−Imagine all the people living life in peace−
2003年3月10日、東京。早朝の空を見上げれば、どこまでも青く澄み渡っている。いつもの道を歩きながら、何て清々しい春だろう…と思った。
家々の塀越しには、それぞれ色とりどりの梅がわが世の春を競うように咲いている。桜の蕾も膨らんでうっすらとピンク色に見える。しかし私の中で、急に不安の影がよぎった。それは朝のニュースを見たせいだ。イラクを巡る危険な兆候が、平和な日本にいる私をも不安にさせるのだ。イラクの人々は、いつ来るかもしれぬ空爆の恐怖に怯えているのであろうか…。そんなことを思っていると、このような幻想が浮かんだ。 1945年3月10日。早朝の東京の下町、江東・墨田・台東地区。そこには同じように朝日が輝いていたが、地獄のごとき背筋も凍り付く光景がどこまでも延々と続いていた。ほとんどの民家は焼け落ちてしまい、それでも火はまだ焼けたりないようにくすぶっている。性別も分からない焼け焦げた遺体がそこかしこに無造作に転がっている。中には、赤ん坊の側で、前のめりで子を倒れている母の姿もあった。その地獄の東京を、生き残った人々が、魂を抜かれたような、無表情であてもなく彷徨っている…。 58年前の3月10日の朝の情景だ。東京はまさに地獄そのものだった。しかしそれを今語る人は少ない。敗者としての遠慮だろうか。それとも余りにも悲惨な光景を語る勇気がなく、己の胸の内に納めてしまったせいだろうか。基地でも軍事工場でもない東京の下町が無差別に爆撃されたことは、明らかに国際法違反に当たる。前夜の未明暗い東京上空に終結した大型爆撃機B29は、344機に上る。低空で侵入したB29は、市民がひしめくようにして暮らす江東、墨田、台東にまたがる40kuの土地に火力の強い焼夷弾を投下した。たちまち火の壁が出来て、市民の退路は断たれた。そこに情け容赦のない爆撃が展開された。いや爆弾だけではない。逃げまどう市民には、コンピューターゲームのように血も涙もない機銃掃射が繰り返された。想像するだけで身の毛もよだつような悲惨な光景である。わずか2時間半に投下された爆弾の量は100万発、2000トンにも及ぶ。この夜だけで、死者行方不明者の数は8万人に上る。最終的には10万5千の市民が虐殺されたことになる。 戦争において敗者は常に悪の烙印を押されるのは、歴史の常識である。しかし勝った者が常に正義であったという確証はない。広島・長崎の前に、東京大空襲があった事実を日本人は、冷厳な歴史の事実として、語り伝えて行かねばならない。一方、多くのアメリカ人は、自分たちの国家があの暗闇の中で為した恐ろしい行為について知らないでいる。そして今また圧倒的な戦力差を知りながら、イラク市民を悪のリーダーフセインから解放するという美名の下に、自国を守るべき軍隊が、罪もなきイラク市民に無差別爆撃を強行しようとしている。この構図は、58年前の東京大空襲の時と何ら変わるものではない。アメリカは、白旗をかざし逃げまどう市民に爆弾を投下し、機銃掃射を浴びせかけつもりなのか…。 人間の歴史は、確かに戦争の歴史でもある。しかしどこかで平和が戦争によってもたらされたという間違った観念は、払拭されなければならない。平和は、戦争によって創られるのではない。はじめに「平和の思想あるき」だ。人々の心にしっかりと平和の種が植えられ、それが人々の心の内に大きな花を咲かせた時、平和は訪れる。これをロマンチックな幻想と言うべきではない。現在のイラクを叩く権利は、今のアメリカにない。武装解除しつつあり、戦うつもりのない者を叩くというのであれば、国際法に違反しているのは、アメリカの方ということになる。平和は圧倒的な軍事力によって、もたらされるのではない。またアメリカはベトナムでの轍を踏もうとしている。戦う目的もなき戦争で、アメリカの兵士たちの多くが単に身体を負傷しただけではなく、心が傷つき、今まだ苦しんでいることを、為政者たちのどれほどが理解しているのであろうか。 結論を導こう。もっと高い次元、例えば最高の善神、善仏の視点で判断すれば、どうなるであろう。目を閉じてじっと、その神仏の声を待った。すると私にこんなことを語りかける声が幽かに聞こえた。
戦争をする者よ2003.3.10 佐藤 |