束稲山からのパノラマ

(2004年5月15日撮影)


連休明けの5月15日、束稲山に登ると、平泉の彼方に奥羽山脈の大パノラマが見えた。中尊寺の背後に一見烏帽子のようにも見える栗駒山がなだらかな稜線を南北に伸ばしている。目を衣川から前沢に転じれば、焼石岳がくっきりとみえる。こんなにはっきりと、栗駒山をこの位置から確認できたのは初めてだ。天候は決して快晴というわけではない。けっこう雲がある。それでも不思議なほどふたつの山が美しく見えた。

目を眼下に転じれば、北上川は、雪解け水を満々と湛えて、この大河の流域に拡がった大穀倉地帯を潤している。田んぼには奥羽山脈からしみ出した水が張られ、早苗が風にそよいでいる。所謂柳の御所の対岸は、今ではこのように形を整えらて巨大な水田地帯となっているが、かつては奥州藤原氏に仕える武者たちの屋敷もあったようだ。その頃、北上川は今より100mから200mほど束稲山に近い所を流れていて、この束稲山の前を流れる時、北上川は桜川と呼ばれていた。

束稲山に桜を植えたのは、安部貞任の父の安部頼良(のちに頼時と改名:〜1057)と云われている。この頃に、束稲山には、大変な数の桜の植樹がなされ、安部氏の遺産を引き継いだ形の奥州藤原氏の頃には、春には全山が桜色に染まるほどの花の山となっていた。

何しろ、花の歌人と云われ、桜の園である吉野にも庵を結んでいた西行法師が、束稲山の桜を見て、「聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」という歌を詠っているほどだ。桜は、意外に手間がかかる花である。世話をする人がいなくなるとたちまち桜は衰えてしまう。吉野山の桜も信仰との結びつきによって維持されている。

束稲山の場合は、庇護者の奥州藤原氏が滅びた頃から急速に廃れてしまったと想像される。今束稲山は、ツツジの名所となっているが、できればもう一度桜の山に戻す挑戦をする人が現れてもよい。

それにしても、バイパス工事の爪跡は深く醜い。衣川の護岸工事の跡もくっきりと見える。言葉もない。このような景観を未来の人たちに私たちの世代は遺そうとしている。これで本当に良いのだろうか。

 西行の歌こそ聞けよ束稲の山荒れけるは奥州の恥


2004.5.16 Hsato

義経伝説HOME

平泉景観HP