白梅の涙を見る

−庭木に対する礼−


今朝、悲しい光景をみてしまった。何気なく駅へと続くといつもの道を歩いていると、白梅の木が香しい香りを漂わせている古い家があるのだが、その前を通りかかった時のことだ。庭先にいつも見えていた梅の木が見あたらない。「どうしたのだろう」と、びっくりして辺りを見回すと、少しずつ状況が呑み込めてきた。家の前には、トラックが横付けされており、その荷台を見ると、白梅が、満開のまま積まれているのだ。あ然とした。音がキーン、キーンと響いている。まるで梅の悲鳴のようでもあった。よく聞いてみれば、電動のこぎりの音だ。どうやらほかの庭木を切っているようだ。もう一度、荷台の白梅の木に目をやった。、昨夜の雨が花びら先で眩しく光っている。すると少しして白梅からぽとりと銀の滴が落ちた。私にはこれが花の涙のように見えた。

ついさっきまで、庭のいつもの場所にあって、この道を通る人の心を和ませてくれた白梅が、このようにいとも簡単に切られてしまうなど考えもつかないことだ。しかもこの白梅は、我が世の春を謳歌する花の時期に、ばっさりと切られて、塵同然に汚いトラックに積まれているのだ。何ということだろう。白梅が哀れでたまらない。それでも花たちは物も言わずに、精一杯の美しさを湛えて、こちらをじっと見ているではないか。胸が痛くなった。同時に心の奥から、怒りが込み上げてきてどうしようもなかった。
「・・・どうしてこの家の主は、このような残酷な行為を許したのだろう。確かにこの家は、相当に古い家で、建て替えの時期なのかもしれない。それにしても、この家の住人たちは、この梅の木によって、長い年月を慰められ、励まされて来たのではないのか。いわば、梅は家族同然ではないか。・・・」

家族同然の白梅の木をかくも無造作に切り倒して、平気でいる神経がどうしても私には解らない。もし私であれば、根を掘り起こして、別の場所に移動しておくだろう。あるいは植木屋さんに預けて置く手もある。それが庭木に対する接し方あるいは礼というものではないだろうか。物言わぬ白梅が余りに哀れで、こんな歌が湧いてきたのだった。

 花盛り春三月の好日に切られし白梅、涙のぽつり
 物言わぬ某家の白梅咲きしまま切り倒されて荷台に積まる

佐藤
 

 


2003.3.4
 

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