高橋尚子と瀬古利彦の違い

マラソンに戦略的発想を持ち込んだ大和撫子


 
 
女子の活躍が目立つシドニーオリンピックで、またしてもヒロインが出た。女子マラソンの高橋尚子という選手だ。その愛らしい表情とは裏腹に本当に強い。とにかく自分でレースそのものを組み立てて、ひとつのドラマに仕立ててしまう選手は、後にも先にも、男女のレースを問わず、高橋以外には見たことがない。

高橋のレースを見ながら、何故か瀬古利彦という一人の伝説的なマラソン選手のことを思い浮かべていた。

今から20年も前のことだ。ソ連がアフガンに侵攻して、国際的な批判を浴びた。アメリカを始めとする西側諸国は、1980年に開催予定だったモスクワオリンピックを次々とボイコットしてしまった。もちろん日本も例外ではなかった。そこでとんだとばっちりを受けたのは、オリンピック出場に執念を燃やしてきたスポーツ選手だった。その中には柔道の山下やマラソンの瀬古がいた。瀬古は当時世界最強のマラソンランナーと言われ、先行するランナーの後ろにぴったりと付いて、最後のスプリント力を生かして、並み居る強敵を抜き去ってしまうレースを得意としていた。彼には中村監督という名伯楽(めいはくらく)が居て、まさに高橋と同じく二人三脚の師弟関係であった。

中村監督は、瀬古に対して、猛練習を課すかたわら、道元や聖書の話をするなど、非常に精神性を重視する指導者だった。そうした訳ではないだろうが、瀬古の走りには、どこか人生に苦闘する哲学者然とした悲壮感が漂っていて、見ていて辛くなることがあった。後で分かったことだが、瀬古本人は、極めて冗談の好きな明るい人物であるが、当時瀬古から受けるイメージは、禁欲的な求道者のようであった。

その中村監督が、「瀬古がいくら強いと言っても、オリンピックで、金メダルを取る確率は、自分の頭に人工衛星が落ちてくるようなものだ」と語ったことがある。これはおそらく瀬古に対する過剰なまでの金メダルへの期待から瀬古を守るために発した言葉であると思う。確かに当時の瀬古選手に対する日本中の期待は、常軌を逸するほど加熱気味であった。

そんな中で、瀬古は、ケガをしながらもマラソンレースにでれば、優勝という形が続いた。とにかく瀬古は強いんだ。そんな神話が余計に瀬古を苦しめ続けたことは確かだ。

世間の期待は、否応なく高まりを見せる中、モスクワオリンピックに出場できなかった瀬古は、次の1984年のロサンゼルスオリンピックに出場した。結果は14位であった。誰も予想しないような惨敗だった。原因は、暑さの中での練習のしすぎにと言われている。後に瀬古自身「とても走れる状況ではなかった。完走できればいい」との心境だったと語っている。こんな中で、瀬古を指導していた中村監督が、オリンピック後、心臓麻痺で思わぬ急死を遂げた。一人で立ち向かうことになったソウル五輪も、9位と振るわなかった。

高橋と瀬古の違いは、まずその表情の違いに端的に現れている。高橋には無類の明るさがあり、瀬古には求道者のような辛さがある。それはおそらく高橋と瀬古の本来持っている資質の違いかもしれない。どこまでも自分を追い込むタイプの瀬古に対して、高橋には走り終わった後で「本当に楽しい42.195キロでした」とけろっと笑って話す愛嬌がある。

そして二人の決定的な違いは、相手任せの瀬古に対して、自分自らで自在にレースを創っていく想像力にある。これまでとかくマラソンレースは、我慢のレースと言われ、レースの戦略という明確な考え方がなかったように感じる。しかし高橋のレースを見ていると、助走(15キロまで)、中間走(30キロ位まで)、疾走(40キロまで)、ラストスパート(最後の2.195キロ)と明確に走りのヴィジョンが戦略化されているように感じる。

もはやマラソンも高橋に至って、我慢のレースではなく、科学的にしかもより戦略的に見通して、作戦を立てる時代になったということである。だからマラソンは、根性とにかく我慢して走り抜くと考えている選手は、高橋尚子には勝てないということになる。その意味でも、自分で戦略を立てて、走り抜く持久力と戦略を持った高橋の出現は、これからのマラソンの新しい流れと言っていいだろう。

こうして瀬古以来ながく、根性で語られてきたマラソンレースは新しい時代に入ったと言えるであろう。

金メダルを手にしたその夜、高橋は、早くも「明日から、今度は世界記録を作る夢を持って、トレーニングしたいと思います」と語った。その横で高橋のコーチ小出氏が、「高橋には、紺でション次第で、2時間20分切るのは当然で、16分台で走れる力がある」と語った。「おいおい少し休めよ高橋」と、言いたくなる高橋尚子である。佐藤
 


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2000.9.25