詩人峠三吉の詩魂
−詩人に代わり、詩に込められた思いは生きる−
村山直儀先生が、同時多発テロのチャリティキャンペーンに「白馬」の絵を出展しているというので、動機を聞こうと、さっそく電話を入れてみた。
先生は、即座に「ああ、それはね、佐藤さん。峠三吉さんの精神だよ。」と言われた。私も「そうですか、よく分かりました。」と間髪を入れずに応えた。世の中には、多くを語らずとも阿吽(あうん)で分かることもある。 以前、先生から、「原爆と峠三吉の詩」(原爆雲の下より すべての声は訴える/編集下関原爆展事務局/取扱長周新聞社)という小冊子をいただいたことがあった。そこには広島に投下された原爆の悲惨を伝える衝撃的な写真と絵、そして峠三吉氏自身の詩と子供たちが書いた詩などが紹介されているような凄まじい迫力の本であった。思わず目を覆いたくなるような凄惨な死者の写真の連続だった。原爆によって亡くなった母にすがって、オッパイを求める乳飲み子の絵。さらに閃光と熱によって、ほとんど裸同然となった先生が、自らの教え子たちを引き連れて、必死で行進している絵なども掲載されている。 本の中で峠三吉氏の「八月六日」と題された詩が紹介されている。
あの閃光がわすれえようか
故峠三吉氏は、昭和20年(1945)8月6日、爆心地から三キロ離れた翠町で被爆した。辛うじて命を取り留めた彼は、国立広島療養所で、原爆の傷に苦しみながらも、昭和26年(1951)11月、アメリカ大統領がトルーマンが、朝鮮戦争においても原爆を使用することを検討しているというニュースを聞き、矢も立てもたまらずに、先のような詩を書き始めたのである。それは二度とあのような悲劇を起こしては成らないという彼の良心の叫びそのものだった。ちちをかえせ 昭和26年(1951)1月からわずか三ケ月の間に、彼は心に深く染み渡るような又刺すような悲しくもそして激しい十八篇の詩を一気呵成に書き上げてしまった。それはまさに平和を希求する全人類の祈りとも言えるような強烈なメッセージを放つ作品だった。最愛の妻和子夫人の手記によれば、彼は原爆の真実を押さえ込もうとする勢力の力を感じつつも、療養所の守衛の目を盗んで「窓ガラスに歯ミガキ粉を溶いてぬり、夜は新聞紙などをピンで止め」て夜中まで書き続けたということだ。同年、この一群の詩は、孔版刷りされ「原爆詩集」として「ベルリン世界青年平和祭」に、日本代表作品の一つとして送付された。彼の詩は、大反響を呼び起こし、平和を願う人々の六億の署名を集める原動力とも評されたのであった。しかしそれから二年後の昭和28年(1953)3月10日、彼はとうとう36歳という若さで帰らぬ人となり、広島の原爆碑に名を刻まれることとなった。来年の2003年は奇しくも彼の没後五〇年の節目に当たる年である。 これで村山先生が、同時多発テロの犠牲者に対するチャリティを始めたきっかけについて、何故「峠三吉さんの精神」だと言われたのか、その意味がよくおわかりだろう・・・。 犯罪を犯すのも人類なら、犠牲になるのも人類なのである。よく「宗教戦争」なる言葉を最近耳にするが、神はきっかけに過ぎず、その裏には常にどす黒い利権や国際的謀略という人類の欲望が隠されているのだ。 芸術家村山直儀は、同時多発テロという行為が、全人類に向けられた暴力であるという認識をもって、同時多発テロ犠牲者のチャリティに立ち上がったのである。彼の意志は明確に非暴力と反戦にある。そこには同時多発テロというひどい暴力を受けたアメリカが国家として、自国に暴力をなしたビンラディン率いるアルカイダやそれを助けたとされるアフガンのタリバン政権に対する報復攻撃を容認するような性格を持つものではない。よく根本を見つめれば、原爆も同時多発テロも、人間が人間に為した犯罪的行為であることに変わりはない。いかなる暴力もそれが人類ひとりひとりの生存の権利をその根本から否定する犯罪行為であるからこそ、峠三吉氏は、あのような強烈な原爆の詩を公表し、そして人類の良心に殉じて亡くなったのである。私は率直に言って、峠三吉氏の詩を読みながら、私という魂の中にある人間としての良心を奮い起こされる思いがした。そして改めてその詩魂(精神)というかその美しき良心を受け継いで行こうという村山直儀という孤高の芸術家の高潔なる精神に触れ、一瞬にして言葉を失っていたことに気付かされた・・・。佐藤
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2002.3.20