黙って見守る・貴乃花 


2003年、初場所、二日目、雅山の思わぬ大技二ちょう投げを喰らって、貴乃花は同体取り直しで勝ち星を拾ったものの、左肩から落ちて雅山の180キロの巨体にのし掛かられて、全治一週間のケガをした。そして一日休んで、また出てくるという決断をした。

それに対して、角界関係者から赤の他人様まで、貴乃花の進退について、辞すべき、いや頑張るべきなどと、それぞれ勝手なことを云っている。横綱というものは、そもそも相撲の神宿っている存在なのだから、他人があれこれとこれに自分の思いを投影していうのは、まったく不敬なのである。たとえ、理事長だろうが、かつての大横綱の大鵬だろうが、千代の富士だろうが、それは同じだ。

神が宿っている人間に、そんなことを云うものではない。黙って見ていれば良いのだ。貴乃花の今場所の眉間に出る皺に注目してもらいたい。鞍馬山の毘沙門天のような皺がふいに浮かぶことがある。苦しいのではない。気を己の中に集めているのである。むろん自分のことなど考えていない。いかに横綱というものの存在が、どう在らねばならぬか、探っているかのようだ。昔の横綱は、限界が来る前に、いさぎよく花のように散って見せる横綱が多かった。みんなそうだ。双葉山、先代若乃花、大鵬、柏戸、北乃湖、千代の富士、大横綱から波の横綱まで、引き際は、実に呆気なかった。千代の富士などは、貴乃花に負け、体力の限界と一言云って、その座から退いた。確かに、その引き際は、実にさわやかで美しいものだった。

貴乃花の場合は、少し違う。周囲の小うるさい話には、仁王のような態度で、黙々と己の落ちて行く姿をそのままあからさまに見せているといった形だ。ある人間は、このような貴乃花の生き様に、神秘なものを感じる。と語ったが、その人は、きっと貴乃花の心境の中にある神聖な部分に少し気づき始めているのだろう。私もそれに近い感覚を持つ。おそらく相撲の神さまが貴乃花をして、体力が落ちて行きながらも、必死でその限界を超えようとする執念のような生き様を見せて、見るものに何かを感じさせようとしているかもしれないとさえ思う。

さてそれに引き替え、大関ながら、登り龍のごとき、朝青龍の猛々しいほどの強さはどうだろう。誰がどう見たって、今の貴乃花と朝青龍では勢いが違う。しかも貴乃花は、満身創痍の状況である。この十数年間相撲界を支えてきた横綱から、そんなに簡単に神が、この男に微笑むのかどうか、分からない。ともかくこの若き挑戦者と、重圧を背中に背負って戦う貴乃花が、最後どのようにして勝負をするのか、黙って見守っていたいと思うだけだ。

 佐藤
 

 


2003.1.16
 

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ