宅間守の刑死の夜に記す



2004年9月14日、宅間守が死んだ。享年40歳。昨年9月26日の死刑確定から、1年弱の異例の死刑執行だった。それにしても、この男が引きおこした池田小学校児童殺傷事件は、すべてが異例ずくめの事件だった。

平成13年(2001)6月8日、その男は、大阪教育大付属池田小学校に乱入し、小学二年生8名の命を奪うなど、23人に重軽傷を負わせ、逮捕された。その後、謝罪も反省もないまま、法廷の内外で被害者の遺族を罵倒し、社会に挑戦するような言動を繰り返してきた。

何故このような男が現代の日本社会に現れ、罪もなき幼子たちは、殺害されなければならなかったのか。考えれば考えるほど、悲しみが募り、暗い気持ちになる事件だった。今回の刑死で、幕が下りたとは、どうしても思われない後味の悪さが残る。

この間、日本中が犯人宅間守に注目し、その常識を越えた冷血さに強い憤りを持った。それでも、男はひるまず、全世界を敵に回すような横柄な態度で、「死ぬことなど怖れていない」と嘯(うそぶ)いた。死刑は最高刑である。人間社会が下す最高刑を怖れぬ者をどのようにしたらよいものか。司法当局にしても悩み抜いての刑の執行ではなかったか。

人は誰も罪人になるために生まれて来るのではない。掛け違えたシャツのボタンを直すように、その掛け違えを気づかせ、正させるような環境があったならば、罪人になることを免れることも可能だ。それには周囲の人々の温かい目が必要になる。残念ながら、この男の家庭は、そうではなかった。男の父は、「いつかはこんなことをしでかすと思っていた。早く死刑にして欲しい」と男を見放す発言を事件発生以来終始一貫繰り返してきた。

日本社会において、核家族化が進み、従来の家族制度の崩壊が、さまざまな弊害を生み出しているように見える。家族の崩壊だけではない。これまでは家族を含む地域全体が、子供の成長を見守っているようなところが日本の美風としてあったが、今は他人の子供を叱ることは許されなくなった。

全国いたるところで、都市化が進み、隣の住人の顔さえ見ることがないような現状がある。宅間守という男を生み出した日本社会の病根を、この国を支えている大人達は、もう一度真剣に、日本という社会のあり方と未来を考えることから始めなければいけない。

繰り返しになるが、世の中のあり方として、例えば掛け違えられたボタンについて、それを気付いた周囲の人が、「あなたはシャツのボタンを掛け違えているよ」と教えれば、それを素直に受け止め、掛け違えを直すような柔軟な社会に糺さねばならない。

二度とこのような悲惨な事件が起きないために。ただ学校の防備を固めるだけのではなく、このような男を生み出さない社会の創出こそが大切であると思う。家庭が崩壊している日本の現状をどのようにして、是正するのか。日本人の智慧が問われていると思うがどうであろう。
 
  宅間守が刑死した夜に五首
 死ぬことは「怖くはなくて安楽」と嘯く宅間に死刑の下る
 反省も謝罪もなしに逝く者を迎えに来るか阿弥陀さまとて
 逝く者よ大罪背負ひ逝く者よ地獄の釜に茹でられに行け
 遺族とて我が子失ふ悲しみは海より深き宅間死すとも
 罪人の刑死せる夜は月さへも姿を見せぬ新月の闇



2004.9.15

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