竹下登とは何だったのか?

幻影としての政治的怪物

本日(六月一九日)早朝、竹下登が死んだ。享年76歳だった。彼の経歴については、多くを語りたいとは思わないが、彼の生き様には大いに興味がある。一人の平凡な男性が、何をきっかけに政治を志したのかは分からないが、日本の政治風土のなかで、長年様々な怪物政治家と接して行く中で、自らが、巨大な怪物と化し、一国の総理大臣まで登り詰め、それでも己の政治的野心に満足することができず、キングメイカーと言われる政治的フィクサーに収まっていく姿は、まさに人間の業そのものの凄まじいエネルギーを見る思いがする・・・。

竹下登は、島根県の飯石郡掛合村(現・掛合町大字掛合)で造り酒屋をしている旧家に生まれた。太平洋戦争まっただ中の四二年に上京し、早稲田大学入学中に入学したが、在学中、学徒動員で陸軍飛行隊員として入隊し、陸軍少尉として終戦を迎えた。早稲田大学に復学し商学部を卒業後、四年ほど、郷里の中学校で英語の教師を務めていたが、政治家を志して、五二年に島根県議会選に出馬し初当選を果たした。 その後、五八年島根全県区から衆議院選に立候補し、トップ当選を果たした。以後、これまで14回連続当選を果たしていたが、先月健康上の問題を理由に国政から引退することを発表したばかりだった。

竹下登の人生は、まさに政治に生き、政治に死んだ人生だった。華々しく見えるが、実にあっけない息の詰まるような人生だった。彼の第一番目の師は、佐藤栄作元総理だった。佐藤栄作の業績の最たるものは、何と云っても米国との間で沖縄返還協定を調印し、沖縄を日本国に帰属させたことである。彼は佐藤栄作総理の時、官房長官として初入閣を果たし、自分で勝手に作った戯れ歌を歌っていたようだ。「十年たったら、竹下さん…」要するに、十年経ったら、自分が総理大臣になるぞ、という意味で、自己暗示でもかけていたのであろう。今でも彼は、佐藤栄作氏が所有していた、世田谷区代沢に住居している。

彼の第二の師は、金満ブルトーザーこと田中角栄だった。当時の田中派は、政商と言われたホテル王小佐野賢治のバックアップを得た抜群の集金力で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その時、田中の唱えた「日本列島改造論」は、一世を風靡し、大型工事を全国各地に、ばらまいて、ゼネコン各社やその系列企業に膨大な利益をもたらした。所謂空前の「列島改造景気」であった。そつのない竹下は、娘を大手ゼネコンの竹中組の御曹司に嫁がせて、財界との閨閥(けいばつ)関係をちゃっかりと作っていた。田中角栄の、政治的業績と言えば、第二次大戦後、国交の途絶えていた中国との間で、日中友好協定を結んだことであろう。田中は、ソ連にも行って外交関係を結ぼうとしたが、突如起こったロッキード事件により失脚した。一説に依れば、アメリカの頭越しに外交関係を結ぼうとしたことで、アメリカのCIAが仕掛けた疑獄事件とも云われているが、今となっては真相は闇の中である。

この間、竹下は、官房長官、建設相、大蔵相、党幹事長を次々と歴任。いよいよ、十年経ったら、竹下さんの戯れ歌を実現させるべく、意欲的に政界を動き回って実力を付けていった。その後、田中派を乗っ取る形で、八十七年に経世会を旗揚げした。これに対して田中角栄氏の逆鱗に触れたが、もはや脳梗塞で倒れた田中角栄に従う議員はなかった。この事件で、私はふたつのことを感じた。第一は、恐るべき政治家の変わり身の早さ。第二は、あの田舎の青年だった竹下登が、いよいよ怪物振りを発揮したことだった。

竹下は「気配りの竹下」と言われ、特に省庁の官僚の名前の覚えることでは、彼の右に出る政治家はないとまで云われた。結局、八十七年十一月、竹下は、念願である総理大臣になった。彼の総理大臣在職中の業績と言えば、八十九年四月に財政改革の目玉として出された消費税法案を可決したことだ。

これについてはいまだに賛否両論が渦巻いている。口の悪い人間は、「この消費税法案を通したことによって、日本経済に急速にブレーキがかかってしまった。だから失われた十年と言われるこの十年間の未曾有の不況の根源には、竹下の経済政策がある。いう者までいる。確かに一理ある意見だ。それでも怪物と化した竹下登の突進を止めるものはないように思われた。しかし急速に低下した内閣支持率は、竹下内閣を弱体化させ、最終的には、八十八年より巻き起こっていたリクルート事件が竹下登にまで波及し、竹下登は、八十九年六月、総理大臣を辞任した。裏切った師匠田中角栄と同様の無様な退任だった。この事件の最中で、竹下の秘書で金庫番と言われた青木秘書が自殺するなど、事件は政界全体を大きく揺るがした。結局竹下が、若い自分から憧れた総理大臣の椅子に座っていた期間は、僅か一年七ヶ月の短期間で終わった。

それでも怪物となった竹下は、総理大臣は退任したが、内面の政治的意欲は、ますます旺盛となり、自らを「平成の語り部」などと云いながら、影の総理大臣たらんとしたフシがある。ひどい時には、社会党の村山委員長を首相として担ぎ出し、自民党の政権維持に執念を見せた。また自分の子飼いの部下であった橋本や小渕と云った人間を総理大臣の椅子に座らせて、キングメーカー(実は影の総理)として、強力な影響力を保つなど、日本の権力構造に二重構造という歪(いびつ)な影を落とした。それでも、人間よる年波には勝てない。人間怪物に変化したところで、死ぬことを免れられる者はないのだ。

結論である。竹下登という政治的怪物が、現れたのは、日本の政党政治の構造と日本的組織に見られがちな和の意識が調整型の権力者を欲したからである。今世界的には、政策を中心とした政治的な考えを、選挙民に訴えて当選し、それを実践するための政治組織が、出来上がっていくのが、自然の形だ。ところが日本の場合は、政策よりも、既存の組織を維持することから、全てのことが始まる。だからどうしても組織を和する調整型の人間が、トップに位置することになりがちだ。現在問題化されている首相公選制は、竹下登のような怪物を作らないためにも是非とも必要なシステムかもしれない。

結論の結論である。竹下登など、何でもない人間である。その人間が、ある意志を持って、長年居座ることによって、そこに幻想が生まれ、本人もその気になって、怪物のような権威が生じる。でもその権威が幻想であるにも関わらず、現実に、それが機能してしまうのが人間の組織の怖いところだ。竹下登という怪物は結局その幻想性を容認する日本人とその文化が生み出した幻影なのである。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2000.6.19