平成の美談として

−この母ありてこの子あり−


人間の心を探ると自分の表層の意識では、意識できない無意識があると云う。そのことを心理学者のユングは集合的無意識と呼んだ。個人の集合的無意識は、単なる個人の意識を越えて、様々な意識と結びついていると云われる。例えば、源義経公について、多くの人間が「判官贔屓」という意識を持って、義経に同情の念を持つことも、あらかじめ自分の心の中に、義経公のような人間を慕うような元型(タイプ)があって、その気持ちをくすぐられるために、「判官贔屓」という考えが起こるのではないか、ということである。

またこれは数年前にダイアナ妃が、事故死し非運の死を遂げた時にも、多くの西洋の人間が、自分の中にある元型を刺激されて、あのようなダイアナ騒動が起こったと思われる。無意識は単なる無意識に留まらず、時には社会をも動かしてしまう時がある。

そうでなければ、ヒトラーのような指導者に率いられて、「ユダヤ人をこの世から抹殺しよう」などという社会現象は説明が付かない。考えてみれば、義経を語る人間が、何故あれほど熱くなって、たった一人の男を讃美するのか、もちろん彼は天才児には違いない。しかも貴き血を受け継ぐ者である。そんな人間が不遇な運命に弄ばれるように逃げ回る。

そのような物語を説話の類型では「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」と呼ぶが、まさに義経の生涯は、この物語に分類することができる。この種の話には、他にギリシャの叙事詩にあるオデュッセウスの物語やあの源氏物語の光源氏の須磨配流の話などもそうである。

よく異性を見て、「あの人タイプ」とか「タイプじゃない」と云ったりするが、同じように人間というものは、ある種の仕掛けを持って、集合的無意識を刺激されると、いとも簡単に騙されたり、共感を持って受け入れてしまいかねない危険性があるのである。

西洋では「アウシュビッツ体験」とか「アウシュビッツ以後」という言葉を使う歴史家がいるが、この言葉は、ある民族がある民族を歴史から抹殺しようとした怖ろしき企みに普通の人間が、加わってしまったことを歴史的反省として心に刻みつけるためにある言葉なのである。

我々一人一人の心には、自分自身が予期もせず、実際に冷静な目で見れば、何でそんなことが起こりえるのと、思ってしまうようなことを、容認してしまう危険な意識が眠っていることを常に考えておくべきなのだ。私はつくづくと、源義経公に思いの外に熱くなっている人をみるとそんなことを考えてしまうのだ。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2001.3.16