束稲山雑感

花の山を探して

束稲山から高館を望む
「2000.4.22/大雨の翌日)



昨晩(2000年4月22日)、大雨が降って、北上川は氾濫した。

かつて平泉付近を流れる大河北上は、束稲山の麓附近を流れ、櫻川と呼ばれた。それは束稲山が、吉野山をしのぐほどの桜の名所だったからの呼び名であった。北上は、桜の山「束稲山」の前でだけ、「櫻川」と名を換える。何と風情のあることではないか。

およそ九百年の時を遡れば、藤原清衡に始まる奥州藤原氏三代の御館達は、「平泉をこの世の楽土に」という並々ならぬ決意をもって、束稲山一帯を神々を鎮座させ桜の山に変えていった。

しかしそれも百年のうたかたに過ぎなかった。文治五年(1189年)奥州藤原氏が、源頼朝によって、滅ぼされて以降、桜の山として束稲山の輝きは、急速にその色を失っていった。その理由は、桜の山を支えて行こうという意志を持つ者が存在しなかったからだ。

今その束稲山に登り、四方を眺めてみても、かつて吉野を凌ぐとまで云われた桜の山「束稲」の面影はどこにもない。僅かに最近建てられたという西行の歌碑によって、かつての束稲山の桜の見事さが、偲ばれる程度だ。西行は束稲の桜を目の前にして、このように詠んだ。

 聞きもせじ束稲山の桜花吉野の外にかかるべしとは

束稲山 西行歌碑
桜と言えば、大和の吉野、奥州の束稲だったのかもしれない。もしもかつての束稲の美しさを知る西行が、現在の束稲山を見たとしたら、どんなことを心に浮かべ、どのような歌を詠むであろう。きっとただ言葉もなく、立ちつくし、涙をはらはらとながすかもしれない。

桜は、人の手を経て、初めて美しい花を結ぶ。例え「山桜」であっても、桜の山が美しく維持されるためには、桜を思う多くの人の手が不可欠なのだ。

かつて奥州の人々は、桜の季節この奥州の都、束稲山に神の花を見に来ることを大いなる楽しみとした。この山に来ることは、単に桜の下で酒盛りをするための花見とは少しニュアンスの違う花見であったはずだ。それは生きながら極楽浄土を観相し、来世への希望を感じるための一種の宗教儀礼でもあったかもしれない。

そんなことを思いながら、豪雨の後の束稲山に向う。昨夜の雨が嘘のように青空が顔を出し、栗駒山(須川岳)から吹いてくる風は、どこか甘い感じがした。実に心地良い。展望台に登り、平泉市内に目を移す。そこには氾濫し、どこが川と田畑の境か、見分けがつかないほどの暴れ川、北上が蕩々と流れている。おそらくは、このような大水を幾たびも経験し、束稲山の麓を流れていた北上は、今の位置に落ち着いたのであろう。

正面のこんもりした小山に黙礼をする。義経公最期の地、高舘である。その手前にあったと言われる弁慶の館跡は、今は北上の川の流れの中にあると言われる。何もない。本当に何もない。ただ大河北上を褐色の濁った水が勢いよく流れていくだけであった。

折からの大雨と寒さのため、平泉に残った僅かの桜は、ほとんど咲いていない。ただ一本、高舘の入口附近の若い桜を除いては・・・。佐藤



参考
平泉新旧地図(「平泉志」より)
 


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2000.4.23