ブッダの死生観と宅間守の死


死刑囚、宅間守の刑死の報に触れながら、その余りにも今を生きるということについての投げやりな態度にやりきれないものを感じた。おそらく、彼にとっては死の恐怖よりも、今生で自分がなしてしまった悪行を背負って生きることが苦痛だったに違いない。その意味では、「もう少し生かしてしょく罪の念を持たせるようにすべきだった」という意見にも、「なるほど」と思うものがある。死よりも重い生の苦というものも確かにあるのだろう。それにつけても、人間がこの一回の生を生きるということの意味を知りたくなった・・・。

そこで、人間の寿命というものを少し考えてみることにした。

原始仏典の「サンユッタ・ニカーヤ」(邦題「悪魔との対話」中村元訳 岩波文庫)という中に、このような一節がある。
 

ブッタ「修行者たちよ。この人間の寿命は短い。来世には行かねばならぬ。善をなさねばならぬ。・・・生まれた者が死なないということはあり得ない。たとい永く生きたとしても百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである。」

悪魔「昼夜は過ぎ去らぬ。生命はそこなわれない。人の寿命は輪転する。車輪・・・が廻転するように」

ブッタ「昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。小川の水のように」

悪魔は、打ちひしがれて消える。


このブッタと悪魔の「寿命」についてのエピソードをどのように考えたら良いのだろう。ブッタは、「人の寿命は短い。だから今生きているこの瞬間をおろそかにせず、良い行いをしなさい」と説く。それに対して、悪魔は、「人の魂は不滅である。車輪が回るように。だから、人生は存分に楽しむべきだ」と反論する。

ブッダは再度説く。
「人間の寿命は尽きる」と断言する。
ブッダは、インド古来の思想の輪廻転生の考え方を受け入れていることは明らかである。しかしブッダは、輪廻転生の曲解を許さないのである。ブッダの教えの凄さは、今「この瞬間」、あるいは「今生の生」を精一杯生きる、ということに教えの主眼を置いているところにある。つまり良き未来は、良き現在の日々の行動の積み重ねによってしか生み出されないのである。

悪魔の誘惑は、生きていれば常にある。人は誰しも苦痛よりは快楽を求める傾向にある。しかしブッダは、その苦痛が今自分に降りかかっている意味を考えて、今を精一杯に生きることを勧めているのである。

つまり、ブッダは、輪廻転生の思想が、「一般に、今生はほどほどに楽しみ、又次の生で頑張ればいいや」というような安易な方向に人々の心が流れるの嫌っていることになる。もしかすると「どうして今生で善行を積めない者が、次の生で頑張れるというのか」、と言いたいのかもしれない。

新訳聖書に、「死後裁きにあう」(ヘブライ人への手紙 9:27)という言葉がある。もちろんこれは、「だからこの世で、良いことを行え」という意味になる。それは又、死後、神によって、裁かれ、罰を受けて「地獄の火に焼かれるかもしれないぞ」という戒めなのである。

ブッダにおいても聖書においても、やはり大切なのは、現在をいかに生きて行くかということに主眼が置かれている。これは同時に「死を畏れよ」という意味にも通じる。ブッダにとってもキリストにとっても「死」というものは厳粛な、命の終わりであった。

もっと言えば、「死を畏れる」ということは、自分が立派に与えられた今生の生を生き抜いたかという「自己省察」にも通じるのである。

今、余りにも「死」が簡単に語られる傾向にある。それは輪廻転生の思想を曲解した連中が、「どうせ、また生まれてくるのだから・・・」と安易な生き方に結び付いている感じもする。

「死」というものを軽んじる傾向は、何も日本だけのことではない、たった一度の生を大切に生きるという思想が、世界中で後退し続けている。至るところで続く戦争は、多くの罪もない人間の命を奪い、命の重みや尊厳というものが顧みなれなくなって来ている。だからこそ、私たちは、もう一度、今この瞬間瞬間を良きことを考えて生きるというブッダの考えを世界に伝えて行かねばならぬと思うのである。

 過てる輪廻思想を軽々に語るなかれとブッダの諭し 



2004.9.16

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