騎馬軍団というような連中であると思われる。
つまり、一ノ谷の奇策は、プロ集団が仕掛けた奇襲なのである。一か八かの作戦のように言われるが、実は義経 にしてみれば、計算尽くであったと見るべきである。もちろん地形などは分からないので、鷲尾三郎のような地元の者を雇って道案内をさせるが、急峻な崖を下 るくらいの技量は持ち合わせた連中が決行したものであろう。後の騎兵は、おそらく、義経の無事を見届けながら、迂回しながら、落ちていった義経たちに付き 従って行ったものであろう。
こうして、膠着状況が続いていた戦況に劇的な変化が生じたのである。平家は陣形を崩されて、城戸口は破られ た。東西から挟み撃ちにあった平家軍は、一瞬のうちに烏合の衆となり、右に左に逃げまどい、波打ち際に停泊させていた舟に我先にと便乗し、屋島を目指して 逃亡を図った。福原の本陣に居た幼い安徳天皇と母の建礼門院、そして皇位の象徴である三種の神器は、戦が始まると、直ぐさま舟に乗船し、しばらく波間に漂 いながら、戦の趨勢を見守っていたが、味方の軍が敗戦濃厚と分かると、舳先を四国に向け出航して見えなくなった。
天才とは、状況に劇的な変化をもたらす者を言う。その意味で、日本の合戦史上でも類例をみない一ノ谷合戦の 勝敗は、まさに義経のひらめきによって、決まったと言うべきである。
しかも、それは無謀な思いつきではない。今日でも、平泉から栗駒山にかけての周辺には、義経が馬を使って奇 襲の軍事訓練を行ったと云われる伝説が残っている。優秀な馬を乗りこなしながら、義経は、いつかこの奥州の馬を駆って平家一門に一矢報いる夢を見ていたは ずである。確かに平泉から達谷(たっこく)をかけて骨寺を通り栗駒山にいたる古道は、起伏に富み、鵯越で見せた馬場訓練に格好の急斜面も多く点在してい る。奥州藤原氏の時代、この栗駒山山麓一帯は、奥州馬の生産地であり、多くの名馬が輩出した土地でもある。また福島の信夫の里の近くには、義経亡き後、奥 州軍と鎌倉軍が激戦となった厚樫山が聳えており、この周囲には、一ノ谷を彷彿とさせる急峻な坂や崖は幾らでもある。
義経は一ノ谷合戦の勝利によって、人生の絶頂期を迎えた。もちろんこれは結果論的な見方である。しかし本人は、とても浮かれていたとは思われない。 何故ならば、未だに宿敵平家は船団を組んで讃岐の国の屋島に退却したとは云え、平家配下の武士達を再び糾合して、源氏なにするものぞ、と挑み掛かってくる ことは目に見えている。
源義経は、馬上の人となり、京都へ凱旋をした。彼は自らの宿望である平家打倒の熱い思いを益々滾(たぎ)らせながら、沿道に詰めかけた群衆の歓呼に 時々手を振って応えた。元暦元年二月九日のことである。
京都の人々は、院も公家達も民衆も一様に歓迎ムードで、義経を迎えた。もちろん何度も修羅場に立たされてきた古都京都である。義経率いる鎌倉軍の勝 利を手放しで喜んでいるとは思われない。それでも義経という武将が京都に生まれ、古くからの伝統と有職故事に精通しているという安心感があったことは事実 だ。
木曾義仲を宇治川で破った後の京都入りに際しても、義経率いる鎌倉軍の軍の規律は万全であった。これは義仲軍が京都に入り乱暴狼藉を働いたこととは 対照的であった。そこに義経が用いた鵯越の逆落としという信じられないような奇襲の戦果が、市中に津波のように広がっていたのだ。おそらく京の街は、京都 生まれの若きリーダー源義経の話で持ちきりになっていたと思われる。
人生の中で、絶頂期というものは、当の本人は知る由もないものだ。義経もまたその例外ではなく、絶頂から運命があっけなく反転するものだとは考えて
いなかった。自分としては、まだ平家追討の志は半ばであり、義経の中には、真夏の入道雲のように夢と希望が無限に膨らんで行くように思われた。運気の考え
方で義経のこの時期を、月の満ち欠けで表現するならば、あたかも十三夜のようだ。あと残り二日で満月が訪れる運命にあるが、その後には必ず満ち欠け(運
命)の反転がある。そして義経のような歴史的人物の運命というものは、ある日突然、劇的に変化するもののようである。運命論的に解釈すれば十三夜からたっ
た十五夜に至る二日のドラマが、稀代の英雄である源義経にとっては、屋島から壇ノ浦の海戦に華々しい勝利をする翌(文治元年)三月二十四日までのほぼ一年
間の物語になると想定される。
第七期、
時代の神様は、女神かもしれない。義経の運命の急激な変転をみる時、義経はあたかも運命の女神に招き寄せら れるようにして逝った。
義経の運命絶頂期は、一ノ谷合戦の勝利から、翌年の屋島と壇ノ浦合戦にかけての僅か二年間であった。奇跡と 言われるようなこの二年間の活躍のために義経は、生まれ、そして果ててしまった。
彼の運命の急激な変転振りから、私は常々、義経という天才を一砲兵士官からフランス皇帝まで登り詰めたフラ ンスのナポレオンに似ていると思ってきた。義経の時のように時代の神様は、自らの意志を伝える者として、ナポレオンを突如指名し、フランス革命の精神を、 全ヨーロッパに伝えさせるや否や、運命の翼を反転させ自らのエリーゼの王宮にあっという間に招き入れてしまった感すらする。稀代のヒーローナポレオンの晩 年は、義経に負けず劣らず悲惨極まりないものであった。
そのナポレオンが、次のようなことを書き遺している。
「一つのすぐれた力が私を私の知らない一つの目的へと駆り立てる。その目的が達せられない限り、私は不死身であ
り、堅忍不抜であろう。しかし私がその目的にとって必要でなくなるや否や、たった一匹の蠅でも私を倒すのに充分であろう。」(「ナポレオン言行録」の「自
画像」より。岩波文庫 大塚幸男訳 1983刊)
この自画像がいつ書かれたものであるかは知らない。もしもこれが絶頂の時であるとしたら、高速のエレベー ターに乗って人生が、いつか急に落下するのではないかとナポレオン自身が、畏れのような気持を抱いているようにも感じる。
このナポレオンの言葉は、義経の運命を良く伝えている。平家を打倒した後の27才から31才で最期を遂げる までの義経の晩年は悲劇そのものであった。義経の人生は、高速エレベーターに喩えられる。民衆は、この余りにもアップダウンの激しい生涯を見ながら、その 悲劇を愛し、「判官贔屓」という心情を持つに至った。
彼の人生に対しては、敵も味方もなく、哀れみを感じた。義経の心情を伝える「腰越状」が「平家物語」だけで はなく、「吾妻鏡」や「義経記」にも掲載されているのが何よりの証拠だ。
当の義経は、衣川館において、命尽きる時、自分の人生にいったいどんな感慨を持って逝ったのだろう。そのこ とをちょっと考えてみる。
第一、「私は何故このような運命に弄ばれるように果てなければいけないのか?」第一と第三の感慨は、義経の無念をよく伝えている。悔しさ、無念さがよく、よく表れている。おそらくこの心情が、 日本人の義経観の底流にあるものと思われる。日本人は、義経の無念の心情を「腰越状」を読むことで慮(おもんぱか)り、「判官贔屓」という独特の心情を産 み出すに至った。特に、義経の華やかな成功物語としての、一ノ谷から屋島、壇ノ浦に至るシーンを一切描かず、ひたすら義経の悲劇的な部分ばかりを記した 「義経記」を産み出す原動力には、この第一と第三の感慨が眠っていることは確かである。第三の感慨を単独で表現すれば、義経北行説→義経=ジンギスカン説 などの義経不死伝説の根源には、この心情があると思われる。
第二、「人生において成すべき事を十分に成した。潔く死のう!」
第三、「私はまだ死ねない。生きてこの無念を晴らすのだ!」
ところで、ローマの英雄シーザーは、暗殺に遭い、側近のブルータスまで、その陰謀に加わっていることを知 り、「ブルータスよ。お前もか・・・」と言ったと言われる。この「・・・」の中に、私はシーザーが、この瞬間に、思いを変えて、「運命の変転」を受け入れ たと感じる。つまり「ブルータスも加わっているようであれば仕方ない。潔く、運命の暗転を受け入れよう」と思ったと想像する。英雄になるような人間の特徴 は、瞬間瞬間の決断が、異常なほど早いというところがある。あの信長も本能寺の変で、明智光秀の奇襲に遭うと、「光秀ならば、是非もない・・・」と言っ て、散々矢を放った挙げ句、劫火の中に消えて骨すら残さなかった。信長の「・・・」も、きっとシーザーと同じ心境だと予想する。
人には、その人生で成すべきことがある。それを自覚し、「これこそが、自分の生きる道だ」と感じることがで
きた者は幸せである。我々凡人は、自分が何のために生まれて来たかのかもほとんど意識せずに一生を終える。自分の人生の道を自覚しえた義経は、悲劇的な晩
年を送ったが、、おそらく、死ぬ瞬間には、第二の「生涯において源義朝の子として生まれついた自分としては、成すべきことは成した。後は天に委ねよう」と
いう心情となり、穏やかな顔をして亡くなったものと考えられる。吾妻鏡の文治五年(1189)6月13日の条に、腰越の浦で行われた首実検の折、そこにい
た誰もが、人知れず涙を拭ったとある。それは義経の顔が、人々の想像を超えるような穏やかな顔をしていたからだと思う。考えてみれば、自分の持って生まれ
た才能を最大限に発揮し、結果として中世の扉をこじ開けた義経の人生は、人には悲劇に見えるかもしれないが、見事な自己実現の生涯でなかっただろうか。
結 語 義経の生涯を自己実現の視点で見直すこと
多くの日本人は、義経の悲劇的な側面に焦点を当てて見る傾向にある。しかしそれは一面的で否定的(ネガティブ)な見方である。江戸期に徐々に形成さ れた「判官贔屓」という日本人独特の心情は、まさにそのことの証明である。しかし自己実現を人間の生涯の大いなる目標と考えるならば、義経の生涯は、まっ たく別の意味をもつものとなる。
義経にとって、彼自身が考えるている「自己実現」あるいは「アイデンティティ」というものは、何であったか。それは何よりも父義朝の汚名を濯ぎ、源 氏を再興することにあった。だからこそ、兄頼朝の旗揚げの時には、血が逆流するほどの興奮をした。少なくても義経の自己としての表層意識はそのようであっ た。
しかし義経という人物に、天(あるいは時代の神)が課した使命は、もっと別の大きなものであった。それは新しい時代の扉を開けるという大仕事だ。そ のために、時代の神は、義経という人物に戦に関する天賦の才を与えた。それは状況に応じて臨機に戦術を組み立ててゆく軍事的直感力であった。
義経の不屈の精神とその才能は、どのように鍛えられたのか。物心が付いた時、義経は敵である平氏の監視下にあった。7才(あるいは11才)で鞍馬山 に、預けられた時点で、義経は何もかも一人で考え実行するしかないことを覚った。その中で、彼は自分がどのような立場の人間であるかを気づいて愕然とし た。過酷な運命が、彼の直感力を磨いた。義経の不屈の精神は、孤独と苦難と誤解を恐れずに云えば平清盛に対する私怨(しえん:個人的な復讐心のこと)が育 てたのものである。
時代の神が、義経を自己の精神を実現する者として選んだ理由はどこにあったのか。それは苦難をエネルギーとして己の力にできるその不屈の精神にあっ た。不利な状況下でも、彼は勝利を手にする戦術を瞬時に練り上げることができた。彼はその戦術を、誰にも頼らず相談せずに決める。そのために、周囲の武者 との軋轢が生まれたことも確かだ。義経の天才は、教科書通りの戦法に固執する者には理解不能な側面がある。彼の真骨頂は、それまでの戦の常識を覆す戦法に あり、正規軍を指揮してのものではなかった。そのために義経の編み出す数々の奇策は、義経と最後まで生死を共にできる少数精鋭の義経軍団を中核としてはじ めて成立するものであった。義経の悲劇は、兄頼朝が「すすどい」と表現するように「鋭すぎる感性」にあった。
義経の生涯をもう一度、「その生涯にはどのような意味があったのか」と、振り返ってみる。するとそこに、清々しい面持ちで日本列島の上にすっくと 立って微笑んでいる彼のヴィジョンが浮ぶ。永遠の若者のイメージだ。わずか31年の短い生涯であった。だが義経は、時代の神の要請によく応えて、見事なま での自己実現を遂げた。その一生は、よく咲きよく散る櫻花のごとき生涯であった。
21世紀の時代に生きる私たちは、これまでのように、義経の悲劇的な側面ばかりに焦点を当てて、その生涯を見るばかりではなく、義経が自助と不屈の
精神でつかみ取った自己実現の見事さをこそ注目するべきではないかと思うのである。
注1:元々摂関家藤原氏の内部抗争に端を発した動乱であったが、皇室を巻き込んでの争いに発展 し、平清盛と源義朝ら武士の力を持って、後白河天皇と藤原忠通側の勝利に終わり、武士の存在感を見せつける結果となった。
注2:保元の乱の勝者であった清盛と義朝の争いから京都で起こった動乱。結局義朝が敗死し、清盛 率いる平家の全盛期となる。
注3:古来より、寺社では、稚児(ちご)や童子と呼ばれる子供がいて、法会の時などの行列役など に使役されていた。
注4:全釈「吾妻鏡」新人物往来社版 第二巻 81ページ
最終更新日 1999.10.5-2005.3.12 Hsato